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SCENE 1『私は幸せになれると思ってました』

 ――この世に産まれたのが間違いだったのかもしれない。


 私がそう考えるようになったのが、いつからだったのか。今となってはあんまり覚えていない。

 いや、正確には思い出したくないのだ。忘れようにも忘れられないし、忘れてしまったらしまったで不愉快になりそうなことばかりだったから。

 ただ私にとって凄惨なことが起きたということだけ。何か特別な悪いことをしたわけじゃない。断罪されるほどの罪があったわけでもない。強いて何かあるとすれば、私の外見が人並み以上だったという点だけだ。自覚している。

 それだけの理由で、私は犯されたのだ。


 ――その日、その時、私は自分の処女膜が簡単に引き裂けてしまうことを身をもって理解してしまった。


 過剰なほどに特別扱いしていたものじゃない。それでも大事にしていたものだった。いつかどこかで。好きになった誰かに捧げる日が来るんじゃないかと思って、人並みくらいには大切にしていたもの。


 でも、奪われてしまった。

 まるで私の人生は、これから先も他人に奪われるものでしかなく、恋も愛も、夢の産物でしかないと強要されたみたいに。


 性奴隷というレッテルを貼られるようになってから、どれだけの月日が流れただろう。


 もうあまり思い出したくない。思い出したって苦しいだけなのだ。苦しくて、惨めで、泣きそうになる。

 運命が届かないほど遠くに逃げたはずなのに。

 今でも考えてしまうのだ。


 この世に産まれなければ、良かったんじゃないかって――。






 ――誰かの泣き声が聞こえたような気がして、目が覚めた。


 夢を見ていたような気がする。或いは、これから夢を見ようとしているのではないかとも思う。

 私は、目を開いて天井を見つめる。木造のそれは、以前見上げた時に見たものと大差は無い――あ、蜘蛛の巣だ。


 一気に目が覚めた。

 身体を起こして、天井に張られた蜘蛛の巣を睨む。すぐ側に置いていた眼鏡をかけると、見間違えでないことがわかるくらいに、ハッキリと確認できた。

 昨日見た時には、あんなものはなかったはずだ。それが一夜明けただけでこの有様である。どこから入ってきたのだろう。やはり金をケチって家の修繕をしなかったのが拙かったんだろうか。


 ――その時、また誰かの泣き声が聞こえたような気がした。

 いや、本当に聞こえている。小さな赤ん坊が発するようなもの。まるで泣くことしか知らないみたいに。


 私は、ため息を吐きながら、魔法で簡単に蜘蛛の糸を払い落とすと、今いる部屋――寝室だ――を出て、その隣の部屋に足を踏み入れた。泣き声はそこから聞こえてくる。


 その部屋には、ほとんど何もなかった。

 家具も何もない。

 強いて何かがあるとすれば数点だけだ。子供用のベッドが一つと、子供用の使い捨ておむつや幼児服、タオルケットなどを仕舞い込んだタンスが一つ。

 それ以外には何もない。


 いや、厳密に言えばもう一つだけあるかもしれない。

 ベッドの上にいる何かが大きな泣き声を上げている。私はベッドに近付いて、その存在をしぶしぶといった気持ちで抱き上げる。ぴたりと泣き声が止まった。その単純さに、少しだけ苦笑してしまった。


 私が抱きかかえているのは、小さな赤ん坊だった。生後三ヶ月の丸くて可愛い女の子。

 私の血が遺伝したのか、クリームみたいな色をした髪の毛がうっすらと生えている。他にも、ぴょこりと前頭部のあたりに生えている猫耳のような何か。

 それ以外にはあんまり似ていないけれど、可愛らしい赤ん坊だ。最近になってようやくそう思えた。

 今は、私よりも少しだけ赤い肌の色も、鴉のような黒い瞳も、愛らしく感じている。


 赤ん坊は、私の存在に気が付いたらしく、ぱちりと瞼を開いて、まん丸な碧眼で私を認識する。小さな唇が笑みの形を描いて歪み、音のような声を上げ始めた。まるで雛鳥のような明るい声で。


