翻訳魔術
暖かな日差しの中。左右を常緑樹に囲まれた狭い林道を、一人の少女が駆ける。
この林は材木を得る為に人の手で整備された物であり、普段ならば林業に携わる働き手達でそれなりの賑わいを見せる場所だった。
しかし、今見えるのは先程の少女一人だけだ。
「……みんな……ごめん…… !」
そう口にした彼女の目からは、大粒の涙が止めどなく溢れていた。体は傷だらけで、疲労は限界に近い。それでも足を止めずに走り続ける事が出来るのは、彼女を逃がす為に犠牲となった仲間たちの意思に応える為だった。
「……み……んな……!」
そう言うと、彼女は再び嗚咽を漏らした。
この涙は、ただ単に今は亡き仲間達を思っての涙では無い。それ以上に自分が生き残ってしまった事への深い後悔だった。
ー彼女が持ち帰って来れたのは、今は亡き仲間達の最も望まなかった答えだったのだからー
ーーーーーーー
「うっ……うっ……母ちゃん……お家帰りたいよぉ……ママァ……!」
『またそれか。どうでも良いけど、母親の呼び方は統一してくれ。マミーやらお袋やらおっかさんやら使い分けるな。ツッコミが怠いから』
「ファァァザァァァァーーッッッ!!」
『ごめん、呼び掛ける相手も統一してくれる?』
慎太郎はそれだけ叫んだ後、マントに包まり蹲った。暫くすれば起き出して、魔術の鍛錬やら調整やらを始めるのだが、この半年幾度も繰り返される起床の儀式に、忠実なる使い魔も辟易としていた。
ーそう。あれから半年も経過しているのだ。
最初の頃はこんな鬱陶しい起き出し方はしていなかった。食べ物や水、寝床の確保。それに周辺の脅威に対する備え等、やる事が山積しており、それら一つ一つの対処に追われた慎太郎は、朝から晩まで働き詰めて、夜は泥の様に眠り、そして翌朝も早くから活動していた。こんな風に嘆いている余裕は無かったのだ。
しかし、調整が終わった新人の指輪による雷撃での川魚の大量確保。プロメテウスの解析機構で、可食可能な植物を分類。水に関しても飲む事の出来る湧き水を発見し、‘‘食’’の不安は解消する事が出来た。
更に調査の結果、周辺に生息する飛行可能なタイプの魔獣で慎太郎に対処出来ないものは居ない事が分かった為、切り立った崖の上に携帯研究所を設置する事で、不用意な外敵の襲来を防ぐ事が可能と成り、当面の安全も確保出来た。
そうして“食”と“住”の悩みから解放された慎太郎は、漸く生死に直結しない悩みを抱く余裕が出来たのだ。
ーすなわちー
「お家帰りたいよぉ……!柔らかな布団に包まれて、なろうの主人公に自己投影したいんだよぉ……!」
『……マスター。データとしてある程度の知識はあるけど、あのサイトの小説は大体似たような内容なんだから、そんな数読まなくても平気だろ?』
「はぁ?アンチかテメェ!言っとくが、なろうはストーリーものとして見るもんじゃねぇ! 視点がずれとるんだよ!
なろうは主人公になりきってなろうの世界を体験する体験型作品、テーマパークみたいなもんなんだよ !
なろうの世界にいるときは完全に主人公=自分で自分が物語のなかに入ってるから現実世界じゃあり得ないほどの絶世の美少女に囲まれる体験出来るんだ!
キャバクラみたいなもんなんだよ!!
まぁ、商売のあれと違いこっちはみんなほんとにメロメロだから上位互換だけどな!
で、お金を払ってるお客様に敬語使うのは当たり前なんだ!!
お金払ったら女の子にサービス受けられるのは当たり前だろ!!
