Sweet Valentine
前半シリアスの反動か、後半甘いです。
うっかり何か壊さないようにご注意ください。
約束の時間きっかりに現れた待ち合わせ相手に、黙って水筒の温かい紅茶をコップに注いで差し出した。目を眇めて受け取った彼は、珍しい気遣いに何も言わない。この呼び出しが確信犯だという無言のメッセージを正確に受け取ったようだ。
「まず、こちらの報告からさせてもらうわね」
「さっさとしろ」
にこりと微笑んでみせる私に投げ捨てるように返し、約束相手——兄の哉也は、どっかと切り株に腰掛けた。
神社の裏山の開けた一画。私と哉也と翔が幼い頃に偶然見つけて遊び場所にしていたここは、未だ私達以外誰も知らないままだ。勿論15分前に来て人目の有無は確認しているし、翔直伝の盗み聞きされない準備も済ませている。
それに気付いていないのか気付いた上で感謝の言葉なんて無用と思っているのか、哉也はその事に一切触れず本題に入った。
「で。大口叩いた以上、受験勉強で進んでいませんなどとほざきはしないだろうな」
主語のない問いかけには、すぐに反駁する。
「そんな訳ないでしょう。寧ろ受験が大丈夫なのか不安になる位よく動いているわよ。既に『吉祥寺』の中では、反発する声が少数派になっているもの」
哉也が無言で片方眉を上げる。疑いつつも先を促すという器用な真似をする兄に、肩をすくめて見せた。
「琴音も後押ししているし、そっちの件はメリットだけ見れば食い付かない筈がないわ。後継者問題も、少しスタイルを変えれば問題無いと思わせてしまえば薄れるでしょう?」
「ああ、あの口先だけで他人の人生狂わせそうな根性悪なら可能だろうな」
「……それを哉也が言う? 幼馴染みを顧みてみなさいよ」
「翔は自分の望むように他人を振り回すが、人生まで狂わせはしない」
同じようなものではないかと言いたいけれど、何十倍にもなって返ってくるのが目に見えているので言わないでおく。ただでさえ機嫌が悪いし、下手に刺激しない方が良い。
「で、そっちは何で上手く行ってる?」
話を戻すよう促す哉也の問いかけには、私も苦笑気味に答えた。
「それが……「出来損ないが『香宮』と繋がりを持つのは『吉祥寺』の力になる」って、寧ろ喜んでいるというか」
「は? 『香宮』がお前を下げ渡すかよ。つーか、空瀬はその方向に持っていく気か?」
「まさか。ただ彼等が「勝手に解釈」して、私達がそうするつもりだと「思い込んで」しまったのよ」
言葉の節々で仕掛け人の意図を仄めかすと、哉也は心底嫌そうに溜息をつく。
「本領発揮か。ほんっとうにタチの悪い奴」
(……そのタチの悪い奴を利用している哉也だって、十分だと思う)
反論は心の中でだけ呟いておく。彼等の関係は少し複雑で、仲が悪いのに信頼は確か。大事な仕事を一任しているのに、口では大層悪し様に言う。うん、よく分からない。
けれど哉也の人間関係なんて興味無いので、何も言わず報告を続けた。
「……それで、そっちはどう?」
残りの細々とした報告を手早く済ませて尋ねると、哉也は僅かに眉を顰めた。来た時からずっと纏っている不機嫌さとは違う、苛立ちに近いものが瞳にちらつく。
「……『吉祥寺』と敵対するより友好的に接した方が遥かに利が大きいと、ようやく奴らに理解させ、頭に留め置かせた程度だ」
「思ったよりも時間かかってる?」
こちらの進度を思えば随分と遅い。そう思って訊いたら、睨まれた。
「あの連中が感情を横にどけて論理的な思考をするまで、どれ程時間がかかると思っている。ここ最近の『香宮』の動きを思い返してみろ」
「ああ……そういえば、何かを決めて動くまで年単位ね。それを考えれば早いか。ねえ、その人達って感情的にばかり動くタイプなの?」
「口聞いた事あれば誰でも分かるだろ」
怪訝そうな返しに、肩をすくめる。
「私があの人達と顔を合わせるのは、目も合わせずに何か言いつけられる時だけ。会話にはならないわ」
