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SCENE 2『醜い身体でも、恋が出来るって知りました』

 全ての始まりはいつだったか。

 私が産まれた時だったか、かつて住んでいた街で薬屋を開店した時だろうか、そこそこ評判になって多くの人たちが客としてくるようになった時だろうか。


 ――それとも、私が初めてを奪われた時だろうか。


 今となってはあまり思い出せない。いや、正直に言えば、今でも時々思い出してしまいそうになる。

 大半を忘れることは出来た。けれど、頭が勝手に記憶を修復してしまいそうになる。


 私はそんなこと望んでないのに。


 憎悪の末に殺した記憶を、誰が好き好んで蘇生したいと思うんだろう。自分の身体が、自動修復機能付きの機械仕掛けにでもなったみたいだ。

 そうやって、思い出してしまいそうになる度に、あの光景が全ての始まりだったんじゃないかと錯覚してしまうのだ。


 ――あの時に、私は人生を強制された気がする。


 これまで積み上げてきたものが全て崩れ去り、尊厳を剥奪されて、欲望と暴力に嬲られて、最後には壊れてはいけない部分が壊れてしまった。

 もう元には戻らない。

 そういう生き物に、させられてしまったのだ。


 ――もしも、と思う。


 もしも、神様という生き物がいたとして、そういう存在が私の人生をこんな悲惨な過程を通過するように設計したというのなら。

 私はどうやって、神の手から逃げれば良かったんだろう。

 どうすれば、こんな気持ち悪いことを経過せずに、彼に――少年に出会うことが出来たんだろうか。

 そんなことを、今でも時々考える。


 ――産み落とした赤ん坊のことから目を逸らして、汚くなった自分自身を慰めるみたいに、いつも、いつも、思い出す度に考えている。






 気が付けば、昼になっていた。

 この村に来てからは、あっという間に時間が過ぎていってばかりだ。一日が穏やかに始まって、穏やかに終わる。その繰り返し。

 延々と同じようなことを繰り返しているのに、うんざりしないのは私がここでの生活に満足しているからだろう。それなりに満たされている。幸福だと認識している。

 ――今こうして、四人で昼食を取っている時も。


「チーサちゃん、おかわりどう?」

「あ、いただきます」


 私は奥さんから差し出されたパンを受け取ると、それを口に咥えた。ベーコンとチーズが埋め込まれた、奥さんお手製の焼き立てパンだ。

 噛み千切ると、オーブンで溶けたチーズを纏ったベーコンが姿を現す。多少冷めているとはいえ、中身はまだトロトロだ。

 本日三個目のそれを味わう。熱で溶けたベーコンの脂と、濃厚なチーズの組み合わせはいつだって最高だ。いや、純粋に奥さんの腕が良いのもあるけれど。

 私では、こんなに安心する味にはならない。


「よく食べるわねぇ、チーサちゃんって」

「美味しいので、つい……」


 そのまま、あっという間に食べてしまった。

 奥さんのパンを食べる時は、いつもこんな風になってしまう。食い過ぎというかカロリーオーバー。

 今のところ、太る気配がないのが幸いである。こんなのでも育ち盛りなのだ。一児の母だけど。


 ここは、雑貨屋の奥にあるリビングキッチン。

 食卓と台所が隣接している、この一家の憩いの場だ。赤ん坊用の揺り籠も置かれている。

 私たちは穏やかな昼休憩を過ごしていた。


 何はともあれ、美味しい昼ご飯を食べ終える。

 それから口直しの飲み物にと、砂糖とミルク入りのコーヒーを啜る。甘くてほろ苦い。先ほど感じていた空腹感は消え、落ち着いた気持ちになってきた。

 私と同じタイミングで食事を終えた、少年と店長がかなり苦めのブラックコーヒーを啜りながら穏やかに微笑んでいる。いつも思うのだけれど、かなり苦いそれを飲んでて、こんな風に笑っていられるのはすごい。私じゃ顔をしかめてしまうかもしれない。


