ヘルツの槍
意味が分からない。状況に頭が付いて来ない。
彼女は困惑していた。
アンナスリーズは確かに助けを求めた。しかし、それは本気で誰かに助けて貰いたくて叫んだ訳では無く、目の前に居る高位獣鬼に対して出来る最後の抵抗だったからだ。
例えどんなに惨めでも、奴が少しでも不利になる様に足掻く。そう思って彼女は必死に叫んだのだ。これが最後の言葉になるであろう事を理解した上で。
しかし、そうはならなかった。
彼女の声に呼応して現れた二人の闖入者。助けを求めたら都合よく誰かが助けに来てくれたという、半ば馬鹿げた現実に彼女の頭は着いて来れなかったのだ。
頭を振りながらアンナスリーズは必死に自分を落ち着かせ、ゆっくりと二人の方に顔を向ける。
先ず目が行ったのは、漆黒の騎士。
その身の丈は2m程で、黒い全身鎧で身を包んでいる。しかし、その鎧は随所に何に使うのか分からない管の様な物が伸びており、更に間接各所に歯車に似た構造が見て取れた。
彼女は今までに一度たりともそんな鎧は見た事が無かったし、聞いた事すら無い。
漆黒の騎士は此方を一瞥すると、その場を囲む魔獣達へと向き直った。
困惑するアンナスリーズだったが、視線をもう一人の人物に向けた時。呼吸する事すら忘れてしまった。
そこに居たのは闇ーーー。
光すら通さない闇の帳が人界に降り立ったのだ。
夜の暗雲を切り抜いた様な深い黒のローブ。その内側は鮮血を思わせる真紅に染まり、見た事も無い紋様が所狭しと広がっている。
片手にはまるで子供が作ったかの様な不出来な作りの杖が握られているが、そこから放たれる威圧感は見る者を圧倒する。
そして、深く被ったフードから僅かに見える口元に浮かぶのは笑み。目の前に獲物が湧いて出た、捕食者のそれ。
“絶対強者”。
アンナスリーズは驚愕した。その圧倒的な存在感を放つのが自分よりも小さな、僅か十数歳程度の少年だった事に。
ーーーーーー
ー高位獣鬼は産まれたその時から強者だった。
恵まれた体躯。強力な魔力。そして、聡明にして偉大なる母から受け継いだ知識。
その全てを持ってこの世界に生まれて来たのだから。
彼が産まれて直ぐに、彼の目の前に幸運が転がり込んで来た。
8人程の人間達を見付けたのだ。
恐らく、聡明にして偉大なる母を監視する為に彼等の上位者から遣わされたのだろう。
愚かな事だと、彼は鼻を鳴らす。
聡明にして偉大なる母は、愚劣な人間達程度にどうにか出来る存在では無い。忌々しい賢馬族や龍族ならばともかく、人間程度の存在等、取るに足らない物なのだから。
しかし、それは母にとっての話。
彼に取って人間とは奇貨に等しい。だからこそ彼等が目の前に居る事を“幸運だ”と捉えた。高位獣鬼は知っているのだ。
人間で遊ぶ事の面白さを。
人間達は強かった。スキルと呼ばれる力を駆使し、連携を取りながら彼に挑み掛かかって来た。
その技術は巧みで、彼との地力の差を感じさせない程だった。
しかし、その連携にも穴がある。それは“レベル”と呼ばれる人間達の力量差から来る連携のムラだ。
レベルと呼ばれる概念は、人間達だけでは無く、聖神ヴィリニュスが創り出した全ての種族が持つものだ。
彼等は経験や鍛錬。神々の試練等を乗り越える事でそのレベルを高める事が出来る。レベルが上がれば、力や早さ。魔力等が高まり、その力量を大きく上げる事が出来た。
そしてレベル差が少なければその影響は余り無いと言えるのだが、今、目の前に居る人間達の中には一人だけ他より10以上も下のレベルの人間が居る。
アンナスリーズだ。
一人だけ居る人間の雌を狙えば、面白い様に彼等の連携は崩れた。そうして崩れた連携から切り崩す事で、一人。また一人と討ち取って行ったのだ。
結局人間達はその雌を逃がして再び彼と向き合ったのだが、数を減らした彼等に勝ち目は無い。高位獣鬼は、徐々に追い詰められる彼等を見て、心の底から思ったのだ。
“弱者を嬲るのは、なんと面白いのか”とーー。
ーーーーーー
そして今。
高位獣鬼は困惑していた。聡明にして偉大なる母から授かった知識にも無い、極めて異質な存在を前にしたからだ。
魔獣達と向き合う様に立つ漆黒の騎士。その姿も確かに異様なのだが、それ以上に異質さを感じさせるのは、その“匂い”だ。