哉也の顔が歪んだ。さっき見せた苛立ちのようなものを何倍にも煮詰めた猛々しい感情の波を、一瞬だけ視線を外してやり過ごす。
「翔はどう?」
「……コソコソと動いてる。ここ最近外堀が埋まってきてるから、上手くやってるんだろ」
全幅の信頼が寄せられた言葉に、頷く。一昨日聞いた翔の報告とも齟齬がない。彼等は特に連絡を取り合っていないのに互いの動きを把握しているから、偶に少し不気味だ。
「じゃあ、こんなものね」
そう言って一拍置き、わざと微笑んで見せた。
「ずっと言いたそうだったけれど後回しにしていた言葉の数々、どうぞ?」
すうう、と哉也の目が細まる。そのままその端正な面に極上の笑みを浮かべ、哉也は低い低い声で思いの丈を吐き出した。
「クソ忙しい中やっとの思いで空けたその日に呼び出しをかけるとは良い度胸だな。しかも当日に呼び出すから緊急性の高い用事かと渋々出向いてやれば、急ぎでもないただの報告。明日でもさして問題無いのにわざわざ今日呼び出したのは一体どういう意図だ。勿論俺を納得させられるだけの言い分があるんだろうな、内容によってはぶっ飛ばすぞ」
流石の肺活量。息継ぎも途切れもなく、はっきりとした発音で淀みなく吐き出された毒には、一音一音に苛立ちがくっきりと込められていた。
とはいえ、哉也がここまで怒るのも仕方が無い。なぜなら今日は2月14日、日本では恋人達の日とされるバレンタイン・デーなのだ。
本人の言う通り、哉也は今とても忙しい。琴音を手に入れる為に、家での工作や協力者集め、外堀埋め、琴音の家の説得を同時に進めている。幾つかは周りに任せているけれど、全てを指揮する立場である哉也は連絡を密に取り続ける必要がある。そして志望大の2次試験目前の今、幾ら全国一位の秀才といえど追い込みの真っ最中だ。
多方面の報告・指示をこなし——電話やメールは盗み聞きが怖くて誰も使わない——、受験勉強をし、家の跡継ぎとしての準備もさせられ……良く倒れないな、と密かに感心しているなんて、絶対に言わないけれども。
まあ、それはともかく。そんな多忙の中ひねり出したバレンタインに私なんかに呼び出されれば、不機嫌な言葉の1つや2つはあるだろうと思っていた。覚悟していたよりも穏やかだったのは、やっぱり疲れているのかもしれない。
そんな事を考えつつ恨み言を受け取った私は、相変わらずそれはそれは美しい笑みを浮かべたまま炯々とした目で睨んでくる哉也の問いかけに答えるべく、口を開く。
「まあ、言い分という程のものはないわね。あえて言うなら……嫌がらせ?」
途端飛んできたコップをひょいと避ける。後ろを見ると、木に当たって落ちたコップから残っていた紅茶が零れていた。紅茶って、植物は大丈夫なのだろうか。
そんな心配をしつつ振り返った私は、物騒な顔をしている哉也に肩をすくめてみせる。
「朝から琴音と会うより、少し休めば? 疲れた顔でいたら、琴音気にするわよ」
哉也の眉が寄った。けれど反論がないから、心当たりがあるらしい。疲労を感じさせない顔を一瞥し、私は立ち上がった。
「私の用事はこれでお終い。琴音には13時からどうぞって言ってあるから、眠れば?」
10時からの約束と聞いたから、9時に待ち合わせにした。手早く済ませたのでまだ9時半、琴音に告げた新たな約束時間は13時。3時間以上しっかり眠れる時間を確保してやったのだから、聡い琴音に気を使わせない程度には疲労を回復して欲しい。
何せ琴音は、弱みを見せない哉也の微妙な変化を敏感に察する。哉也の疲れに気付いてしまえば、それはもう気にするだろう。その程度、自分で気付いて欲しい所だけれど。
哉也が苦い顔で髪に手をやった。図星を指された時の癖を晒すなんて、どうやら本当にお疲れ気味らしい。それ以上の苦情も来ないから、納得したようだ。
