異世界の豚は、空を飛ぶようです
僕は妾の子であるらしい。
それ以上の事は、知らず。
何処で生まれ、誰の子であるのかもまた、まったく見当けんとうがつかない。
幼いころは、屋根裏部屋の薄暗い所で。
そこで誰かに抱かれては、わんわん泣いていた。
それだけは、記憶している。
その誰かは知らないが。
もしかしたら自身の母だったのかもしれないが。
今は、知る由もなく。
知ることもまた、無いと思う。
僕は使用人で、奴隷の様なモノであるらしい。
妾の子であるこの僕が、今もこうしてお屋敷で生きる事を許されているのは、ひとえに使用人として這いつくばって、無様を晒しているからだと、聴く。
と言うのも、お家の方々がわざわざ僕にそう教えてくれたからだ。
だけど。
本当に無様であるかは、さておき。
お屋敷の中で過ごしてきた僕は、それ以外の生き方を知らないのだから。
無様と言われても、よく分からずに。
そんなことさえ分からない僕は。
きっとあの日までは、家畜で。
自由なんて、得られることさえ考えていなかったんだ。
「おや?よかった。目覚めたのか――――」
僕は、あの日。
この世の奇跡を知って。
突然の自由を、得た。
その日は昼頃。
ふと見た窓の外には、小雨が降り始めていたことをよく覚えている。
雨は、どちらかと言えば好きだった。
湿気のじめじめとした空気は、少し嫌いだけど。
雨音の、ぱらぱらと鳴る音は、好きだった。
ぱらぱら、ぱらぱらと。
連続する雨音は、同じようでみな違っている。
目を閉じて、聴けば。
雨音はオーケストラの様に、壮大。
雨は、どちらかと言えば好きだった。
洗濯物は、乾くのが遅れるのは困るけれど。
その滴がぽつぽつと落ちる様は、好きだった。
私のかわり、心のかわりに。
泣いてくれているみたいで、心洗われる。
目を開けて、眺めれば。
雨水はなみだしずくの様に、きらきら輝く。
だけどその日の雨は、困ったことに突然に降り出したもので。
外は雨が降れど、晴れ。
所謂それは、狐の嫁入りというものだった。
「困ったなぁ……」
外には大量の洗濯物。
お家の方々の衣類もそうであるけれど、今日はシーツも干しているのでより沢山あるので急いで。
廊下は走らねど。
しかし誰も見て無い事をいい事に、はしたなく小走りで外へと向かう途中で。
「待ちなさい」
不意に、通り過ぎた扉は。
築年数がとても古い事を証左せんとばかりにギィと音を立てて、開き。
背に呼びかけられて、止められた。
少々の強みを含んだその声に。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、それこそ条件反射で僕の躰がビクッと震える。
きっと僕の躰が連想するのは、叱咤――――そして暴力。
長く、長く刷り込まれているそれは、害のないお人の声だと分かっていても。
馴染んだ声だと知りながらもなお、震えてしまうほどに。
「××お嬢様」
「ごきげんよう、愚弟」
振り返り、頭を下げる相手は。
僕を呼び止めたのは、××お嬢様。
このお屋敷には多くの人が暮らし、その中には僕の異母兄弟にあたる人も何人かいるけれど。
その中でどんな形であろうと。
僕を弟と呼んでくださるのは、××お嬢様だけ。
「申し訳ありません、お騒がせしております」
「ええ本当に騒がし。騒々しいわ」
目を伏せたまま此方に歩み寄るお嬢様には、足が三つ。
彼女の両足と、木製の杖をついて。
以て、三つ。
「それで?」
「それで、とは?」
「その騒がしさを連れる、お前は何処へ? と、聴いているのです」
「外に干した、衣類を取りに急ぎ、外へ向かっておりました」
「………雨?」
首を傾げ、窓を向き。
その手に持つ、杖をついては、進む。
歩みには、迷いなく。
光なくとも、光をその瞳に得ているかのよう。
「雑音に夢中になって、気付きませんでした」
お嬢様は窓際に進み、寄り。
その耳もまた、窓に寄せる。
「世界が、水に濡れる様はどのような?」
「………お嬢様?」
「愚弟。少し、静かに」
お嬢様は、静かにと言うが。