“匂い”と表現したそれは、実際の体臭等では無く、魂で感じる気配の様なもの。
高位獣鬼は、その匂いを感じ取り大凡の強さと種族を識別出来るのだが、漆黒の騎士から漂う“匂い”は、彼の知識には無いものだった。
まるで幾多の魔獣を寄り集め、型にはめた様な異様な匂い。しかし、醜悪な歪さでは無く、整然とした無機質さを感じさせる匂いだった。
そして、そんな漆黒の騎士すら霞む異様。人間の雌の前に立つ黒衣の魔道士ー。
深く被ったフードから覗く不敵な笑み。これだけの数を前に、何一つ動じることの無い余裕。そして、見る者を圧倒する存在感。
一挙手一投足の全てから“絶対者”の氣風が漂っていた。
間違いなく、奴は生まれついての強者。自らと同じく、“虐げられる者”では無く“虐げる者”。
それが理解出来たからこそ。だからこそ高位獣鬼には理解出来無かったのだ。
“何故これ程の人間がレベル0なのか”をー。
「どうした?」
『!?』
困惑する彼の心を読み取ったかの如く、黒衣の魔道士が話し掛けて来た。
咄嗟に後ろに跳びのき、魔獣達の後へと降り立つ高位獣鬼。何故自分が跳びのいたのか理解出来なかったが、しかしその判断は間違っていない。根拠は無い筈なのに、そう確信してしまう。
その様子を見て、さも下らない物を見た様に黒衣の魔道士が続けた。
「何もしないつもりか?だとしたら助かるが」
『……!』
屈辱だった。それは間違いなく自分に向けられた侮蔑ーー。
『やレェッッッ!!』
吼える高位獣鬼。自分は強者。狩られる者では無く、狩る者。
例え奴が絶対者だとしても、それは揺るがない。
聡明にして偉大なる母から生まれたという自負がある高位獣鬼は、逃走では無く闘争を選んだのだ。
彼の声に呼応して動き出す魔獣達。
例え倒す事が出来なくとも、様子見程度の役には立つだろう。高位獣鬼はそう考えたのだ。
それを見た黒衣の魔道士は、一言騎士に伝える。
「プロメテウス。“ヘルツの槍”を使え」
『了解』
プロメテウスと呼ばれた漆黒の騎士が応じた瞬間、その右腕から突如として槍が現れた。
長さ2メートル程の円錐状の槍で、恐らくは馬上槍の類いだろう。
彼はその槍を近付くコボルドへと向けると、突き出す様に走り出した。その様子を見て、高位獣鬼はほくそ笑む。
漆黒の騎士が、槍を構えてからスキルも魔法も発動させていなかった為だ。最初のコボルドは殺されるだろうが、その後ろには2匹のオークが居る。仕留めるのは無理かも知れないが、手傷は負わせられる筈。
しかしー
『ブギァッッ!?』
重なる様に響く悲鳴。
騎士の槍はコボルドだけで無く、二匹のオークをも貫き容易く命を奪ったのだ。
『グヌゥッ!』
思わず唸り声を上げる高位獣鬼。
油断していた。魔法もスキルも発動させなかったのは、必要が無かったからだ。あの槍は間違い無く魔術道具の類いー。
錬金術師や一部の魔道士達が作り出す魔術道具には、常時発動型スキルが存在する物もある。恐らく、ヘルツの槍と呼ばれたそれには、切断力強化の常時発動型スキルが付与されているのだろう。
油断は出来無い。しかし、もう一つ分かった事もある。
奴は脅威に足り得ないーー。
『“重強化”ッッッ!!』
そう叫び、魔法を発動させる高位獣鬼。重強化は、自らの重さ、筋力、俊敏性を強化する高位の強化魔法だ。
全身に力が漲る。まるで熱した鉄が血液となり、体中を駆け巡る様だ。
更なる暴虐を手にした高位獣鬼は、漆黒の騎士へと向かい走り出す。
『!?』
それに気付いたプロメテウスは、槍を繰り出し迎撃を試みる。しかしー
『遅いワッッッ!!人間のイヌがッッッ!!』
繰り出された槍を掻い潜り、漆黒の騎士の懐に入る高位獣鬼。更にそこから攻撃スキルを発動させる。
『“爆轟撃”ッ!!』
“爆轟撃”は、斬撃等と同じく、拳撃の威力を強化する、単純な威力強化系のスキルだ。しかし、斬撃よりも効果時間は短く、更に魔力消費も激しい為使い勝手はかなり悪い部類に入る。
だが、威力は絶大。
轟音と共に振り抜かれた拳は、プロメテウスの胴体へと撃ち込まれる。
『!?』
瞬間、顔を歪める高位獣鬼。予想よりも遥かに硬いその感触に驚いた為だ。
ーしかし、問題は無かった。