とはいえ、哉也の体調を気遣うつもりなんてこれっぽっちもない。琴音の心情も、哉也がいくらでもカバーするだろうから、本当はそこまで心配していない。この時間を指定した本当の理由は、琴音を休ませる為だ。
この時期、2年生の私達もまた年度末試験前だ。それに加えて私も琴音も哉也と同じように動いているし、何より——昨日はバレンタインの準備で、一睡もしていない。
忙しい哉也の為、少し難しいお菓子に挑戦する事にした琴音。料理の腕はかなり上がったから大丈夫だろうと軽い気持ちで手伝ったけれど……琴音はどうも、お菓子作りに向いていないみたいだ。予想を大きく上回る大苦戦の末何とか出来上がったものの、朝日が昇るのを見た私は、急遽哉也を呼び出す事で琴音の睡眠時間を確保した。
琴音も寝不足の顔で哉也に会いたくないだろうし、そもそもお菓子作りに苦戦した事は絶対の秘密。そんな訳で私は憎まれ役を買って出てまで、琴音に時間を作ったのだった。
「それじゃあ」
適当な別れの言葉と共に一足先に出ていきかけた私の背に、哉也の声がかかる。
「お前は……本当にいいのか。俺の協力をしていて」
「何を今更。お互いの為でしょう?」
珍しい問いかけに、あっさりと答える。やや間を置いて、哉也の声が返ってきた。
「憎いんじゃなかったのか?」
肩越しに振り返る。哉也はまだ切り株に座ったままで、私に背を向けている。
背中合わせの立ち位置。それが、私達の関係。
「……昔の話を蒸し返すなんて、らしくないわね」
「いい加減、なかった事にしたくない」
哉也らしい返事に、そっと苦笑する。この強い兄は、どんなに自分に都合が悪くても、そのままにはしておかない。
「……まあ、あの頃は私も幼かったし。誰でも良いから人のせいにしたかったのよ」
中学の頃。追い詰められたと思い込んで自棄になった私は、哉也に八つ当たりした。……武術を学ぶ人間の攻撃をまともに受けた哉也は短くも入院した訳で、八つ当たりで済ませて良いのかは微妙な所だけれども。
哉也の言葉は、その時私が浴びせた言葉だ。ずっと憎かったと、当時の私は本気でそう言った。倒れ込んだ相手に対して、追い打ちをかけるように。
その時から、ただでさえ疎遠だった私達の関係は更に遠くなった。高校が同じになっても、翔の策略がなければ、こんな内容を話せる間にすら戻れなかっただろう。
凍るような青い空を見上げる。ずっと言えていなかった言葉は確かにけじめとして必要かと、大きく息を吸い込む。
「——悪かった」
けれど、私がそれを告げるよりも先に言われて、言葉につまる。
「あの時俺は自分の事ばかりで、周りが目に入っていなかった。ばあさんが俺にあれだけやってて、咲希に何もしない訳がない。少し考えれば分かる事なのに、何も知ろうとせず、好き勝手分かったような口を聞いた。キレるのは当然だと、今なら分かる」
——だから、悪かった。
重ねられた謝罪に、へたり込みそうになった。本当に、どうしてこの人は。
「…………何で被害者が謝るの。馬鹿でしょう」
「あの時の1番の被害者はお前だろう。何も知ろうとせず追い詰めた俺は、加害者だ」
こうも迷い無く、自分の過ちを認められるのだろう。
(これだから……)
普段は斜に構えてる癖にこんな時だけ真っ直ぐ向き合ってくるから、肝心な所で無造作に助けの手を差し伸べてくるから。そんな所が羨ましくて妬ましくて、憎んだけれど。
「……ごめんなさい」
全てが終わってみれば、分かる。
「もうずっと前から、憎んでなんかいないわよ。というか……感謝してる」
口でどう言おうと、私達は兄妹で。見かけの態度がどうあろうと、哉也はずっと「兄」の役割を果たしていた。……情けない事に、私が八つ当たりした後も。
だから、謝罪の言葉は素直に出て来た。その返事は、深い深い溜息に続いた。
