SCENE 0『プロローグ』
神に問う。無抵抗は罪なりや?
――太宰治『人間失格』より引用。
――幸福って何だろう。
今、私はそんな他愛のないことを考えている。
幸福。幸せ。
少なくとも、不幸じゃないってことはわかる。胸の内側からあふれ出てくる感情に突き動かされて、何もかもが嫌になるくらいになるような、そんなことじゃないって。
けれども、私はもう幸福というものを忘れてしまっていた。かつてそういうものを手にしていたはずなのに、失ったものを別のもので補って、やっと前を向いていけると思っていたはずなのに。
今はもう、幸福がどんなものだったのか覚えていない。忘れてしまった。忘れたくなるほど苦しいものに変わってしまったから。今の私には必要ないのだ。
「――この、化け物ッ!!」
誰かが、私を指さして叫んでいる。血まみれになった誰か。身体のどこかを欠損して、ただ現実を認識する以外に手の打ちようがない――そんなどこにでもいる誰か。
化け物、と誰かが言う。
私は化け物なんだろうか。多分違うはずだ。言葉を使って話すことも出来るし、何かに悩んだり苦しんだり出来るし、最近は不安定だけど怒ったり笑ったりも出来る。
それに、よくある獣みたいな毛むくじゃらで、本能剥き出しみたいに涎を垂らしたりなんかしない。
そもそも、君たちの方がよっぽど化け物みたいに見えるんだけど、鏡とか見たことがないのかな。うわ、可哀想。
しかしまぁ、そんなに私って化け物に見えるんだろうか。
私の身体は、一応これでも女のままだ。化け物に遠いと思うんだけど、どうして化け物って呼ばれるんだろう。おかしいなぁ、本当におかしいなぁ、と私は頬に手を当てて悩んでみせる。それらしい仕草。ごっこ遊び。
――その手から、血の臭いがした。
ああそうだったんだ、と自覚する。
ふと気がつくと、私以外の全ては真っ赤に染まっていた。錆のような血の臭いがする。どうしたんだろう。どうして私の世界は血の海に沈んでしまったんだろう。
「人殺しの化け物が……!!」
誰かの怒りが聞こえてくる。
それは、不条理に抗うような正しい憎悪。
特定の状況において、他者から肯定されるような差別と偏見だった。それもそうだ。私は誰かに差別されるようなことをしているのだから。
人殺しの化け物になったのだから。
――本当に?
「よくも、飼い主に噛みつきやがって!! 女の分際で男に逆らいやがって!! 死ね、死んじまえ!!」
誰かが喚いている。
私は、その声が虫の囀りのように思えてきた。
下半身に思考を委託した、雄の虫けら。
テンプレートな男根主義者。
いるかどうかもわからない神様の失敗作。
ほら、どう考えても、どう見ても、人の形をしている小さな害虫のようにしか思えない――。
「見てろよ、お前なんか、軍がやってきたらすぐに――」
ぷちり、と何かが潰れるような音がした。きっとそれは誰かの頭だったのかもしれない。
首のない死体が地面に転がり、あとは沈黙だけになる。
気がつけば、私の視界は死体塗れだった。
老若男女、強者弱者、奴隷市民貴族、ありとあらゆる誰も彼もが死んでいる。血まみれで、ミンチみたいにぐちゃぐちゃで、汚物塗れになって死んでいる。これ自然の摂理。
ここに差別はない。誰も上位互換に怯える必要なんて無いのだ。全人類平等化計画。なんてね、冗談だよ。
暇になったので、殺したばかりの男の死骸を観察する。
最初は退屈だったけど、筋肉が弛緩してきたのか、下半身の穴から液体や固形物が漏れ出てくるのが見えた。
あはは。気持ち悪い。滅茶苦茶汚いね。ばっちい。
ともかく、マフィアの幹部兼性的拷問のエキスパートと称されるその男は、こうして自分自身の体液にまみれて汚らわしく死んだのでした。めでたしめでたし。
やがて、私を討伐するために軍隊がやってきた。フットワークというか初動が早いね。
――私が公衆で犯された時は助けてくれなかったくせに。
そこで、ふと点と点が結びついた。
過去の記憶がスパークし、腑に落ちて、納得する。
なるほど、なるほど。
つまり、この世界は最初から私の敵だったのだ。個人も、組織も、国家も、宗教も、世界も。
私から幸福を奪い去る流行病。
まるで神様みたいな不条理。
――でも、今となってはどうだって良かった。
「殺せ、化け物をころ――」
私は、ちっぽけな抵抗とばかりに腕を振る。
ただそれだけの行動で、前衛で攻撃しようとしていた兵士たちは一瞬で蹂躙されていった。人のこと化け物呼ばわりしてた気がするけど、きっと気のせいだよね。
玩具みたいに、人の身体がプチプチ潰れていく。
虱を余さず駆除するように、念入りに。
挽肉になりかけた肉塊が玩具の鞠のように跳ね、移植に使えないほど価値が劣化した臓物が宙を舞う。
私にはそれが、キラキラと星屑みたいに輝いているように見える。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない」
死に損なった後衛の兵士たちが、地面に尻餅をついて、失禁しながらビクビク怯えている。可哀想。本当に可哀想。
本当に、哀れで、弱々しい生き物たち。
怖いんだね。苦しいんだね。気持ち悪いんだね。
良いんだよ、本当の気持ちを全部さらけ出したって。
私は、同情するよ。
――しっかりと同情しながら、殺してあげる。
「あはは」
私は、笑いながら軍隊を全滅させた。
次は何を壊そう。誰を殺そう。
忘れてしまったものを、思い出そうとするみたいに。
無くしてしまったパズルピースを、別の何かで無理矢理埋め合わせようとするみたいに。
「ははは」
笑う。
果てのない空を見上げて、無理矢理唇を歪めて笑みを作る。
私は、幸せです。面白いです。楽しいです。
そういう風に自分自身を誤魔化すような演劇ごっこ。
悲劇の顔しながら笑ってる可哀想な女の子ごっこ。
笑おう。幸せのために。
笑うのだ。戻ってこない幸せのために。
幸せの形すら忘れてしまったというのに。
「だから――」
――私は、前を見据える。
あるべきものを取り返しに。
奪われたものを奪い返しに。
「――探しに行こう」
そして思い出す。
目を覚ます前の、刹那の夢のように。
私がまだ幸せだった頃のことを、ほんの少しだけ。
あの頃は、本当に幸福で。
だからこそ、今でもずっとわからない。
――どうして、私じゃ駄目だったんだろう。