二 運命だからな
「ただいま」
恵美は家に着くなり階段を駆け上り、自分の部屋の扉を開けた。
ピオジアを受け取った後は、ベイエリアでお茶を飲んだ。智子は迎えにきた黒塗りのリムジンに乗り込んで帰っていた。恵美は少し歩いて国鉄の駅から電車に乗った。
生活水準の違いは、さほど気にならなかったけれど、恵美は、何時も誰かが傍に居る智子の事が羨ましかった。
母親は八年前に他界したし、父親ははじめからいなかった。恵美は母親の残した広い家に一人で住んでいたが、使っているのは二階の自分の部屋と、居間や台所と言った共有スペースだけだった。母親の部屋にはあの日から一度も入らなかったし、客間と兼用の和室も、月に一度だけ様子を見に来る祖母が使うとき以外は閉めてあった。
八帖間に置かれたOA机の両袖には、十九インチサイズのコンピューター用ラックがあり、どちらにもびっしりとコンピューターが取り付けられていた。左側にあるラックの電源は二十四時間入ったままの状態だった。
恵美は机の上に設置してあるスリムタイプパソコンの電源を入れ、ポケットのイルカをキーボードの脇に置いてから、制服を脱いで部屋着に着替えた。
机の中央を占領している大型モニターに起動画面が表示される。
『SACE BIOS v8.02 COPYRIGHT (C) 2030-2048 S.A.C.Electronics Inc.』
『R2.03 sett.06.2047』
『Main processor : SAKURA IV 10.0GHz』
『Memory testing : 200G OK』
画面が一瞬真っ黒になり、続いてOSが起動をはじめた。
『TOH-KA OPERATING SYSTEM ORANGE LINE : ROADING 』
恵美はコンピューターの起動を確認してから一階に下りた。台所に入り冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。果汁二十パーセントとの紙パックからグラスに注ぎ、ポテトチップスの袋を食器棚から取り出すと、自分の部屋に引き返した。恵美が部屋に戻るった時には、OSの起動は完了していて、モニター上にはアイコンが並んでいた。
「ピオジアか」
オレンジジュースとポテトチップスを机に置いた時、机の上に置いておいたイルカのペンダントが目に入った。
「どう言う意味なんだろう」
そのイルカを手にとって、じっくりと調べてみると、おなかのところに蓋があった。小さくて見逃してしまいそうなその蓋を精密ドライバーで開けてみると、中には接続用の端子と電源スイッチが入っていた。
「スイッチ? 動くのこれ」
端子に合うケーブルをクローゼットから引っ張り出して、ピオジアをパソコンにつないでみた。電源スイッチをオンにすると、接続状態を示すメッセージがモニターに現れた。
『PIOGIA connecting...success.』
『LOGIN?』
画面に認証用のウインドウが立ち上がり、ユーザー名とパスワードを聞いてきた。
「パスワードって」
イルカに関する事や、母親に関係ありそうな単語を片っ端から入力してみたが、それらはすべて拒否された。二百五十六回ほど試してみてから、恵美はその馬鹿らしい作業を中止した。
「だめだぁ。一体何なのよ、これ」
折角接続できたのに、パスワードがわからなければ動かない。だけど、そこには母親に関する何があるような気がしたから、諦めるわけには行かなかった。
「それにしても誕生日プレゼントだなんて、一体いま何月だと思っているんだろう。あのじいさん」
オレンジジュースを飲みながら、卓上カレンダーを見ていた恵美は、ふと肝心なことに思い当たった。
「わたしの誕生日ってことないよね」
試してみる価値はあると思い、恵美は、ユーザー名に自分の名前を入れ、パスワードに誕生日を入力した。
『USERNAME : emi』
『PASSWORD : 1024』