「そうやってうじうじと過去を引き摺ってるから、七夕の時俺と他人様に迷惑をかける羽目になったんだ阿呆。俺はただ、お前の纏う「会うのが嫌」って気配がうざかったんだよ。嫌なら拒絶しろ、憎くないなら普通の距離感を保ちやがれ。中途半端なんだよ、馬鹿が」
淀みなく吐かれた悪態があまりにも的を射ているものだから、思わず笑った。軽くなった気分のまま、軽口を返す。
「よく言うわよ、そっちこそどういう顔して良いか分からないって態度だったじゃない。そもそも、長々と琴音と付き合うか悩んでいた意気地無しに言われたくはないわね」
「迷わず付き合ってたら、意気地云々以前にただの考え無しだろう」
「まあね」
そう。もしも哉也が覚悟もなく琴音を求めたら、どんな手を使ってでも阻止した。けれど、心の底から軽蔑している様子の『香宮』を継ぐ事ごと全てを受け入れて、その上自分から告白したから。私は、本気で琴音との間を取り持とうと思った。
「琴音の為に、最後まで手伝うわよ。アンタの事、好きではないけど嫌いでもないから」
今だからはっきりと伝えられる言葉を向けると、素っ気ない口調で返ってきた。
「お互い様だな。手伝った分、そっちの事も手を貸してやる」
「どうも。琴音を泣かせたら承知しないわよ」
「咲希なんぞに言われるまでもない。つーか、自分の事やってろ」
「はいはい、お気遣いどうもありがとう。じゃあね」
軽口に今までの事を含めた感謝の言葉を混ぜ、私は今度こそその場を後にした。返事はなかった。その程度の距離感が、私達には丁度良い。
*****
数時間後。起きた琴音が哉也の元へ向かうのを見送って、私は琴音の家に向かった。
昨夜はきっと遅くなるだろうと、私の家でお菓子制作に取り組んだのだ。だから琴音はそのまま家で休ませていた。琴音の家に一旦帰るのは遠回りになるから、と遠慮する友人を説き伏せたのだ。
琴音のいない琴音の家に向かう理由は……まあ、その、私も約束があるからだ。
2階建ての一軒家。ベルを鳴らして少し待つと、ドアが開いて中に招かれる。
「お邪魔します」
「どうぞ」
微かに目を細めた家主——宏毅が脱いだコートを受け取って、コートかけにかけてくれる。自分でやるつもりでいるのに、あんまり自然に取られてしまうから、いつもやってもらう事になる。
「冷えただろう。リビングに行こう」
「うん。——あ、宏毅」
振り返った彼に、持っていた袋を手渡す。触れた手の温かさに少し緊張しながら、笑顔を浮かべて見せた。
「Happy Valentine」
少し、いやかなり照れくさく思いながら——柄じゃないのは自覚しているもの——そう告げると、返事の代わりに額に柔らかい感触が降ってくる。思わず目を閉じると、同じ感触が唇に触れた。そのまま触れては離すを繰り返され、更に甘くなった空気に無意識に服の裾を掴む。小さく笑う気配と共に、ちょっとだけキスが深くなった。
「——ありがとう」
少しして離れた宏毅が、耳元で囁く。くすぐったさに首をすくめると、柔らかく微笑んだ宏毅は、また唇で頬に触れてから離れていった。腰に回っていた腕も外されて、ほっとしたようなやや残念なような気分で、歩き出す宏毅の隣を歩いた。
哉也程ではないけれど、宏毅も受験と『吉祥寺』での裏工作で忙しい。偶に顔を合わせても、打ち合わせや情報共有のような事務的な話ばかり。琴音に招かれての夕食は相変わらず続いていたけれど、3人での食事だ。勿論とても楽しく過ごさせてもらったけれど、2人きりではないから、それらしい雰囲気はほとんどない。
だから、今日は本当に久々のデート。久々なのだから、ちょっと浮かれた言動が多くなったり、相手のなんて事の無い仕草にどきどきしてしまうのは、自然な事だと思う。それにつきあい始めて間もないし……と、誰に向けてなのか分からない言い訳をして、私は必死に気恥ずかしさを誤魔化した。
そうしてリビングに招かれた私は、ソファに身を沈め、淹れてもらった珈琲を飲みながら、隣で宏毅が渡したキャラメルを食べるのをこっそりと見守る。バレンタインだからとチョコ味にしたものの、甘すぎないよう砂糖の量には気を使ったつもりだけれど、大丈夫かな。