それはその場で待て、とも言われているようなもの。
かしこまりましたと、頭を下げるけれど。
取り込みが遅れて衣服が駄目になってしまえば、当然奥方様に叱られてしまうし。
他のお家の方々からも、また虐められてしまう。
虐められるのは当然、苦手だ。
「嗚呼。晴れの日の陽の暖かさも、また良いものですが、やはり雨は、雨音は、良いものです。ただ、世界が水に溺れる様を、水が滴の群となって落ちて来る様をこの目で見る事が出来なくて残念ですが………」
だけど目を伏せ、雨音を楽しむお嬢様―――お姉さまの、そのお傍に侍る一瞬は、苦手な罰を対価にしても惜しくはないと思ってしまう。
寧ろ、お嬢様が僕と同じことを考えていたことを知れた事は。
待たされ、後に怒られると分かっていても。
それに見合う、価値がある。
「世界の見える、愚弟が羨ましいわ。より、雨を楽しめるのでしょうね」
「………わたくしの粗末な目であれど、お嬢様の役に立つのであればいつでも喜んで差し上げます」
「冗談でもそのような事を言うモノではありません、阿呆者」
「いたっ」
雨を気に入っている。
僕がそのことを知れた喜びのまま、進んで本心を申し上げれば。
お嬢様から返ってくるのは、杖。
「酷いです、おね………お嬢様」
「確かに羨ましいとは言いましたが、愚弟から世界を奪ってまでしてそれを欲しがるほど、私は落ちぶれてはいません。貴方が見る世界は、貴方だけのモノなのだから」
「僕だけの、世界?」
世界とは、何ぞや?
「………はぁ」
疑問に思った僕の心を察してか、お嬢様は溜息と手招き。
ちょいちょいと、僕を呼ぶ。
素直に寄れば、差し出される片手。
その手は、僕の顔へ。
手はペタッ、ペタッ、と。
触れる、というより触る様に。
「『世界なんて知らない』と、言いたげな顔をしてますよ、愚弟」
「そ、そんなことはありません」
「では奥底にある、自分も気づけぬ思いでしょう」
確かに。
思い返せば、僕が知る世界はこのお屋敷と敷地内の事だけ。
後の事は、知らない。
そんな僕を、お嬢様は「かわいそう」と呟き評す。
「生まれた頃から鳥篭に囚われて育った鳥は、外に飛び立つ事を知らないのですね。その背には、空を自由に飛び廻ることができる翼があるというのに」
「お嬢様?」
「愚弟は、その身の自由を求めないの?」
僕が? 自由を?
お嬢様に問われたことは、今の今まで考えたことも無かったこと。
僕はこの毎日が、僕自身でずっと続くものだと勝手に考えていた。
それは妄執だと、お嬢様は語る。
「鳥篭を壊すために、ほら手を伸ばしてみなさい」とも言われるも。
だけど言葉で語るのは、簡単で。
自由なんて、そんな簡単に得られるのなら。
僕も。
そして虐げられていたと聴く、死んだ母も。
最初から此処にいない。
「愚弟」
そこまで考えて。
お嬢様に、止められる。
「貴方はあの人達とは違って、本当に素直。相変わらずの百面相は、貴方の美点ですよ」
「……お嬢様は、酷いお人です」
自由なんて、望めないモノを。
得られない僕だから、ならば知らないままの方が良かった。
「恨む?」
「いえ」
「あら、そう」
僕から離れるお嬢様。
その表情は、何処か嬉しそうで。
「どうして嬉しそうなのですか?」と問えば。
「愚弟が悩むから」だと言われてしまう。
お嬢様は、僕のようなモノにも言葉を交わしてくださるお優しい人。
そんな人だから、そのままの言葉、意地悪の意味で喜んで言っているのではないのだと思う。
ただ、そのお心を量るまでの事は、僕にはできない。
「お話は、此処までにしておきましょう。これ以上は、貴方が困るでしょうし」
「いえ、そんな事は」
「付き合わせてごめんなさい。久々に貴方と話せて良かったわ」
「私もです」
「お行きなさい」
「それでは××お嬢様、ごきげんよう」
「ええ、ごきげ――――ああ、愚弟」
別れを述べかけたお嬢様だったが、少し辺りを気にする仕草を見せて。
「最後に、私の名を呼んでいただけますか?」
お願い。
お家の人どころか、使用人も近くにはいない。