 一方で奥さんの方は、揺り籠の中で眠る赤ん坊の様子を見て、何事もないことを確認してから、洗い物を始めた。

 水の魔法道具を起動。

 蛇口を回すと、取り替え可能のカートリッジから、内包していた魔力が抽出され、魔法へと変換される。綺麗な水を生成する魔法だ。

 奥さんはその水を使いながら、今となっては珍しくもないスポンジを駆使して、汚れが落ちやすいと都会では評判の洗剤を使って、綺麗に食器の汚れを落としていく。


 ――こうして、奥さんの生活を眺めていると、技術の進歩は早いものなんだと実感させられる。


 昔、本で読んだ話だけれど、この世界には魔法が存在しない時代があったという。正確には、魔法を使わずに生活していたと言うべきだが。

 けれども、魔法というものが発見され、人々は楽に生きていくことを追求するようになった。私たちは楽になりたいという欲望を満たそうとした先人達の恩恵にあずかって生きている。

 進化を促す欲望。

 奥さんのような人の洗い物を楽にするために、今も新しい洗剤が作られているように。


「――手伝いましょうか?」


 ふと思い立ったみたいに、私は奥さんにそう言った。

 けれども、次の瞬間には自分が間違ったことに気が付く。奥さんの洗い物はもうほとんど終わっていた。今から手伝うなんて、嫌がらせみたいな態度だ。自分に腹が立つ。


 ああ、そうだ、こんな私だから、私は――。


「そんなの良いわよ。もう少しで終わりそうだし。それよりチーサさんは、赤ちゃんの世話を見なさいな。ちょっとは心配なんでしょ?」


 ネガティブな気持ちを塗り潰すように、奥さんの言葉が届いた。完全に消えたわけじゃないけれど、思考のベクトルが育児に向いてくれる。

 私は肯くと、今更みたいに食後の合掌と挨拶をしてから席を立った。

 揺り籠に近付く。


「今日も大人しい様子でしたよ、この子」


 奥さんの言葉を聞きながら、私は我が子を見下ろした。

 まだ小さいその赤ん坊は、穏やかな表情を浮かべながら眠っていた。泣き出しそうな気配はない。

 ――私に似ていてながらも似ていない、その赤ん坊は何の心配もしていないみたいに、幸せそうに眠っていて。


「……」


 私はまだ、この子に名前を付けていない。

 今は可愛らしいと思っている。愛おしいとも思っているのだ。この子が自分の子供であるという自覚はある。私はこの子の母親になるという決意がある。

 でも、私にはまだ勇気が無い。

 ――ふとした拍子に、この子を殺してしまいやしないかと、そんなことを時々考えてしまう。

 瞬きをしたら、殺すことを決めてしまうかもしれない。

 抱き上げたら、落下死させたくなるかもしれない。

 穏やかに眠っている顔を見ていたら、首を絞めて殺したくなるかもしれない。

 そんな風に、気まぐれを起こしてしまうのではないかと怖くなってくるのだ。愛している時に憎しみが顔を出しそうで。

 どうして殺したくなるのか、本当にわからない。

 愛してるからなのか、憎いからなのか。それとも、その両方なのか。或いは、そのどちらでもないのか。はたまた、それ以外の何かだったりするんだろうか。何もかもが曖昧だ。

 私は私のことなのにわからない。


「大丈夫よ、チーサちゃん」


 ふと、奥さんが励ますように言う。

 根拠のない言葉。

 何がどう大丈夫なんだろうか。未来が安定しているなんて保証はどこにもないのに。私にはわからない。


「……ええ」


 けれども、私は同意するように肯く。

 たとえそれが嘘のような言葉だとしても、それを信じ続けていれば本当のことになってくれると願っているから。

 いつかどこかで、『大丈夫』になりたいと思う。

 ――気が付けば、赤ん坊が微笑んでいるように見えた。きっとそれは、私の都合の良い妄想だったのかもしれない。






 私――チーサは、×××××という名前だった頃に全てを汚された。

 かつて住んでいた街で、薬屋を営みながら、学園に通っていた頃の話だ。性的なことは知識でしか知らなかった、平和という言葉がぴったりの、そういう昔の話。