「……おいしい?」
「ああ」
食べた後も無言なのでそうっと聞いてみると、直ぐに肯定の返事。ほっと息をつくと、さらりと髪を撫でられた。
「琴音もこれを作ったのか」
「そう。勉強中も食べられるようにって」
甘いものが少し苦手な哉也といえど、頭を使った後は甘いものを食べる事がある。だったら気軽に口に入れられるこれが良いだろうと、キャラメルを選んだのだ。
ただ、問題は——
「確か見た目の印象より難しい筈だが、琴音が良く作れたな」
「あはは……ええ、苦戦していたわ」
宏毅の指摘に、苦笑気味に頷く。そう、キャラメルは見た目を裏切って結構難しい。少しでも気を抜くと焦げてしまうのだ。琴音は何度も焦がしてはやり直した。チョコを加えたから尚更焦げやすいのは分かっているけれども、まさか一晩中やり直しが続くとは思っていなかった。見込みの甘さに密かに反省したものだ。
「料理音痴が試みるものではないな。迷惑をかけた」
相も変わらず身内に手厳しい発言に、苦笑を浮かべたまま見上げる。
「迷惑じゃないわよ、大事な友人のお手伝いだもの。もう少し早くから練習すれば良かったなあとは思ったけれど。でもほら、キャラメルってそんなに保存期間長くないし……」
「早く作るとその分、早く食べないとならない、か」
「そう、急かすのも悪いからって。哉也ももう少し、甘いの平気になってくれると良いのにね」
肩をすくめる。甘いもの大好きな琴音と付き合うには、ちょっとダメな兄の嗜好だ。
「付き合うとはいえ、何でも相手に合わせる必要はないだろう」
言葉と共にキャラメルを口に押し込まれた。含みのある言葉に返そうとしていたのだけれど、口の中にものが入ったまま話すのはお行儀が悪いので、取り敢えずもぐもぐとキャラメルを食べる。
そんな私を見て何故か小さく笑った宏毅は、立ち上がって珈琲のお代わりを淹れにいった。なんだか言い逃げされた気分だけれど、この空気に水を差しかねない内容だったからまあ良いか。
戻ってきた宏毅から受け取ったミルク入りの珈琲を少しずつ飲みながら、他愛のない会話を交わす。宏毅との会話は、ずっと続く訳ではない。話題を思い付けばとりとめもなく話したり議論してみたりもするけれど、基本無言の時間の方が長い。
だからといって気まずい沈黙が続くのではなく、広いお風呂でゆったりと手足を伸ばすような、優しい沈黙が2人の間を流れるのだ。時折宏毅が髪を撫でてくるのが不思議と気持ち良くて密かに嬉しい、そんな時間。
そんな風に久々に過ごす2人きりの時間は、楽しくも穏やかで。気を付けていたのに、うっかり気が緩んだらしい。
ゆらゆらと揺れる体にあれ、と目を開けると、宏毅が私を抱えて階段を上っている所だった。隣にいながら眠ってしまった事と現状の体勢に、顔が熱くなる。
「わ、ごめんなさい、下ろして——」
「動くと落とす」
慌てて下りようと動きかけた所にそう言われ、思わず固まってしまう。それを良い事に階段を上りきり、宏毅は前に熱を出した時お借りした部屋へと入った。そのままベッドに寝かされ、そこまでされなくてもと起き上がろうとして止められる。
「琴音は夜まで帰ってこないし、少し寝ろ。どうせ昨日から一睡もしていないのだろう」
「えっと……」
図星だった。けれど頷くのも拙いと誤魔化す為の言葉を探すも、咎めるように人差し指で唇を封じられる。
「琴音が直ぐに香宮に渡せるものを作れる筈がない。咲希が今日この日に香宮を呼び出したのは、琴音の睡眠時間を稼ぐ為だろう」
言外に誤魔化すなと告げられ、首をすくめる。それを見た宏毅が、溜息をついた。
「他人の為に気遣い動くのは咲希の美徳だが、欠点でもあるな。まず自分を優先しろと、何度も言っている」