お嬢様も、また確認した、今。
僕がお嬢様のお願いを、叶えない道理はない。
「お優しい、××お姉さま」
「うん」
感謝しております。
そして、お慕いしております。
僕にとっての、ただ唯一の優しい人に、伝えたい気持ち。
けれど、言葉にはしない。
それを口にすることは、使用人の立場の僕ではとても烏滸がましい事で許されない事だと思うから。
しかし語らずとも、伝わっているのだろう。
お嬢様は、こうも微笑んでくださるのだから。
「貴方の往く道の先に、幸があらんことを」
別れに、言われる。
まるで僕がこれから遠くに旅立つ様な言い方に。
お嬢様から離れた僕は、思わずクスリと笑ってしまう。
それだけ、僕の事を気にかけてくださるということの表れなのだろうけれど。
外に、洗濯物を取りに向かう。
それだけの為に、幸運を祈られるのも、おかしなもの。
「自由」
向かう途中。
お嬢様に言われたことを思い出し、考える。
自由。
それは僕が、きっと永遠に手に入れる事が出来ないもの。
だけどもしも、お嬢様が言われた通り、この鳥篭から外の世界に飛び出す事が出来るのなら。
僕だって、外の世界を生きてみたい。
自由に、なりたい。
その気持ちに気付けたことは、残酷な事。
だけどその思いを抱くこと自体は、嫌ではなかった。
ただ繰り返す、それだけの毎日が変わる。
そのきっかけになる、そんな気がするから。
「ちょっと志鳥さん、遅かったじゃない!!」
「早くこっち来て、手伝って!!」
二階の、使用人用の裏口から外に出れば。
庭には既に多くの使用人とメイドさんがいるも、手が回っていないようだ。
「ごめんなさい!!すぐに――――」
同僚のメイドさんたちに呼ばれて。
僕は慌てて庭に続く階段を急ぎ降りようとするも、ふわり。
目の前を横切る、白い羽。
それは不思議な羽だった。
雨が降るにもかかわらず。
濡れる様子もなく。
何よりその羽は、淡く光っていたのだから。
「どうして……………あっ」
横切っていった白い羽を疑問に思えど、途切れる。
不意に足元の違和感。
そして、浮遊感。
いつの間にか、僕は空を望んでいた。
最初は何があったのかも、気付けなかったが。
やがて、落ちる中で気づく。
僕は雨に濡れた階段で、足を滑らしてしまったらしい。
そのことを。
落ちていくそれは、嫌にゆっくりで。
視界に広がる空は、雨が降るも、晴れ。
陽の光は、出たまま。
その中に―――
「………誰?」
僕は陽の中に、飛ぶ誰かを見る。
その姿は、逆光で明らかではなく。
シルエットしか分からねど。
その背に生えた、大きな片翼は。
―――異様。
「ぐへ!?」
ロクな受け身一つとれず、地に落ちて。
情けない声を上げるのは、僕で。
聴く悲鳴は、誰かのもので。
この身体の痛みはまた、僕のもの。
起き上がない。
立ち上がれない。
動けない。
意識もまた、確かでない。
そして、なくなっていく。
「志鳥さん!?」
「誰か、お医者様を!!」
こんな所で死んじゃう、のかな?
そう考えてみると、あっけなく諦めがついて。
そしてなんてつまらない人生だったのだろうと、思ってしまう。
「あ………ぁ……」
「大丈夫ですか志鳥さん!?お気を確かに!!」
地には、血が。
流れる朱は、広がって。
僕を、沈める。
その逝き先は、天国か地獄か?
同僚の使用人の方々が、僕を囲って呼びかけてくれるも、見ず。
窓から此処を見下ろす彼女を、僕は見上げていた。
××お嬢様。
相も変わらず、見えていない筈なのにまっすぐに。
こっちを向いているあの人は、本当は見えているかと疑いたくなる。
だからだろうか?
僕は彼女に手を伸ばす。
意味もなく。
無意味にも。
「ごめん、なさい………」
僕の謝罪は、届いていないだろう。
だけどお嬢様の口元は、動き。
―――いってらっしゃい
と、言っている。
そう僕には、見えた。
「………あれ?」
意識は。
ゆっくりではなく突然に、目覚める。
目覚めることなど二度とない。
階段から転げ落ちた時はそう思っていた僕が、意識を取り戻したのは奇跡なのか?
