二話 ゲッカノハナ 壱
投稿遅くない?(自虐)
ある青年が、一人の少女に恋をした。
しかしながら。
彼には、恋がわからぬ。
色事には抜群なのだが、愛寵する段となると、てんで、駄目であった。
彼は、生まれつき、他者を悦ばす術を知っていた。
彼は、息をするように何某を掌握した。
彼に籠絡されぬ者は、いなかった。
それゆえに。
彼が何者かに恋慕の情を覚えることは、最早なかった。
代わりに湧き上がってくるのは、諦念。
それもそのはずである。
彼にとって、モノにできない異性など存在しなかったのだから。
いつの日か、彼は、己にまとわりつく何やらから逃れるように、住み慣れた故郷を後にしていた。名のある家に生まれ、何不自由なく暮らしていた彼であったが、それを捨てて生きることに些かの抵抗もなかった。何より彼が恐れていたのは、自身への情愛を拗らせた「ヒト」であった。度の過ぎた「愛」ほど恐ろしいものもない。あえて嫌われるよう振舞ってもみたが、生まれついた質の根は深いようで、ソレが青年の意思に従うことはなかった。
長途の果てに行き着いた地は、帝都。故郷から遠く離れたこの場所なら、女流が容易く靡くこともなくなるだろう、と。そう考えていた。
だが、彼の才が腐ることはなかった。持ち出した路用が尽きる頃には、既に三食と寝床を確保し、同居人から、あるだけの情報を聞き出す程度には、冴え渡っていた。
幾月か経ち、彼は、街の女子を相手に歓楽店を営み始めた。その際、会話に難儀せずに済んだのは幸いであった。それは皮肉にも、かつてのコイビトたちから授かった武器であった。
店の評判は上々で、客の入りもよかった。
彼は、社交場を兼ねていたそこで、柔らかな笑みを貼り付け、甘い言葉を囁きながら、未だ見ぬ無二の女性を待ち続けた。......
もはや彼は、巷で耳にする「愛」というものは大層高尚な代物なのだろう、などと考えることすら馬鹿らしく、よもや、己が何者かに焦がれるなどとは、夢にも思っていなかった。
────突如、「リーダー」と名乗る女性が、目の前に現れるまでは。
彼女は、青年に告げた。
君の才能を活かしたい、と。
貞淑という名の頑強な鎧すらも溶かし尽くす、その『危険な快楽』が欲しい、と。
そして、眼前に紙幣の束を山ほど積み上げ、あろうことか、それを手付け分だと宣う。
また、君の本当に望むものも与える、とも。
青年にとってそれは、確かに魅力的な条件であった。
そして何より、彼の容姿、言動、仕草などを、まるで歯牙にもかけていないような様子の彼女に、彼は惹かれていた。
ただ、恐怖してもいた。
何もかもを見透かされているかのような視線に。何より、彼女から発せられる、鳥肌が立つほどに濃密な悪意の気配に。
青年は、思考した。
恐らく彼女は、ここら一帯の元締めか何かだろう、と。
そして返答を間違えれば、何をされるかわからない、と。
また、回答を無意味に引き延ばすのも悪手と思われた。
そうして、幾らかの逡巡の後。
青年は、恭順という選択をとった。
......
そんな劇的な邂逅から、幾年か経った頃。
青年は、「リーダー」の下で、持ち前の観察眼や話術、独自に築き上げていた情報網などを存分に活かしていた。その甲斐あってか、彼女の信頼もめでたく、彼は人事部門の最高責任者にまで任じられることとなった。その権勢は、帝都中央の歓楽街一帯を取り仕切るまでに至り、移住当初に抱えていた生活に関わる不安などは、もはや消え去っていた。
そうして、遂に、転機が訪れた。千載一遇の好機である。あるとき彼は、「リーダー」から、とある話を持ちかけられた。それは、彼が長年希い続けた報せであった。
「君の眼鏡に適う娘が見つかったかもしれない」。
その人物を何としても引き込みたい、という旨を伝えられた彼は、一も二もなく了承した。長きにわたり、理想の女性を追い求めていた彼にとっては、渡りに船であった。
......とはいえ、その実、彼は期待すらしていなかった。
どうせ、今までの奴らと同じに違いない。
甘い言葉や手技を駆使すれば、容易に骨を引き抜ける。
そう考えていた。
対象はどこかの令嬢であるというが、所詮は「そこそこの名家」止まり。恐ろしくも頼れる上司が根回しをしてくれていたようで、すんなりと建前上の縁談、顔合わせにまで漕ぎ着けた。
しかしながら、青年の第一印象は、最悪といってよかった。
対象の少女は、終始、彼に対して懐疑的な目を向けていた。
その時点で、彼の期待は多少高まったが、それだけであった。
所詮は、情欲に塗れた、ヒトの雌。
「触れさえすれば」何とかなる。
そんな心境、己が忌避されている状況を、彼は気にも留めていなかった。
寝室にでも忍び込んで、可愛がってやればいい、と。......