 あの日、私は被害者になった。

 そうなるに至るまで、特に何かきっかけになるようなことをしたわけじゃない。誰かに特別恨まれるようなことをしたわけでもない。


 私の店に通っていた人間が、この容姿に欲情した。


 ただそれだけだ。

 問題があったとすれば、彼らが犯行を決意するほど理性がなく、捕まらないように狡猾な罠を仕掛けるだけの知性があっただけ。

 彼らはまず私の部屋を隠し撮りして、着替え中の様子と、たまたま行っていた自慰の様子を撮影した。

 多種多様な魔法道具が発明される昨今だ。こういった犯罪行為が発明されたのも無理はない。

 私はそれに気が付かずに、彼らに隙を見せてしまった。


 そして、脅迫された。


 もし逆らったら、お前の淫らな姿をばらまくと。世界中にはしたない姿をさらすことになるのだと。

 私は、彼らに従うしかなかった。知っている人に指を差されて軽蔑されたくなかったから。お前は淫らではしたないのだと嘲笑われたくなかったから。

 今となっては、もっと強気に行動すれば良かったと後悔している。裸がなんだ。自慰の様子がなんだと。暴れて殴って蹴り飛ばして潰して、もっと胸を張って、私は被害者なんだと立ち向かえば良かった。


 ――そうしなかったから、私は地獄を見た。


 いつか現れるはずの好きな人に捧げようと思っていた初めてを奪われた。口内を性器に見立てて性処理道具として扱われた。乳房を潰されかけ、その先端を引き千切られそうになった。約束を反故されて全裸で町中を引き釣り回された。強制的に春を売らされた。排泄する人体の機能を破壊されかけた。優しい人間を自称する者達に犯された。髪を引き千切ってくる子供たちとセックスさせられた。性欲の強い老人たちに嬲られた。空き瓶で頭を殴られた。腹を殴られて内臓と子宮が破壊されかけた。男性の性器を生やされて性欲に狂わされ、最後には性器を切られる痛みを味わった。再生させられた膜をオークションでやり取りさせられた。性器に火を点けられた。麻薬と媚薬を大量に注入され仮死状態に陥った。触手だらけの魔物に穴という穴と臓腑を掻き回された。水槽の中で溺死寸前になった。見世物小屋で発情期の動物と生活させられた。首輪を繋がれ家畜同然の生活を送った。最後には便器として扱われた。ゴキブリと、人の糞尿の味を体感した。


 本当に、私が何をしたというんだろうか。

 どんな悪いことをしたんだろうか。


 誰か教えて欲しい。私はどんな悪いことをしてしまったんだろう。何をしたから、こんな目に遭ったんだろうか。

 無自覚に人を傷付けてしまったんだろうか。無自覚に悪いことをしたんだろうか。誰か教えて欲しい。私にはわからない。本当にわからないのだ。


 誰かがお前の容姿が人を狂わせた、と言った。

 誰かがお前が淫らだったのが悪い、と言った。

 誰かが言った。誰もが言った。誰が誰だかわからないくらいに、様々な誰かが、色々な誰かが、私のことを指差しながら言った。言い続けた。それを繰り返しているうちに、嘘が本当になってくれるのではと信じていたみたいに。

 呪いばかりを繰り返していたのだ。


 まるで、お前だけが悪いのだと言いたげに。


 ずっと、ずっと、延々と。

 気が付けば、私は望まぬ子供を妊娠していた。誰が父親かはわからない。不特定多数の誰かだと思う。

 腹はぷっくりと発酵したパンの種のように膨らんでいた。時々その内側から何かが蹴ってくるような振動が伝わってくる。生きている何かがそこにいた。私の望まない命だった。

 母体に負担がかかり死亡のリスクが高まるこの状況でも、陵辱はまだ続いていた。私の身体を食い物のように貪ってくる。

 男達は時折暴力を振るった。流産しないようにと、わざと腹を避けて顔面と性器に打撃を与えてくる。歯が折れた。眼球が半分ほど潰れて、失明寸前に陥った。痛みに失禁した。路上で排泄させられた。この世に魔法がなければ死んでいたかもしれない。