それとも、僕を治療してくださったお医者様の腕が良かったからか?
どちらにせよ、僕は今生きていて。
意識が、ある。
それは喜ばしい事だとおもうが。
しかし喜ぶには、まだ早い。
「ここ、何処?」
血が溢れ出る程の怪我をしたのなら、病院に連れられるのは当然の事。
そのように考えていた、僕が間違っているのだろうか?
見上げる天井は、木製で。
周りを見渡せば、此処は誰かの個室。
部屋は生活感に溢れていて、とても病院のモノとは思えず。
しかしあのお屋敷のものであるとも思えず。
常備されている物は、時代錯誤。
中世の農家の様な部屋で。
そんなこの部屋を、勿論僕は知らない。
知らない場所だ。
ベットから、起きてみる。
てっきり大怪我をしているものだと思っていた僕の身体だけど、意外にも痛みなく起き上がることは出来て。
驚きながらも近くの窓に寄って、まずは周りを知らねばと外を見る。
やはり外も、知らない景色。
喉かな田園が、広がって。
空には、豚が飛んでいた。
………うん?
豚?
………うん。
豚である。
豚が、お空を飛んでいる。
「いや、なんで!?」
もしかしたら、夢なのかもしれない。
豚の背に、翼があって。
お空をブーンと、さも当然の様に飛んでいるなんて常識的に考えて、ありえない。
だけど頬を引っ張ってみても、痛みはあって。
痛みはこれが現実だって、訴える。
ならば彼の豚は、一体全体何事だろう?
豚は蹄目イノシシ科の動物の筈なのに、いつから鳥類の仲間入りを果たしたのか?
「おや?」
と。
背にある部屋の扉が、開く音。
振り返ってみれば、一人の老人。
来ている服は、やはりこの部屋と同じく、時代錯誤。
で。
それは、さておくとして。
老人の背から、こちらを覗く女の子。
その子の髪は、透き通るような綺麗な蒼髪で。
それだけでも、ありえない髪色だけでも十分個性的だけれども。
その彼女の頭にある、獣耳。
目を疑うのは、当然だと誰か言ってほしい。
やたらピコピコ動くあれは偽物だと、言ってほしい。
「よかった。目覚めたのか―――――お嬢さん」
「………はい?」
お嬢さん。
そう呼ばれることは、幼い頃ならともかく。
既に十八の誕生日を終えている僕の見た目は明らかな、男。
つまり、ありえない事なのだ。
僕の来ていた衣服もまた男性物を着用していた筈なのに、何故にお嬢さん?
と思えば、今の僕の格好は、意識を失う前まで着ていた筈の、使用人の服では無くて。
真っ白なポンチョに近い質素な下着姿。
その服の、何故か胸の辺りには確かな膨らみ、丘陵。
まさかと思い、人前ではしたなくはあれど右下腹部の左斜め下に手を伸ばしてみれば。
僕の大事な、象の失踪。
「ええぇ………」
声も明らかに、高いソプラノ。
姿見で確認せずとも。
此処までくれば、明らかで。
そして僕が今いるこの場所――――世界ももはや、明らかだ。
「ぇぇえええええええ………」
へたり込んで、頭を抱え。
「どうしてこうなった?」を、脳内リピート。
パニックになる。
「ぅええええええええええええええええええええええ!!?」
「お、お嬢さん!? 大丈夫かね!?」
僕はこの日。
この世の奇跡と知って。
突然の、自由を得た。
だけど、待ってほしい。
ちょっと待ってほしい。
神様が、いるのなら。
こんな奇跡を謀った人が、いるのなら。
心の準備を、せめて少しくらいはさせてほしかった。
突然の異世界、突然の女性化。
その突然の出来事に、己がどんな感情であればいいのか分からない。
笑えばいいのか?
喜べばいいのか?
泣けばいいのか?
怒ればいいのか?
………取り敢えず。
僕は内心だけでも、喜んでみる事を選ぶ。
わ、わーい、自由だー(涙目)
「―――」
その獣耳少女の呟きに、僕は酷く傷付いた。
ぶーん⊂二二二(豚^ω^)二⊃