胴体を撃たれたプロメテウスの四肢は、その威力に耐える事が出来ず四散したのだ。
両手足はぐしゃぐしゃにへし曲がり、頭部も空へと舞い上がる。唯一、彼の顔を歪めた胴体だけは無傷で転がるだけだったが、それでも問題は無い。
誰の眼にも漆黒の騎士が死んだのは明らかだったからだ。
『グババババッ!!脆い!脆イなッッッ!!所詮は愚劣な人間ノ犬カッ!!グババババッ!!』
そう言って笑う高位獣鬼。
そう、自分は強者なのだ。絶対的な強者。他者を踏み躙り、蹂躙する資格を持つ者。自らを侮る等、何人たりとも叶わない。
そう思い視線を残る二人に向けた。しかしー
『……!』
高位獣鬼は強い怒りを覚えた。残る二人の内の一人、人間の雌は構わない。両目に涙を溜め、嗚咽を漏らして此方を見ているのだから。
しかし、残る一人。漆黒の魔道士は違う。
笑っているのだ。さも、面白い物を見る様に。道化を見て、笑う子供の様にー。
『何がオカシいっっ!!』
激昂し叫ぶ高位獣鬼。しかし、その怒りすらあざ笑う様に彼は言葉を紡ぐ。
「なに、余りにも怖くて笑ってしまっただけだ。怖すぎて漏らしてしまったぞ?」
“ふざけるな”。
彼は心の底から憤怒に震えた。そう言った奴の顔には未だに笑みが貼り付けている。それは、自分が鬼ごっこと称して人間の雌を嬲っていた時のそれに他ならなかった。
「怖いな。頼むから命だけは見逃してくれ」
『〜〜ッッッ!!』
余りの憤怒に顔が歪む。全身が強張り、血が逆流する。言葉だけで取れば、間違い無くそれは命乞いの類い。客観的に考えれば、助命を媚いていると言える。
しかし、その黒衣の魔道士に貼り付けて離れない笑顔。そして、此方を圧倒しているプレッシャーは、決して命乞いをする人間のものでは無かったのだ。
『……もうイイ』
高位獣鬼は、黒衣の魔道士から距離を取る。自身の最強の技で目の前の絶対者を屠る為に。
『“多重強化”ッッッ!!』
“多重強化”。重強化の強化版で、更に効果を上げたものだ。
『“地面干渉”ッッッ!!』
“地面干渉”。本来なら、地割れや隆起で対象を攻撃する魔法だが、今回の使用用途は違う。強化された彼の脚力に、地面が負けない様にする為だ。
『高速移動ッッ!!』
瞬間、高位獣鬼は黒衣の魔道士へと駆け始める。“高速移動”は文字通り一時的に高速での行動を可能とする魔法だ。
重ねられた三つの魔法。それ等全を乗せて、最後のスキルを放つ。
『爆轟撃ウゥゥッッ!!』
音すら置き去りにした、圧倒的な高速で拳撃を放った高位獣鬼。
その恐ろしい威力に、自分自身でも震えが来る程だ。スキルや魔法とは、単体だけで使うものではない。複合的に使う事で、その威力を何倍にも高める事が出来る。
これだけの力と知識を授けてくれた、聡明にして偉大なる母に感謝しながら、彼は黒衣の魔道士へと拳を振り抜いた。
ー肉が裂ける音がする。
骨は砕け、血は飛び散り、辺り一面が真紅に染まる。当たり前だ。これだけの技を放ったのだから。
所詮、人間は人間に過ぎない。強者たる自分の前では、如何に人間の強者とは言え、紙屑に等しい。
傷つけられた自尊心を取り戻した高位獣鬼は、ゆっくりと視線をあげた。
『……ハ……?』
間の抜けた声が出てしまう。そんな訳が無い。有り得ないー。
彼の目に飛び込んで来た光景。それは、砕け散った黒衣の魔道士の姿では無い。
ーぐちゃぐちゃに潰れて原形すら無くなった、自分自身の右腕だった。
『グギャァアッッ!!』
悲鳴を上げる高位獣鬼。灼熱に自らの右腕を焼かれる様な苦痛が走る。しかし、転げ回ってもその炎が消える事は無い。
ー彼の右腕は、既に無いのだから。
苦痛に悶えながら、漸く彼はあの時何があったのか理解した。
奴は、黒衣の魔道士は、何もしなかったのだ。
黒衣の魔道士は、ただそこに佇み、彼の右腕を受け入れた。
何の事は無い。彼の技の威力に彼自身の右腕は耐え切れず、技を放たれた筈の黒衣の魔道士は、身動き一つせずに耐え切ったのだ。
「うわぁぁ。こわいよー」
抑揚の無い、ふざけた声が聞こえた。
そのふざけた声と共に振り抜かれた不出来な杖は、強者である筈の高位獣鬼の首を跳ね飛ばした。
その姿はまるで、彼が弱者と嬲った一人の父親の様だった。