一 母からのプレゼント
南サガレン自治州南部の港町・ルタカにある州立ルタカ西高等学校の校門近くには、大きな桜の木があった。花はちょうど満開で、舞い落ちた花びらが、時折、下校途中の生徒の髪を美しく飾りつけていた。山の斜面に建てられた校舎の外壁に付いている直径七〇センチもある大きな時計の針は、午後三時を回っていた。
校門に近いグランドでは、サッカー部と野球部が準備運動を終えて、本格的な練習をはじめる準備をしていた。校舎脇では、演劇部の発声練習が聞こえてきた。
格技場の半分は空手部が使っていた。
部活の数より格闘場のスペースが少ないため、活動日が部活ごとに決められていた。残りの半分を使っているのは相撲部で、順番に張り手の稽古をつけていた。
空手部では、恵美と高田信二とによる組手の試合が行なわれていた。背が高く、がっしりとした体格の高田は、二年生ながら部長だった。
「高田部長! がんばって!」
二人を取り囲むように座っている部員たちが、高田に向かって声援を送った。その大半が女子部員だったから、高田はにこりと笑って返事を返した。
高田は、ルタカで一番有名な道場に通う黒帯だった。高校一年生の夏に、州大会の無差別級でベスト四に入るほどの実力と、人並み以上の容姿のおかげで、特に下級生の女の子には人気があった。空手部に所属している女子の八割が部長目当ての初心者で、黒帯を持っている女子部員は、三年生にしか居なかった。
「はじめ!」
審判役の掛け声を合図に、高田は両手を前に構え、何度か軽く跳躍すると、ひざを曲げて体勢を整えた。
恵美は深呼吸して力を抜き、対戦相手の高田を見た。
高田とは異なる流派の小さな町道場で教わっている恵美は、今まで公式試合に一度も出たことが無く、帯も白いままだった。空手部に入部したその日に、黒帯の先輩三名をあっという間に倒してから、ほとんど部活に姿を見せなかった。そして月に一回、ふらりと部活に現れては、必ず黒帯を倒していった。だから恵美以外の空手部員は、恵美の事を道場破りと呼んでいた。
道場破りは、今日も突然現れて、部長に組手の試合を申し込んだ。恵美と互角に戦えるとしたら、部長の高田だけだった。黒帯をしているとは言え、他の部員は大会で予選どまりの実力だから、恵美と対戦する事すら拒否していた。
「北山先輩。悪いですけど今日は勝たせてもらいますよ。今まであなたに敗れて言った先輩方の敵討ちです。覚悟してください」
高田は体全体をこまめに動かし、攻撃のタイミングを見計らっていた。それに対して恵美はまったく動く気配が無かったし、構えさえ取らずに高田の動きを観察していた。
「腕を上げた?」
「ええ、前回よりは」
高田が先に攻撃を仕掛けてきた。すばやく恵美の懐に飛び込むと、右のこぶしを恵美の胸に向けて突き出した。
しかし恵美は、余裕で高田のこぶしを押さえ込み、左足を軸に一回転しながら、自分の背丈よりかなり上に位置する高田の頭に、右足を振り上げた。
「しまった!」
寸止めされるはずだった恵美の足は、止まる事なく高田の頭を直撃した。彼はその衝撃で数間吹っ飛び、隣りで張り手の稽古をしている相撲部の前に落下した。運悪く相撲部長の張り手を食らった高田は、その場で九十度方向転換して格技室の壁際に並べてあった卓球台に突撃した。
「あっちゃー」
恵美は顔面を手で隠した。
格技場が静まり返り、バランスを崩した卓球台の倒れる音が、格技室に響き渡った。
「い、一本?」
審判が恐る恐る判定を下した。恵美の足は振り抜いては居なかった。ただ、止める位置を少し間違えただけだった。
後輩達に抱き起こされた高田は、頭を掻きながら戻って来た。恵美は戻って来た高田に謝った。
「ごめんね高田くん。寸止めの位置間違えちゃった。頭、大丈夫?」
「ええ、ちゃんと受身は出来ましたから」
高田はとっさに両腕で恵美の蹴りを受け止めていた。だから頭に直撃はしなかったようだった。