『I'm checking Your account. Please wait a moment.』
しばらく反応が無かったので、やっぱりダメかと諦めかけた時、画面にOKの文字が現れた。
「やったあ!」
恵美は両手を上げて喜んだ。
「何がそんなに嬉しいんだか」
モニター付属のスピーカーから、突然男の声が聞こえてきた。恵美は手を上げたまま、固まった。
「だれ?」
「俺だよ、おれ」
「振り込め詐欺?」
「お宅の恵美さんが交通事故を起しましてね、示談金として五百万振り込んで――」
「恵美は私だけど」
しばらく気まずい空気が漂った。
「オッス! おいらピオジア」
「あんた喋れるんだ?」
「悪かったな」
「いや、悪くないけど。実際のところあんた何者?」
画面にはイルカのグラフィックが泳いでいて、男の声と連動していた。
「おれはピオジア。マイクロマシンを使用した、自律制御機能付人工知能だよ。別名考えるイルカ。いまどき考えて話すアンドロイドなんて珍しくも無いだろう。人工知能搭載のアクセサリーだって売ってるもんな」
「まあ、そうだけど」
人間同様に会話を楽しめるぬいぐるみが一人暮らしの女性に人気なのだと、恵美もニュースで見たことがあった。しかし、これほど小さな筺体に入る人工知能はまだ一般化していないはずである。
「あんたにメッセージがあるんだけどな。聞くか?」
「誰から?」
「差出人は北山恵子だよ」
「お母さん?」
「聞くんだろ?」
恵美は大きく頷いた。
「ところで、ここには三次元投影装置は置いてないのか?」
「あるよ。ちょっと待ってて」
恵美は向かって右側のラックにあるすべてのマシンの電源を入れた。一番上には三次元投影装置の光源部が搭載してあった。機械が暖まると、初期画面が部屋の中央に映し出された。三次元ホログラフマシンのデモ画面だった。
その映像が終了すると、今度は白衣姿の女性が現れた。
「恵美へ」
映像として現れた北山恵子は、そこで一旦言葉を止めた。
「あなたがこのメッセージを受け取った時には、わたしはもう生きていないでしょう。これはその時の為に用意しておいた、いわば遺言です」
「遺言?」
「私は以前から、あるコンピューターシステムを管理する仕事をしていました。そのシステムがあまりにも危険な存在になったため、私の独断でそれを封印したのです。けれどそれは、いつの日にか必ずこの国で必要になる時が来るはずです。だからその封印を解く鍵を作っておきました。その鍵はある人に渡してありますが、いつかあなたの手に渡る事になっています。鍵はその時が来るまで誰にも渡してはいけません。お願いよ恵美。約束、だからね」
言い終わると画像は消えた。母親は、八年前と変わらなかった。データーとしての彼女は永遠に年をとらないまま残るのだ。
「これだけ?」
「これだけさ。久しぶりに母親に会えたというのに、涙の一つも出ないってか」
「そんなもの、とうの昔に出尽くしたのよ。それより、鍵って何のことよ」
「封印されたシステムの起動用アクセスコードのことじゃないのか」
「それは今何処にあるの」
「さあな」
「さあなって……」
「忘れちまった」
「何よそれ、ふざけないでよ!」
恵美が机に手を叩きつけた。その振動でピオジアの本体が転がった。
「ふざけてなんかいるもんか。本当に忘れちまったんだよ。それが一体何なのか、自分が一体何者なのか」
「分かった。もう良いわ」
倒れたピオジアを元に戻してから、恵美は椅子に腰掛けた。
「確かなのは一つだけだ。そのシステムはとても恐ろしい力を持っていて、使い方を誤れば、地球だって滅ぼすことが出来るのさ」
「地球を? ばかばかしい。私は研究者でもなければ政治家でもない。ましてや地球を救う正義のヒロインなんか無いんだからね。いわばただの女子高生よ。そんな私がどうしてそんな物騒な物をもっていなきゃならないのよ」
「どうしてかって? そりゃ簡単さ」
恵美はピオジアを睨みつけた。
「運命だからな」
モニター上のピオジアは不敵な笑顔を浮かべていた。