 私は、はいはいよしよしと赤ん坊をあやしながら、一度ベッドに下ろして、いつもやっている世話をする。

 おむつの交換に、赤ちゃんの食事。その他諸々。エトセトラ。

 部屋を移動したりしなかったりを繰り返して、毎回うんざりするような雑事をこなす。

 赤ん坊が再びの眠りに就いたところで、リビングに移動。朝食を取り始める。

 パンと目玉焼きとウインナー。それとバナナに牛乳。健康的な朝食だった。

 何の変哲も無い朝食を取りながら、私はこの普遍的な味に安堵する。問題の無い普通の食事がとれるのは、それだけで充分に幸せなことなのだ。

 これ以上は嫌なことを思い出しそうなので、早めに食い切ってしまう。卵の黄身をパンで拭って皿の上を真っ白にし、バナナの皮をむいて頬張り、牛乳を一気飲みして終わった。


 ちょっとだけ一息吐く。

 これで朝の準備は一通り終わった。これからはやらなくちゃいけないことで忙しくなる。

 もうすぐ本格的な一日の始まりだ。数ヶ月前から始まって、少しずつ慣れてきた日常。いつものルーチンワーク。


 ――さぁ、今日も私を始めよう。


 赤ん坊を背負い、仕事場から荷物をとってきて、自宅を出ると、朝の光が直接私たちを照らした。家にいた時からわかっていたけれど、今日の天気は清々しいほどの晴れ。優しい光が肌を撫でるようだ。

 すぐ近くにある雑貨屋へと足を運ぶ。

 一分もかからないうちに到着した。


「やぁ、チーサさん」


 店の前で掃除をしていた中年男性――村に一軒しかないこの雑貨屋の店長だ――が、私に声をかけてくる。

 チーサ。それが今の私の名前。


「今日も早いですねぇ」


 朝の挨拶代わりらしく、年相応の重みのある渋い声ながらも爽やかな印象を抱かせた。

 どうも、と私は店長の顔から少しだけ目をそらしながら、最低限の返事をする。まだ苦手なままだ。もうそろそろ克服したいという気持ちがあるのに、感情はその通りに動いてくれない。

 店長は、そんな私の様子に「いけないいけない」と長引きそうな会話を早々に断ち切って、店の扉を開いて案内してくれる。少しだけ申し訳ない。


 雑貨屋の中は、混沌としつつもキチンと配列されていた。

 私たちの生活にかかせないものが並んでいる。食料などの生活必需品。保存の利く量産品のお菓子。魔法が使われていたりいなかったりする日用雑貨。魔物や野獣を狩るための武器。畑に撒く肥料に農具。使い切りのスクロール。魔法の専門書から娯楽用の小説といった本。子供用の玩具に、暗喩無しでの大人向けの玩具。


 そして、ありきたりな回復薬。

 鮮やかな色合いの瓶詰め消耗品。

 通称ポーションと呼ばれるそれは、森林を連想させるような鮮やかな緑色をしている。太陽の光にかざすと、宝石のようにキラキラと輝く影が出来た。

 いつもそれを、綺麗だと思う。


 ――そのポーションは、私が作ったものだった。


 これが金銭で取引されない世の中だったら、私たちはとっくの昔に飢え死にしていたと思う。

 或いは、片方だけが生き残って、誰かに拾われた後に売り飛ばされるなんてこともあり得たかもしれない。

 想像するだけで吐きそうになってきた。


 気分を無理矢理戻して、作り笑いを浮かべようとする。真似事のようなアルカイックスマイルは、瞬く間に自然なものになって溶けていった。こういう儀式みたいな行為は嫌いじゃない。