「さすがベスト四ね」
「いいえ、やっぱり北山先輩には敵わないですよ。またお相手してくださいね」
向かい合って礼をした後に、高田が右手を差し出してきた。恵美は一瞬躊躇した。男子と手を握ったことが無かったからだ。しかし、高田の笑顔に引き込まれるように、しっかりと握り返した。
「そうね、気が向いたらまた来るよ」
恵美は高田に向かって小さく手を振ってから、智子が覗いている屋外への出入口までやってきた。
恵美の顔は緊張で引きつっていた。
「なに覗いているのよ」
智子はいつも通り、優しい笑顔を振り向いていた。彼女の後ろには、智子とは対象的に無愛想な那知がいた。恵美は那知の役目を知らなかったから、どうしてこの二人がつるんでいるのか、恵美には理解できなかった。
「相変わらずつええですね。けど、ここの部員じゃ、練習かてならへんでっしゃろ」
「そんな事無いって。うちは門下生が少ないし、お互いのクセを知っているから、かえって練習にはならないの。普段対戦してない相手だと新鮮だしね。結構楽しいよ」
恵美は駆け寄ってきた後輩の男の子からタオルを受け取り、顔の汗を拭きはじめた。彼は恥ずかしそうに一礼して去っていった。見慣れない顔だから一年生だろう。高田と対照的に男子部員はほとんどが恵美のファンだった。強いが正義といわんばかりに褒め称えてくる後輩たちは、時々うるさく感じたけど、恵美にとって、悪い気はしなかった。
「ちびっとは手加減してあげればよかったのに」
「どうして」
「きっと部長はん、いいとこ見せたかったんだと思うんどすなぁ」
何時の間にか、高田は新入部員の女の子を集めて基本の型を指導していた。彼はとても楽しそうに笑っていた。
「知らないわよ。そんなこと」
「好きな相手かて手加減でけへんだね」
「ちょっと、それ、どう言う意味よ」
「なっとてへんです」
智子はカバンからスポーツドリンクを取り出しすと、真っ赤になった恵美に渡した。智子は妙に敢が鋭い。恵美が高田に気があることを見抜いているのは多分智子だけだろう。
「恵美ちゃんて、ちびっとちべたいよね」
「え? そんなこと、無いと思うけど」
「それなら、あたしの買いモンに付き合ってくはるよね」
「そんなの、彼氏と行けばいいじゃない」
智子は時々、大学生風の男とデートをしていた。もちろん彼も側近の一人なのだが、はたから見たら彼氏に見えた。智子もきっとその方が都合がいいのだろう。敢えて否定はしなかった。
「断られてしもたの」
「私も嫌よ」
「やっぱりちべたい……」
智子は突然泣き出した。
「あんはんの事お連れだと思っとったのに」
「分かったよ。行けばいいんでしょ。一緒に行きます。行かせてください」
恵美が慌ててそう返事をすると、智子は涙をぬぐってから、にっこりと微笑んだ。
「おおきに。さすが恵美ちゃん。愛してる」
智子は恵美の背中を力いっぱい叩くと、笑いながら桜の木の方へ戻っていった。
「ちょっと、智子! あんた――」
演劇部の主演女優である智子の泣きまねは一級品だった。彼女と付き合いの長い恵美でさえ、いままで何度もだまされた。恵美は悔しさのあまり、飲み掛けのスポーツドリンクを智子に向かって投げつけたが、それは智子に届くことなく、液体を撒き散らしながら中庭を転がった。
「またかよ、ちくしょう」
空手部の連中に先に帰ると言い残して、恵美は道着から制服に着替え、昇降口へと向かった。
校舎の地下一階にある生徒昇降口には、帰り支度を終えた智子が居た。もちろん那知も一緒だった。
「なんだ、やっぱ深田さんも一緒なんだ。だったら、二人で行けばいいのに」
「あたしは恵美ちゃんと一緒に行きたいんでっせぇ。那知も一緒だけど勘弁しておくんなはれ」
「別に良いけど、深田さんはいいの」
深田は黙って頷いた。
「それほなあ行きまひょ」
