神隠しの島-01
古来、この国にはあらゆる地に、物に、生命に、神が宿っていた。
人々は神の存在を信じ、例え姿が見えない時も確かにいるものとして崇め、祈祷によって自分達の状況や願いを伝えようとしてきた。
雨が降らず大地がひび割れる時は神の怒り、実り多き秋には神の恵みだとし、人の生死、天候、全ての営みには必ず神がいた。
しかし、次第に勢力を強める仏教の広がりと共に、神と仏、祈りは2つに分断され、いつしか神への願いは偏るようになった。
人の行いは仏に、天変地異や運は神に、与えるものと得る願いの偏りで疲弊し、次第に各地の神の力は弱まっていき、暮らしの中にいつもいたはずの神は、その姿を維持できない程になっていた。
そしていつしか本来争う間柄ではない神と仏は、政まつりごとにまで利用されはじめていた。
祖霊神と仏教の振興の争いは物部守屋の死と共に終止符が打たれ、ヤマトの統治が始まると神はいつしか仏の下に位置づけられるようになり、人々の信仰は神や自然や霊だけではなく、輪廻や仏の世界へと向かっていった。
歴史上では飛鳥と呼ばれる時代。八百万やおよろずの神々が力を失くしていった時代。
そんな中でも、とある島ではまだ確かに地元神が人々と共に生きていた。
【神隠しの島】
「神木さまぁ、わの種、まだ芽は出んか?」
「まだ出ないよ。空の神がまだ来ていないからね。陽の神も今年は遅い。地が温まらなければ芽は出ない」
「早う空の神様と、陽の神様と、雨の神様さ連れてきてけれぇ、神木さまぁ」
「わも待っているところだ。気持ちは分かるぞ、本当に今年は随分と遅い」
周囲の殆どを切り立った崖に囲まれ、1日も歩けば一周出来そうな小さな島が海にぽつんと浮かんでいる。中央に小高い山、その周囲は森が広がり、細い川の麓に広がる浅い池の周囲には、藁葺きの粗末な竪穴式の家々が立ち並ぶ。
島民は僅か100人、本土は遠い対岸に位置し、大人達さえも滅多に行くことが無い。
この島に生きる殆どの住民にとって、島は世界の全てだった。特に、子供にとっては海など景色でしかなく、広いなどと思った事すらない。この島の森ほど広い世界はないと信じきっていた。
「イノテ、今日は諦めよう。わも雨が恋しくなってきたところだが、神というものは気まぐれでね。こうして願われて願われて、思われる事が好きなのさ。もっと強く願えと言っているようだ」
「神木さまも気まぐれだか? 願われたいんけ? わの事も好きじゃねえときがあるだか?」
「神木はこの地に根を張り、変わる事は無い。気まぐれなど起こす事も出来ないのだよ。さあ今日はもうお帰り」
イノテと呼ばれた粗末で汚れた楮こうぞの白く丈の長い貫頭衣に、褌だけを穿いた男の子は、にこやかに神木と呼ばれた男に手を振り、集落へと帰って行く。
もうじき西の海に陽が沈むという時刻、角髪にもせず、振分髪にもせず、ただザクザクと切られただけの髪を跳ねさせて行くその姿を見届けながら、神木はひとつため息をついた。
「この島だけでも守りたいものだが、わの力だけではどうにもできん。空も陽も、水も海も風さえも……弱り果てている」
神木と呼ばれた若い男は、耳程までの長さの黒髪をサラサラと風になびかせ、新緑に似た色の貫頭衣、大木の幹の色をした袴、白く瑞々しい色をした下駄を履いてその場に佇み、やがて陽が翳り始めると森の中へと下駄の乾いた音を鳴らしながら消えていった。
この島の森で一番太く背の高い木。それがこの島の御神木だ。
この島が崇める神の1つであり、神々はそう遠くない昔、よく供えられた供物を肴に、水を酒に変えて楽しんでいた。
しかし、神の司る範囲というのは様々で、その力にも大きく差がある。その大きな力を持つ神々が姿を現さなくなり、最近はこの島の神、この島の小高い山の神、そして畑、池の神くらいしか集まらなくなっていた。
「島神、山神、畑、池、今日はいるのかい」
神木は大木の根に腰掛け、他の神々を呼ぶ。もう集うのはこの島の中にしかいない神だけになり、雨の神も空の神も、海の神も風の神も応えてはくれなくなった。
空も雨も風も海も消えてはいない。確かにそこに神はいるのに、実体となるには力を失い過ぎたのだ。
「呼んだか神木。島神のやつは、今日は畑と池と共に嵐に備えておるぞ」
「そうか。昔は空の神が嵐も月夜も教えてくれたものだが」
「仕方あるまい。われら神々は人の信仰の中にしか実体を持てんのだから」
神木よりも随分といかつい山神は、山肌のように焦げた色の貫頭衣、岩のような灰色の袴、そして黒曜石の下駄を履いて現れた。
山神は黒々とした髪を後ろに束ね、もみあげまで繋がる黒々とした短い顎鬚を撫でながら、どうしたものかと悩ましげな表情で唸っている。