 そうやって、ごっこ遊びをしていると、店の奥――この店に住んでいる人たちのプライベートスペース――から誰かの足音が聞こえてきた。ぎこちなく、不安定な動き。

 彼だ、と私は確信する。


「――おはようございます、チーサさん」


 そして、少年は私の前に姿を現した。

 いつも通りの穏やかで優しそうな声で挨拶してくる。


「ああ、おはよう」


 私はそれに対して、挨拶で返す。

 彼と同じように、いつも通りのフラットな感情で。

 そこから流れるように、どうでもいい日常会話に移行する。


「今日は良い天気みたいですね」

「洗濯物がよく乾きそうです」

「赤ちゃんの洗濯物とか、色々とありますからねぇ」

「ちょっと面倒くさいけど、やれる時にやっておかないと溜まる一方ですから」


 本当にどうでも良い日常会話だった。

 私と彼の会話だけを紙に書き写したら、どちらが誰なのかわからなくなるくらいに、普遍的な言葉の応酬。

 緩やかなコミュニケーション。

 でも、私はそんな会話が嫌いじゃなかった。


「おはようございます。今日も、よろしくお願いしますね」


 やがて、私の訪問に気が付いたのか、私より幾分か年上の女性――この少年の母親で、ここの店長の奥さんである――がやってきた。

 私は、こちらこそと答えて、赤ん坊を預ける。

 ちょっとだけぐずりそうになった子供を、奥さんはよしよしとあやして沈静化させていった。私の役割なのに情けないとは思うけど、頼もしくて、本当にありがたい。


「いつも手間をかけさせてしまってすいません」

「良いの良いの。いつも高品質のポーションとか、店番とか、診療とかでお世話になってるんだから、これくらいはね」


 奥さんは、そう言って心配するなと笑いかけてくる。

 いつも私は、その親切に困ってしまう。ぬるま湯に浸っているみたいな善意が心地良くて、いつも泣きそうになるくらいにくすぐったい。

 でも、同じくらいに嬉しいのも確かだった。

 こうして、私は赤ん坊を奥さんに託し、掃除を終えた店長に改めて挨拶し、一息吐いたところで少年と一緒に店番をする。これが仕事だ。いつも通りの日常だった。

 ――私の一日が、本当の意味で始まる。






 私は、この村でチーサと呼ばれている。

 自分自身で付けた、今の名前だ。

 昔の名前の名残は欠片すらない。

 今となっては、昔の名前は足枷でしか無い。思い出すだけで不愉快な気持ちになってしまう。忘れてしまった方が良い。

 何はともあれ、この村は私たちという異邦人を受け入れてくれた。過去を捨てた私たちを。


 そして、私が望む名前で呼んでくれた。

 チーサ、として生きていても構わないと承認されたのだ。


 あれから、数ヶ月が経つ。

 具体的にどれくらいの月日が流れたのかは覚えていない。それもそうだ。この数ヶ月ほどは、まるで生まれ変わったみたいに充実した日々を送っていたのだから。

 失われていた幸福を取り戻したと言うべきか。

 或いは、新しい幸福を手に入れたと言うべきなのか。

 どちらでも良いかもしれないが、とにかく私にとってここしばらくは満たされた日々だったのだ。

 ――ちっぽけな奇跡みたいに。


「やぁ、チーサちゃん。さっそくだけど、ポーション三つね」


 いつもの常連客が顔をやってきた。

 変わり映えのしない穏やかな日々の予感に、新しい説得力を与えてくる。

 私は、接客用の態度を取った。


「ありがとうございます。今日は薬草摘みと狩りですか?」

「おうよ。近くの森ん中で、イノシシみてぇなやつを見かけたって聞いたんでな。他の肉は普通に買えるが、最近イノシシ肉食ってねぇんで現地調達ってことよ」

「それはそれは。無理をしない程度に頑張ってください」

「おうよ。んじゃ、行ってくる。大物だったら、店長に分けてやるぜ」


 緩やかに、穏やかなまま。

 私を嘲笑することも、暴力を振るってくることも、脅迫してくることも、無く、一人目の客が去って行く。

 この村に来る前までは、もうこんな光景は見られないと思っていた。今はここにある。何度見ても嬉しかった。


「チーサさん、今日も機嫌良いですね」


 そんな私に、少年が声をかけてくる。

 まるで私が嬉しいと、自分も嬉しいみたいに。


「そう聞こえる?」

「ええ。見えなくても、そうなんだってわかります」


 少年は、後天的な盲目だ。

 彼とその家族曰く、まだ幼かった頃に流行った病が間接的に影響したらしい。