校門へ向かう途中、智子が桜の木をちらりと見たのに恵美は気付いた。
だけど、そこには誰も居なかった。
「麻紀は帰ったの?」
「はい」
その名前に聞き覚えがあったけど、恵美は思い出せなかった。
「で、今日は何処に行くの」
「ベイエリアでっせぇ。注文しておいた商品を受け取りにいかはったんです」
西高校の校門を出ると急な下り坂になっている。そこからはルタカ港がよく見えた。客船や漁船だけではなく、戦艦や駆逐艦など海軍に所属する船も沢山いた。
港には古い煉瓦造りの倉庫が立ち並んでいて、半分がショッピングセンターやレストラン、劇場などに改造されていた。いつでも多くの人で賑わっていたが、ほとんどが西高校の生徒と修学旅行や、ツアー会社の企画旅行に参加している観光客だった。
「目的の店は何処にあるの」
「あの橋を渡って直ぐのところでっせぇ」
海岸沿いを歩いていくと、埠頭の途切れた所に古い石橋があった。車一台がやっと通れるほどの幅しかないのに、修学旅行の中学生が橋の上を占拠して、交替で記念写真を撮っていた。
「こんな所、何処がいいのかね」
「あんた知らへんの? ここは映画のロケで有名なんよ」
「へえ、そうなの」
恵美は実写映画よりアニメーションの方に興味があったから、ロケという言葉にはピンと来なかった。
通路の半分以上を占拠していた中学生を避けて橋を渡ると、そのたもとに場違いな店があり、軒先には沢山のダンボールが並べてあった。どの箱にも「ジャンク品」と書かれていた。店構えからして妙に寂れた感じがしたが、恵美はその店がとても気になり、立ち止まった。
「智子さん」
那知が、並んで歩いていたはずの恵美の姿が消えたので、智子を呼んだ。智子もそれに気付いて振り返った。
「何やしたの?」
「あ、うん。智子の行く店ってどれ?」
「あれやけども」
智子は二軒先のアクセサリーショップを指差した。店の外まで人が溢れていたが、そのほとんどが女子高生だった。
「こっちの店に行っていてもいいかな」
恵美は自分の前にあるジャンクショップを指差した。
「恵美ちゃんも一緒に行かいへん」
「わたしあんまりアクセサリーとか興味ないし」
「ちょとぐらいヤツすしたらいいのに。元が綺麗そやさかいかててるよ、きっと」
「そんな事無いって」
「ほんまかてったやらへん。まあいいけど、終わったら迎えにいかはったよ」
智子が目的の店に入るのを見届けてから、恵美はその店に近づいた。
店の前のガラスには、中古パソコン、パーツ、ジャンク品と言う言葉の書かれた張り紙が無造作に貼ってあった。店の前にあるダンボールに入っているのは、パソコン用の増設カードや、記録用のメディアなど多岐にわたっていた。どれも一昔前の商品で、興味はあるけど、必要ないものばかりだった。
智子は古い引き戸を開けて店に入った。やや薄暗い店内にはスチール製のラックが所狭しと並べてあり、中古のパソコンをはじめ、コンピューターの関連商品がきちんと並べられていた。ハードウェアーに興味のある人間にとって、ここは宝の山だった。
「あ、これは!」
智子は、手近な棚から、パーツを一つ取り出した。
「SACEのグラフィックボード!」
それには十六万という値札がついていた。希少品だから高いのは無理もなかった。
SACEは、コンピューターパーツのメーカーとしては州内唯一で、その性能は世界に誇れるレベルだった。しかし、それゆえコストが掛かり、一般の同等商品よりかなり値段が高かった。
恵美は、そのパーツを手に入れたいと思ったけれど、あまりにも高すぎたので、躊躇していた。今月は臨時の出費があったから生活費が苦しかっし、これ以上浪費するわけにもいかなかった。
「やっぱ高いな、これ」
物欲しげにそのパーツを眺めていると、店の奥から小柄な老人が現れた。彼は恵美を見つけて驚いたが、やがてに恵美に向かって手を振った。
「おーい君。気に入ったパーツがあるんやったら、一つだけ持っていっても構わんよ」