 殴られているうちに、私は孕んだ子供のことを考えるようになっていた。自分の子供、という認識じゃない。同じ人物からの暴力を受けている被害者同士という認識だ。

 男達は私に堕胎させるつもりはなかった。出産の際の陣痛に苦しみ悶える私を見世物にするために、敢えて決定的な暴力を振るっていないのだと。

 そして、産まれた子供は高く売り飛ばせるとも。


「だって、×××××ちゃんの子供だよ? 今では色んな人達が、×××××ちゃんのエッチな姿をオカズにしているんだ。当然その子供もエッチに決まってる。きっと可愛い子供が産まれるんだろうなぁ。結構高く売れると思うよ。エッチな使い道はいっぱいあるからね。オークションで出したら盛り上がるよ。あはは、楽しみだなぁ。ん? 嬉しくないの? 嬉しいでしょ? ははは。本当は嬉しいくせに」


 誰が、そんなことを言われて嬉しいと思うだろうか。彼らの頭の中が今でも本当にわからない。

 こうして、男達の言葉を押しつけられているうちに、私は腹の中の子供に少しだけ同情するようになっていた。

 最初は望んでなかった。堕ろしたいとも思っていた。私の子供じゃない。孕みたくなんてなかった。産み落としたくもなかった。生まれる前に殺してやりたいとも思っていた。

 そんなことしたって、もう手遅れなのに。私が汚れてしまった事実は何も変わらないのに。それでも、この子を殺してしまえば少しは取り返しが付くような気がして。


 ――でも、気が付くと、私は子供を宿したまま逃げていた。


 暴力を受けながらも大切にしていたもの全てを投げ捨てて、かつては好きだったのに嫌いになった人達を振り切って、何も持たずに、何も考えずに、逃げた。逃げまくった。

 運命の手の届かない場所を探して。


 ――そして、この村に辿り着いたのだ。


 その頃にはもう、×××××と呼ばれていた少女はいなくなり、代わりに名前のない赤ん坊と、チーサという死に損ないの女だけが残っていた。

 この村にいるのは、私という少女の残骸だ。

 自分自身の手で、顔を焼いて、喉の形を変えて、身体を焼いて、性器を壊して、傷跡まみれになりながら、産んでしまった子供を抱えながら、それでも残った何かで生きようとして、ささやかな幸せを子供みたいに渇望している。

 そこまでしたからだろうか。


 ――今、私はほんの少しだけ幸せだった。


 過去と比較して、何もかもを奪われて、搾取されて嬲られていたぶられて、ほとんど死んでしまった私だけれど。

 少しだけ幸せだった。

 こんな幸せを抱えたまま寿命を迎えたいくらいには、本当に、嘘でもなくて、幸せだったのだ。


「チーサさん」


 ふと彼の声が聞こえた気がして、私は思考の海に飲み込まれていた意識を取り戻す。

 私は赤ん坊を見下ろしていた。揺り籠の中で幸せそうに眠っている彼女のことを。


 ――彼女を見ると、時々嫌なことを思い出してしまう。


 いつかはどうにかなるだろうか。

 私はかつて被害者仲間だった彼女を、自分の子供だと受け入れられる日が来るだろうか。

 過去を少しだけ許せるくらいに、圧倒的な最大幸福が訪れるだろうか。


「チーサさん」


 もう一度少年の声が聞こえて、振り向く。

 彼は私を見ている。

 心配そうにしながら、けれども背中を押すみたいに優しく微笑んでいる。


「きっと、大丈夫ですよ」


 その言葉が本当になれば良いなと願う。

 私たちは幸福な人生を求めている。

 幸せに生きて、幸せに死ぬ。

 誰よりも、強欲に、自己愛的に、身勝手に――そんなちっぽけなことを願っている。

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