 眼球はある。けれども、それが機能していないようだ。

 その年は、各地で子供たちが障害者となり、大半は人道的に受け止められたものの、人の輪から遠ざかった集落では殺処分された子供もいたという。


 ――ここにいる少年は欠けていながらも、家族によって大切に育てられてきた。


 優しくて、穏やかで。

 人の痛みを理解したり、共感したりすることもできる。

 そんな在り来たりで平凡で、けれども尊いまま生き続けてきた。それが、ここにいる少年だった。


 ――私を受け入れてくれた、人間だった。


「あ、今、笑いませんでした?」


 ふと、唐突に少年が言った。

 脈絡のない言葉。

 鈴のような声に、心臓が揺さぶられたような気がした。


「笑った、って、私が?」

「ええ。そんな感じします」


 私は、彼の言葉を受けて、反射的に唇を指先でなぞってしまう。自覚のない確認動作。指先が感じるそれは温かい。

 私の唇は、笑みの形を描いて歪んでいた。新月に一歩手前なそれは、とても細い三日月のよう。

 思い出し笑いをしていたのだと、自覚する。


「よくわかったね。私も自覚してなかったのに」

「上手く言えないんですけど、雰囲気が変わった感じがしたんですよ。いつもは優しい感じなんですけど、ついさっきのは、なんていうか……ふわっ、ってなったんです。ああ、もう、本当に上手く言えないなぁ。えっと、あ、これだ。花みたいに。チーサさんが、花みたいになったって思ったんですよ」


 だから笑ったのかな、と少年は照れ隠しするみたいに唇を緩める。緩みきって蕩けていく。

 とても幼くて、けれども純粋なもので出来ている。

 私には、それがとても眩しくて、愛おしく思えた。


「花みたいって、大げさだね」

「あはは。そうかもしれません。ちょっと陳腐ですし。でも、本当ですよ。僕は花みたいだなって思ったんです。昔見た花のことを思い出しながら、あなたの声や言葉を重ねるようにして、それはきっと同じものなんだろうなぁって」


 少年の言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じる。

 気持ちが蕩けていき、固体から液体に変化し始めそうになった。どこか遠くへと流れて行ってしまいそうになる。


「気付くまで、結構時間がかかってしまいましたよ。いやまぁ、嬉しいんだろうなってことはわかってたんですけど、それ以外にも何かある気がして」


 少年の言う、何か。

 私が笑ったということ。

 笑えていたということに、私は特別な意味を感じている。


「なんというか少年ってば、よく私のこと見てる……というか、観察してるよね」

「そりゃ決まってるじゃないですか」


 そして、少年はいつも通りのことを言う。

 いつも通りの常套句。

 ありきたりすぎて陳腐な言葉。

 けれども、それは永遠そのものであるかのように。


「――僕は、チーサさんのことが好きですからね。わかりたくなっちゃうものなんです」


 まるで一日の日課みたいに、少年は告げる。

 少しだけ照れくさく笑いながら、それでも胸を張って、ストレートな言葉をぶつけてきた。

 それを聞いて、私は。


「いつも恥ずかしいね、少年は」

「そんな自分に、もう慣れましたから」


 いつも通りに平然と振る舞ってみせて、それから何事もないような顔をしながら、平和な時間へと戻っていく。

 ああ、でも、やはりと噛み締める。

 量産された弾丸みたいな、いつも通りの出来事なのに。


「チーサさん」


 彼は、私の名前をもう一度呼ぶ。鈴を鳴らすみたいに。

 チーサ。それが今の私の名前。

 親や保護者といった誰かから与えられたものじゃない。

 私が私のために、私が考えて、私が与えた。

 貶めて貶められた本物じゃなくて、抜け殻のような偽物。

 その名を彼が呼んでくれることが、どうしようにもないくらいに嬉しいと感じる。

 ――本当に困るくらいに。


(――本当に、安心する)


 私は、少年に恋をしていることを再確認させられた。

 胸の中で心臓が脈打っていて、感情が溢れてきそうになって、頭の中が幸福で満たされそうになる。

 尾を引く自己嫌悪を塗り潰そうとしているみたいに。

 だから。


(少年。私も、本当に――)


 ――今、私は幸せだった。

 まるで幸福だけで作られた夢物語みたいに。

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