「え?」
恵美は突然の事に驚いて、持っていたパーツを落としてしまった。
「あんたのお母しゃんには、随分とお世話になりよったからね」
落としたパーツを拾おうとしてかがみこんだ恵美は、その体勢のまま固まった。
「いま、なんて?」
「まるっきし惜しい事ばしたもんやけん。あれほど技術者には、滅多にお目にかかれなかんばいね。北山恵子は、我が国で二番目に優秀なプログラマーやったのにな」
老人はレジカウンターの向こう側に座ったままタバコに火をつけた。
年寄りが「この国」という単語を口にする時、それは南サガレン自治州の事を意味するのだと恵美は知っていた。
「あんたもそうおもうやろ。北山恵美さん」
恵美は、パーツを拾って、レジへと向かった。自分の名前と母親の事を知っているこの老人に興味が沸いた。
「母をご存知なんですか?」
「まあな」
「母は自分の仕事について、わたしに何一つ話してくれませんでした。だからわたしは、母親がどんな仕事をしていたのかを知らないんです」
「それは賢明だな」
「賢明?」
「ああ、あれば実際やばい仕事やった」
「やばいって、どう言うことですか」
「危険ってことばい」
恵美は、老人の言いたい事がよく分からなかった。
しかしその老人は、そんな事などお構いなしに、煙を天井に向かって吐き出してから、タバコを灰皿に押し付け火を消した。
「じつは、あんたに渡す物があるんばい」
老人は足元から小さな箱を取り出した。箱には利久華亭とかいてある。
「その箱」
北部の町に本社を置く利久華亭は、和菓子を中心に人気があった。ルタカにも支店があるけれど、いつも行列が出来ていて、簡単には手に入らなかった。その事がいっそう、そのお菓子の人気を高めていた。
「うちは此処の和菓子がえらい好いとぉんやけん。ばってん中味は残念ながらお菓子やなかよ」
箱の中から出てきたのはイルカの形をしたペンダントだった。
「もしあんたがこん店に顔ば出したら、これば渡してくれと頼まれとったんやけん。誕生日プレゼントだな」
「でも、誕生日はまだ……」
「ちょこっと早いが、まあよかやろう」
恵美はそのペンダントを手にとった。
キャラメルくらいの大きさで、全体が淡い水色をしている。デフォルメされたデザインのため、かなりかわいい顔だった。
恵美はこのプレゼントが気に入った。
「そいつの名はピオジアってゆうんやけん。大事にしてくれよ」
「名前があるんですか」
「ああ、あんたの母親が付けた名前だ」
「これは母から?」
「いいや」
老人は二本目のタバコを吸い始めた。
「北山恵子の友人からばい」
ピオジアをポケットにしまった恵美が、グラフィックボードの入った紙袋を手にして店を出ると、ちょうど智子が、自分の用事を終えて店から出てきたところだった。
「どうどした? あの店。ええものありました?」
「うん。まあね」
恵美はパーツの入った袋を見せた。
「なんどすかそれ」
「グラフィックボードだよ」
「そへんどすえか」
智子はまったくと言って良いほどハードに興味がなかった。それは、いつも最新で、最高スペックのマシンを使っているから、ハードに気を使う必要が無いからだった。
だから智子は、恵美の話を聞いても、軽くうなずくだけだった。
「それだけ?」
「あとこれをもらったの。誕生祝だって」
恵美は、ポケットからイルカのペンダントを取り出して智子に見せた。
「かわええね、それ」
ピオジアを覗き込んで智子は笑った。
「店のおじさんが、母親の友達から預かったって言っていたな」
「どなたはんの事どすかね」
「名前は、知らないんだってさ」
店の老人に聞いたけど、名前は教えてくれなかった。母の友人なら、一度ぐらい家に来た事が在るかもしれない。何とかして思い出そうと試みたが、母は知人を家につれて生きたとはなく、恵美も誰かに紹介された覚えが無かった。