2
何年も離れて暮らしていたのだ。親子の対面はぎこちない。
人払いをした馬車の中で、蛙目だけがぎょとぎょと動きながらお互いを確かめ合っている。立会人として間に座っている私は、その無言にいたたまれなくなる。
それでもヒエロはこの日を楽しみにしていて、母と弟たちのために高級菓子などを買い込んでいたのだ。ただ一言それを告げて、甘えればいいのに……彼の目は、少し膨らんだ母の腹をしきりに気にしている。
「その、腹、は?」
やっとに搾り出した一言目は、それだった。
母親は気恥ずかしげに目を細めて項垂れる。
「再婚、したのよ」
「そ、か……おめでとうございます」
歯がゆいほどぎこちない。
「お、元気そうで、何より、です」
ここに来て、私のイライラが限界を超えた。だから、少々語気が荒くなってしまったかもしれない。
「今日は、何をしにいらしたんですか。ヒエロを引き取りに来たというのなら、早急に手続きをいたしますけど?」
彼女は明らかに気分を害したようだ。蛙目がぎょとりとこちらを睨む。
「すいませんが、これは私たち親子の話なので、お口をお挟みにならないでいただきたいのですが?」
馬鹿にされている。それが息子の後見人にたった若い娘を警戒する姑心ならば、私もここまで腹は立たなかったのかもしれない。だが彼女は、そんなものを持ち合わせてはいなかった。
「ところで、この子いま、どれぐらい稼いでいるんですか?」
あきれた。わざわざ会いに来た理由はそれか。
ヒエロには悟らせないように、曲げた表現をいくつか考える。だが、それさえも優秀な道化師の前では徒労であった。舞台上で観客の呼吸を測るときのように、聡い彼は母親の意図を曲げることなく汲み取ったのだ。
「お金が必要なの?」
「そうなのよ。いくら再婚したとはいえ、この子を産むにもお金がかかる。その上、ナルー、ほら、お前のすぐ下の。あの子が高位学校に行きたいなんて言い出してね」
「そうか、あいつも、そんな年なのか」
「あんた、ナルーのことは特に可愛がっていたじゃない? お兄ちゃんとして、ちょっと援助してやっておくれよ」
「うん。いいよ」
私は知らずのうちに叫んでいた。
「そんな身勝手な! お金だけむしりとって、ヒエロのことはまた捨てていくんですか!」
彼の母親は、今度はいかにも憐れっぽく泣きの入った声をあげる。
「だって、仕方ないじゃない! 今度の夫はこの子のことを知らない。家には最初っから居なかったことになっている子なんだよ! いまさら、どうやって説明すればいいのよ!」
「いいんだ、姉さん。俺、母さんを困らせたいわけじゃないから」
彼はいつも枕代わりに使っている、布でぐるぐる巻きにした小箱を持ち出した。
人気の少年コメディアン、おまけに無駄遣いする性質でもなし、彼はそこに相当の金額を溜め込んでいる。
「ヒエロ! あんたの夢はどうするのよ!」
彼の夢は学問の道に進むことであった。流れ仕事の旅座ではろくに学校に通うこともできない。だから寮のある私立の高位学校に通おうと、その高い入学金のための貯蓄であるのに。
「俺は下位学校すらろくに行ってないんだ。受験したって受かるかどうか、解かりゃしない。そのぐらいなら、弟に夢を託した方が確実だよ」
しゅるしゅると巻き布を解けば、小さな木箱が転がりでる。彼はそれをそっくりそのまま、母親に手渡した。硬貨のぶつかる音が、ちゃりんと空々しい。
「足りると良いんだけど……」
「ああ、その気持ちだけで十分だよ。あんたは本当にいい子だねえ」
気持ちどころではない。あれは彼の全財産だ。
だが、素早く木箱をひったくった母親は、いかにも申し訳なさそうにした瞼を引き上げて通り一遍の別れの言葉を述べた。
「あんた、体に気をつけて元気でやるんだよ。座長さんの言うことをよく聞いて、いい子にしておくれね」
「うん。母さんも体に気をつけて、元気な子を産んでね」
無邪気に答える少年の言葉が、痛々しい。
「じゃあ、私はこれで、ね」
「あ、母さん」
「なんだい?」
母親を呼び止めはしたものの、ヒエロは裾をひねって立ち尽くす。
「あの、ね」
「ううん?」
私は彼の欲しがっている物に気づいてしまった。ただ甘えたいのだと。
なりは大きくなったが、彼にとって母親との時間はあの日、売られた瞬間から止まったままなのだ。幼子のようにただ頭を撫でるでもいい、抱きしめてもらうでもいい、そういった形の愛情を、彼は求めている。
しかし、彼がその願いを口にすることはなかった。
「お菓子があるんだ。持って帰ってよ」
「あんたが買ったのかい?」
「ううん。ファンからの差し入れだよ。こう見えても俺、人気あるんだよ」
母親はほっとした顔で、差し出された菓子箱を受け取った。彼がそこにどんな気持ちを込めたのか、知りもしないで……
「じゃあ、本当に、行くからね。達者でね」
私は馬車を降りる彼女を追った。ヒエロの代わりに、何か一言、言ってやらなくては気がすまない。だが、馬車をでないうちに、私の母の怒鳴り声が聞こえた。
「あんた、なに考えてんだい! 戻って、あの子を抱きしめてやりな! それが出来ないんだったら、二度とあのこの母親だなんて名乗るんじゃないよ!」
それでも、彼女が馬車に戻ることはなかった……二度と。