主人公はお金払ってるお客様の分身なんだからな!!」
『生意気言ってすいませんでした』
「許すッッッ!!お家帰りたいッッ!!グランマァァァァァッッッ!!」
『婆さんは同居外親族だったよな?』
ーそう、今の彼を最も強く襲っていたのは、望郷の思いであった。
この世界に来て、暫くの間はここまで強く日本へと帰りたいとは思っていなかった。
この世界には魔力も豊富にあり、見た事も無い動植物も多数居た。プロメテウスも居るし、魔術道具も予想以上の性能で稼動する。魔術を心から愛している慎太郎にとっては、理想的な異世界と言えた。
しかし、当面の脅威を全て取り除いた状態で、自分以外の人間との関わりが一切無いまま長い時間を過ごして、自分の状況と向き合うのは、健全な豆腐メンタルの慎太郎には耐え難い苦痛となっていた。
「なんでだよ……!俺は言ってみれば最強系主人公なんだぞ!?普通転移して直ぐに貴族のアバズレビッチを助けてチヤホヤされる展開がある筈だろ……!何で……何で頭と股の緩い美少女が出て来ないんだよ……!」
『人気出ない前提の逆張り小説の主人公なんじゃ無いのか?』
「不吉な事言うんじゃねぇぇぇぇッッッ!!ポーーチィィィィッッッ!!」
『それ向かいの佐藤さん家の犬だな。何でこんなデータを俺に入れてんだよ……。
ったく、そんな風に嘆くくらいなら自分で動けば良いじゃねぇか。あの林道に居た人達から得た情報で、翻訳系の魔術はもう完成してるんだろ?普通に話しかけて街に行ってみりゃ良いじゃねぇか』
「そ、それは……」
そう言って慎太郎は口籠もる。そう、この半年で既に彼等は人里を見付けていたのだ。
周辺の調査を開始した慎太郎は比較的早い段階で林業に勤しむ人足達を見つける事が出来た。そして、警戒の為に“隠者の外套”と名付けた隠密用の魔術道具に身を包み、彼等に接近したのだが、その時に新人の指輪の翻訳機能が上手く機能していない事が分かり、直接の接触は避けて一時離脱。
そして、複数回同様の接近を行い彼等同士の会話からデータを集め、改めて作った翻訳系の魔術を新人の指輪に組み込み、それが機能している事も確認した。そして、会話の内容から彼等が真っ当な人間である事も理解している。
そこまでしても慎太郎が彼等に話しかける事が出来ない理由。それはー
「……だって……知らない人だし……」
『コミュ障ヤバ過ぎじゃね?』
そう、圧倒的な慎太郎の人見知りの所為なのだ。目の前に自分達の状況を変える事が出来るであろう人達が居るのに、話しかけるのが怖い。
なまじ生活環境も整って緊急を要さないこの状況は、彼等に話しかけたく無い慎太郎の甘えを許してしまっており、それに甘えてしまっているが故に彼は真綿で首を絞める様なストレスに自らを晒してしまっているのだ。
そして、この思考の袋小路から逃避したいと願う慎太郎は、故郷への想い募らせる。
「……家に帰りたい……」
『はぁ……』
何ともまぁ、情け無い主人である。
しかし、それでも自らを生み出し、更に幾多の魔術道具を事も無げに作り上げるだけの技術を持った天才的主人の事を、プロメテウスは敬愛していた。
ー何とか主人自身の手で解決して欲しかった問題だが、どうしようもなさそうだ。仕方ない。自ら動こう。
プロメテウスがそこまで考えたその時、事態は急変する事となった。
「……誰か……ッ!!助けてェェェェッッ!!」
突如として聞こえて来た悲鳴。その声は彼等が居る切り立った崖の直ぐ下から聞こえて来た。
一瞬の逡巡の後にプロメテウスは慎太郎へと視線を向ける。どんな事態なのか分からない状況で、もしかしたら見捨てると言う選択肢を臆病な主人は選ぶかも知れないと思ったからだ。
ーしかしー
「な、な、な、何してる!す、直ぐに助けに行くぞ!!」
『……』
震える声で。しかし迷い無く助ける事を選んだこの臆病な主人を、プロメテウスはどうにも嫌いになれそうになかった。