心の葉 さくらんぼ
「いや、知らないから! つぅか、ほかに飯は?」
「だから、何にも買ってないのにどーやって作んのよ!」
「何にもないって、ちょっとぐらいなんかあるだろ?」
「ていうか! あんたにご飯なんて作りません!」
「はぁ? 何それ」
「外で勝手に食べてくればいーじゃん?」
言い過ぎたのはあたしのほう。本当に出ていっちゃうなんて予想もしなかった。ケンカの原因はただ、買ってきてって頼んだ食材を彼が忘れてしまったってだけで、今日は別に何の記念日でもなく絶対にこれを食べようと決めていたわけでもないけれど、仕事疲れの夕食作りがあたしを苛々させていた。あぁ、もう本当にばかだ。走って追えばまだ間に合ったかもしれないのにあたしの身体はほぼ硬直してしまって、行動を起こそうとはしなかった。こっちのほうが柔らかくて、温かい。そうやって決めた薄くオレンジがかった蛍光灯があほらしく見えてしょうがない。割って、暗闇を部屋に入れたいくらいだ。クーラーももう暑がりの彼がいない以上役割がない。
「はぁぁぁぁ。やばいよこれ」
小さなことでもそれがきっかけで破局とか、ありえるんだからね? だれかにそう言われたのを思い出す。もう、それを思い出せばまもなく涙がぶわっと流れ出た。…どうしよう。
彼と知り合って七年。付き合って四年。こういうことって一回でもなかったような気がする。高校からの付き合いだから、大抵のことはわかっているつもりだし、向こうだって同じだと思っていた。それが幸せで、あたしの全てで、それで満足だった。もしかしたら彼はそんな日々にマンネリを感じていたのかもしれない。普段から。だから、うまくきっかけを見つけてでてってしまったのかも。こういうときに人は俯いたまま顔を上げられない。…どうしよう。
「ただいま電話に出ることが…」
友人に電話をしてみたけれどあいにく留守だった。あたしは一気に支えていたものがなくなって地面に叩きつけられた気がした。ただでさえ背が小さいのに、これじゃ彼の顔をうまく確認できない。…どうしよう。
ゆっくりと目を瞑ると映ったのは以外にも彼ではなく自分自身の姿だった。それも高校生のときの自分。うわっ、と言いたくなるほどにはっきりと見える。草の匂いと、虫の鳴き声がしてくるとそこが河川敷だということに気づく。
「ねぇ、知ってる?」
後ろから声が聞こえてきた。あたしは自分を見るのをやめて振り返る。するとそこには彼がいて、その彼も同様に高校生である。そこでやっと気がつく。これは夢なんだなって。でも、心地がいいから見てることにする。
彼は笑って、続ける。「俺たちって、もう大学生になるんだよ」
「へ、知ってるよ?」
あたしはとぼけて言う。夜の河川敷は暗くて、でもふたりははっきりと見えた。
「そうだよな、卒業式してきたんだもんね」
「そうそう。けど、実感ないよ。もう自分が大人になるなんてさ」
「俺もなんだ。なんだろーね、この気持ちは。なんていうか、…ねぇ」
「なんかわかると思うよその気持ち」
「おお、やっぱりか。俺たち、気が合うのかな」
「何をいまさら」
「…付き合おう」
「うん、いいよ」
「え?」
「え? ってなによ」
「だって俺、告白しちゃったんだよ? お前に」
「聞いてたよ。あたしも好きだよ。気が合うからね」
「そっか」
「ていうかさ、なーんか、こーなると思ったんだよねぇ。…あ、別に自惚れてるわけじゃなくってね」
そう言ったのは本当にそう思っていたから。ずっと、付き合ってるんじゃないのっていう噂もあって、そのたび否定していたけれど一緒に高校時代っていう貴重な時間を過ごして、もうこれは運命で決まっているんだな、とこっそりと思っていた。甘酸っぱい。これってすっごく甘酸っぱい。まるで取れたてのさくらんぼのように。
ヴー、ヴー、ヴー。
携帯の振動で目を覚ますと、友人からのメールが入っていた。
「自分に素直になるがいい」
と書いてあって、最後にさくらんぼの絵文字。なぜあたしの状況がここまでわかったのか、それはきっと親友だから。
さて、ご飯でも作ろう。今日作ろうと思っていたのはできないけれど、なんとか彼の大好きなシチューくらいならできそうだ。
電話はそれでも怖かったから、メールを打った。
「ご飯、食べてない?君が大好きなシチューを作って待ってます」
窓が映す今夜の星はただ小さく光っているだけだから、あたしは流れ星の絵文字をつけて、ああ、なんて綺麗なんだろうとそれに見とれた。
届け、彼のもとへ。