プロローグ
吉野麻紀は、校門のそばにある桜の木の下から、格技場を眺めていた。
麻紀は腰まで伸ばした長い髪を一つに束ねて、上下とも紺色のセーラー服を正しく着ていた。その清楚な身なりは、優等生をイメージさせるが、彼女の背中にある木刀がそれを許さなかったし、彼女の存在感は、他の生徒とは明らかに違っていた。
クラスでは友達が出来なかった。けれど麻紀は、それを寂しいとは思わなかった。友達など、必要ないと思っていた。
「ごめんやす、吉野はん」
桜の木の後ろから、三年生の西条智子が現れた。
「西条様」
「学校でそへんな呼び方は止めておくんなはれ」
「すいません、西条先輩」
智子は背が高く、美人だった。家柄は申し分なくお金持ちで、性格も良いから、西高校だけでなく、この地域のほとんどの高校生が彼女に憧れていた。
けれど彼女に声を掛けるような、勇気のある人物は一人も存在しなかった。
智子の母親である西条家の当主は、この自治州の中心的人物であり、北部一帯の土地を所有する地主でもあった。政治、経済、そして文化でさえ、彼女を中心に回っているといっても過言ではなかった。それを快く思っていない人間も多くいて、智子も常に狙われていた。そのため、智子の身を守る側近が、学生や教員としてこの高校に潜伏していた。
麻紀もその中の一人だった。
智子の三歩後ろに控えているのは、智子と同じクラスの深田那知だ。麻紀より更に目立たない格好をしている彼女は、麻紀と同じく智子の身を守るためにこの高校に在学している側近だった。彼女は二十四時間三百六十五日、智子のそばに仕えていた。
彼女たちは、組織的に動くことがなかったから、新人である麻紀は、那知と一度も話をした事が無かった。
「吉野はんは、こへんな所で何をやっとるのかいな?」
「いえ、別に……」
麻紀は格技場から視線をそらした。
格技場は最近新築したばかりだった。設計が悪く、うまく換気が出来ないため、使用する時は何時でも出入口の扉を開けていた。格闘技から図太い男の声に混じって、時折黄色い声が聞こえて来た。
「ああ、恵美ちゃんな」
「ち、違います」
麻紀が北山恵美を知ったのは、高校に入学してすぐの事だった。廊下で背が低くポニーテール姿の彼女とすれ違った時、その隙の無さに驚いた。しかも少しの殺気も感じないのだ。恵美は、麻紀の視線に気付いて笑いかけてきた。
麻紀は、その時、まったく動く事が出来なかった。
それ以来麻紀は、恵美の事が気になって仕方がなかった。武道家として、一度は対戦してみたいと願っていた。
智子は、そんな麻紀の思いを知っていながら、彼女と戦うことを許さなかった。智子と恵美は同じクラスの友人だったが、それとは別の複雑な問題があるようだった。
だから麻紀は、遠くから恵美を見つめる事しか出来なかった。
「ほな、ちびっとだけ覗いてこようかいな。あんはんはここで待っていやす」
智子は、麻紀の肩を軽くたたいてから、格技場に向かって歩き出した。
那知は、麻紀には見向きもせずに、智子の三歩後をついていった。