「でも……琴音は料理苦手なの隠したいし、時間も無くて、哉也を騙せそうな方法をこれしか思い付かなかったのよ。哉也も見栄張って無茶するの目に見えていたし、それを考えてもこれが1番かなって」
「咲希の睡眠時間は?」
「……私の方が睡眠不足に慣れているから」
「慣れるな」
「う」
痛い所を突かれて言葉につまる私を見て、宏毅が溜息をついた。
「寝不足で来られても、と思うのは、香宮や琴音だけじゃない」
その言葉に首を傾げると、そっと指先で頬を撫でられる。
「会えるのは嬉しいが、無理をさせたくはない」
「……はい」
言われるまで気付かなかった。宏毅だって、私が寝不足だと分かれば気にする、と。うん……それは、うっかり失念していた。
「ごめんなさい。でも……少しでも長く会いたくて」
「…………」
「最近ゆっくり会えなかったでしょう? だから、一緒にいる時間長くしたいなって。それなのに、寝てしまってごめんなさい」
ただでさえ琴音達の為に待ってもらったから、これ以上時間を削りたくないと、眠らずに会いに来たのだけれど。結局寝てしまい、時間が減った上に心配をかけたのでは何の意味もない。
そんな反省も込めて謝ると、どうしてか宏毅が一瞬動きを止めた。けれど直ぐにまた息をついて、丁寧な仕草で前髪を払われる。
「いいから、とにかく休め」
「……はい」
有無を言わさぬ口調に渋々頷いて目を閉じたその時、ふと思いだして、目を閉じたままそっと口を開く。
「あのね、宏毅」
「何だ」
「今日……哉也と、昔の話した」
宏毅がふつりと黙った。けれど空気で続きを待っているのは分かっているから、ゆっくり言葉を探す。
「哉也が無かった事にするなら、そのままで良いかなと思っていたのに……哉也が珍しく自分から聞いてきた。それで……謝られた。私が1番の被害者だろう、だって」
「…………」
無言。でも、宏毅には何が起こったのか簡単に話しているから、その意味は分かる筈。
「アイツは、本当に……むかつく。自分に逃げも甘えも許さないで、普段偉そうな癖にこんな時だけ殊勝で。……あんな風に謝られると、自分が凄く小さくて嫌な人間みたいで、本当に……敵わないなって思わされた」
「そうか」
言葉の柔らかさに、目を開けて宏毅を見上げる。
「ねえ……だから?」
訝しげに細められた目に、小さく笑う。そういえば宏毅も、哉也と手を組んでから、とみに表情が豊かになってきている。
「だから、宏毅も哉也の下に付く事にしたの?」
前ははぐらかされて答えて貰えなかった理由。もしかしたら宏毅も、哉也との会話で敵わないと思わされたからかもしれない。否定もせずに私の告白を受け入れてくれたから、何となくそう思ったのだ。
じっと見上げて答えを待つ私に、宏毅は静かに笑った。
「……さあな」
珍しくはっきり浮かんだ笑顔に目を見開いた私にそれだけ言って、宏毅はその温かな手でそっと目を覆ってきた。
「もう寝ろ」
「……うん」
ちょっと躊躇いがちに、言葉に従う。小さな迷いは直ぐに見抜かれ、柔らかく髪を梳かれた。
「咲希がそうして欲しいなら、側にいる。起きるまで、ずっと」
「……うん。なんか、ごめん」
子供みたいなやり取りに赤面しつつも、優しさに甘えさせてもらう。頬の赤みに気付かれたのか、密やかに笑う気配が伝わってきた。
「気にするな。寝顔を見ていれば飽きない」
「……それはあまり良い趣味とは言えないと思う……」
更に恥ずかしくなったけれど、昨日以前も試験勉強などで夜更かし続きだった私は、相当な寝不足気味で。目を閉じて横になっているのもあってか、あっさりと眠気の波に意識が溶けていく。
「お休みなさい……」
ぼんやりとそう告げて眠りに落ちていく私の耳に、微かな呟きがひっかかった。
「……信頼は嬉しいが、こうも無防備だと何も出来ないんだ。寝顔くらいいいだろう」
目が覚めた私がその言葉の意味を理解して、恥ずかしさに穴を掘って埋まりたくなったのは言うまでもない。