誘惑
予知夢を見始めるようになったのは、おそらく小学校低学年のころからだ。その時は、自分が見たものが何を意味するのか、全くわかっていなかった。妙にリアルな夢を見るな、とーそれくらいにしか、とりあげていなかった。
ようやく理解した時には遅かった。
小学校五年生。高学年に繰り上がったその日に見た夢で、私は小動物を殺していた。鼠か、雀か。飛び起きた後にも、夢の名残がべったりと血生臭く貼りついていて、気味悪かったのを覚えている。そしてその気味の悪さが抜けきらないたった数日後、現実で鼠を殺して初めて、正夢だったと気づいたのだ。
二歳違いの姉妹だから、高等部と中等部の入口でお互いに別れる。こちらに手を振り、背を向けて歩いていく姉を見送った後すぐ、下駄箱でため息をついた。
姉を殺し、思い人に殺される。まっぴらごめんの未来をどうにかして変える方法。それを通学の道すがら、延々と考えていたのである。
「ー私は恋するんだ」
ふと気づいて、呟いて、また嘆息した。今度は仄かな吐息を漏らしただけで、重いため息ではないかもしれなかったが。
「どうしたの?藍原さん」
「あ、三宅さん。いや、別に…」
背後の気配に振り向くと、三宅雪が間近に立っていた。下駄箱の位置が近いから、通学の時間が被った時には挨拶ぐらいはする。けれどこうして、心配そうに声をかけられたのは初めてだった。
「何でもないよ、本当に。」
素早く上履きに履き替え、革靴を片付ける。そそくさと去ろうとした瞬間に、セーラーの襟が引っ張られた。勿論彼女の仕業で、再び向かい合うと、おっとりした顔立ちを少々曇らせて、私をじっと見つめてくる。
「…やっぱり、体調が悪いんじゃない?藍原さん、すごく、顔が真っ青」
「え、」
気づいていなかった。姉には気づかれなかったようだが、無意識に気を張っていたのだろうか。
「私、保険委員だから。ついてくよ、というより、連れていくよ。行こう、保健室」
差し出された手のひら。名前の通り、雪のように白く、けれど少々膨れすぎだ。彼女は全身小太りで、それに似つかわしい上品さも備えている。
誘惑は、断りがたかった。正直、一旦自覚すると、血液の巡りの悪さが自分でも恐ろしかった。放って置けばすぐさま貧血で倒れるだろうーと言い訳をつけて、私は恐る恐る、三宅雪の手を取った。
もうひとつ言い訳をするならば、姉以外と手を握る機会は、初めてだったのである。
保健室には先客はおろか、教師もいなかった。それでも三宅雪は慣れた様子で室内をうろつき、気付け薬を見つけ出して私に飲ませた。
もしかすると彼女は保健室の常連なのかもしれない。彼女の体系と病気を脳内で結びつけ、それでも私は何も喋らなかった。
三宅雪も、私が大人しくベッドに横たわるのを見ると、黙って立ち去っていった。私との距離感を掴みかねていたのだろうか。そもそも、同じクラスの彼女とは、今まで挨拶以外したことがなかったのだ。
ー私は誰を好きになるのだろう。
真っ白なシーツに横になると、再びその疑問が浮かんできた。
予知夢を見るのは突然で、見た夢がいつ起こるのか判別するすべはない。1週間、数ヶ月、年を越えたこともざらにあった。結果だけがぽつりと浮かび、その過程は知り得ない。
なんて役に立たない力だろうか、と自虐的に罵ってみる。
取り敢えず、顔も知らない彼のことは置いて、姉のことを考えるのが先決だろう。が、正直、私が姉を殺すという未来は受け入れがたい。
尊敬しか抱いたことのない存在を殺せてしまう、そのきっかけは何だったのか。
ふと、鼠の死骸が脳裏によぎった。全く関係のないイメージに首を捻りつつ、ー勘づいた。
「姉が好きな人を、好きになってしまう可能性…」
可能性は大いにある、というよりむしろ、それしかあり得なかった。私は私自身に納得し、身を起こす。血の気がようやく、戻ってきた頃合いだった。