そうして、例の如く、手慰み程度の認識で、藤髪の少女に手を伸ばした彼は────
────己が自慢の面貌に、華奢な拳を深深とめり込ませることとなった。
道和十一年 五月 帝都郊外 某所
「もう、やめてください」
人気のない空き地に木霊する、悲痛な叫び。声の主である少女の息は荒く、身体にはいくらかの生傷が拵えられていた。
「いいね。その調子だ。もっと怖がるといい」
そう言って、地べたにへたり込む少女を見下ろすのは、どこか草臥れた雰囲気を身にまとう男。
「警邏を呼びますよ」
「お生憎様、僕がその警邏だ」
「鬼、悪魔、三査......!」
「何とでも言うといい。ほら、続きだ」
警邏と名乗った男が少女の嘆願に構う様子はない。......それどころか、彼は。
「気を抜くと、骨の一本や二本、持っていかれるよ」
とだけ吐き、ごく淡淡と、眼下の藤頭に蹴りを放った。
それはさながら、珈琲に角砂糖を放り込むかのような気安さで────
──── ──
そうして、振り抜かれた足は、空を切る。
少女は、回避の勢いで前転。
そのまま、男の懐に吶喊し。
華奢な拳が、迫る。
男は、それを、甚く無駄のない動きで逸らし。
勢いを殺さぬまま、後方へ流し、転す。
────少女の瞳に、感情の色はなかった。さながら、細糸に繰られる人形が如く。
それこそが、彼女の生まれ持った性質ゆえに。
────男に、余裕などなかった。その眼に映す世界は、走馬灯が如く。
一手でも誤れば、地に伏すのは此の方ゆえに。
それは紛れもなく、両者本気の闘争であった。
......
どれ程、打ち合っていただろうか、と。
二人の視点から語るならば、こう表現するのが妥当だろうか。
それは、ほんの短い間の応酬であったが。
二人の認識していた世界は、ひどく引き延ばされたものだった。
────初めて両者が拳を交わすに至った事件から、二週間ばかり。
この男と、幾度となく繰り返してきた仕合の中で、少女は、時の流れを緩やかに感じるようになっていた。
己の性質を克服せんと、薄闇の中で藻掻き続け。
その末に、確かな変化を、掴みかけていた。
そうして、徐徐に。
彼女の瞳に、色が浮かび上がる。
揺らめくものは、淡く、朧気ではありながらも。
それは確かに、少女......「梶葉周」のものに相違なかった。
「やっと帰ってきたか。馬鹿者め」
その男......相馬藤吉郎は、間合いをとりつつ、周に語りかける。
「僕の声がわかるか。わかるなら、次は身体の方だ」
......わかります、わかっていますよ、三査殿。
でも、骨が折れそうです。ええ、本当にっ。
周の突撃を皮切りに、再び、打ち合い始める二人。
ただし、先程とは異なり、彼女の立ち回りは精彩を欠いていた。迷いが見える、とでも言おうか。
......大丈夫、大丈夫だから。この人は敵じゃないから。
お願いだから、静まって。
そんなことを考えている間にも、身体は奔る。投げを食らう。地面が、迫る。
ああでもだめだ怖い。怖い怖い怖い!!
咄嗟の受身。
ひい。
本当は、私を壊す気なんじゃないか、この人。
もうやめたい。
そんな周の意思に反し、勝手な振る舞いをする五体。三査の手を振りほどき、転がって距離をとる。体勢を立て直す。
「先刻より、意識がはっきりしてきたんじゃないか。ほら、制してみなさい」
そんなこと言われても......んん......。
「誰彼構わず殴りかかっていては、話にならないよ」
言われずとも、よおく存じておりますよ。
ああもう、止まって。
「......ふん。いい感じだね。今日はこれまで」
周の攻勢が止んだ。
同時に、べしゃり、と頽れる躯体。
血色のいい頬が地に潰されるが、姿勢を直す気力もない。息を吸って吐く以外、何もしたくない。その呼吸すら荒く、肩でしている有様であった。
「君、地面と接吻する趣味でもあるのか。はしたないな」
いつもの口を叩きながら、少女を見下ろす警邏。
「か弱い女の子をいたぶっておいて......よくも、まあ、そんなことが、言えますね......」
「優しく投げたつもりだったけど」
「足りないんですよ、きっと......」
「ああ、そう。それは申し訳ない」
反省はしていない、後悔もしていない。そんな調子だった。
......周は、内心で言ちる。
どうして自分が、こんな理不尽な目に遭わなければならないのか、と。
ああ、成長には痛みを伴うのが常である、とか?
......なるほど、実に奮励的側面をもつ意識といえよう。
だが、納得できるかと問われれば、それはまた別の話であり。
そのような一般論など、くそくらえ、と。
痛いのは、嫌だ。理屈どうこうではなく、とにかく嫌なのだ────!
......と、そんな思考に、もはや空穴寸前の糖分を費やす程度には、彼女は参っていた。
さらに、追い打ち。
「......痛い、痛い。痛い痛い痛い痛い痛あい」
毎度の事ながら、律儀にやってくる鈍痛。彼女にとっては嬉しくもない、皆勤賞の相棒である。
眦から、塩水が溢れ落ちる。
「特訓を始めてから、筋肉痛のほうは大分楽になったろうに」
それでも、痛いものは痛いのだ。
三査は、べそべそと震える周を何とか立ち上がらせ、まとわりついた土と草を払う。
「痛い......後で湿布貼って下さい......」
「......」
「なんですか、その顔......そんなに薄荷が嫌ですか」
「君が治療中に吐く声のほうだよ。殊更、今日は酷そうだ」
「うぅ......」
......
といった一連のやりとりが、ここ数週間の二人の日課であった。非常に泥臭くはあるが、彼女の特性の制御を促すためにこのような方法をとらざるをえないのは、ある種仕方のないことである。しかも、一定の効果は得られている上、自分から頼み込んだ都合もあって、周が三査を強く責めるようなことはなかった。
────そして、そんな様子を、件の青年は、離れた場所から苦苦しい表情で見守っていた。
「一話が長い」とのご指摘を頂いたので、一話分を短くしてみました。
投稿が遅くなっても失踪はしません(たぶん)。