或る愛の価値観とは 7
その写真は、見覚えのあるものばかりが写っていた。
見覚えのある学校の廊下に、見覚えのある制服、見覚えのある、精神的にも、成長する今より幼い俺と壱の姿。
「この写真……学園祭の時に…」
そうだ、この写真。俺の家にも、同じものがある。ポーズは少しばかり違えど、同じ時に撮った写真だ。
「なんでこれ……」
本当にこの手紙は、エマから宛てられた手紙なのか。幼稚園児みたいな字なのは外人だから?
「それ、読みなさい」
ただ写真を見つめるばかりの俺に、薺がそう催促する。写真をテーブルに置いて、手紙を開いた。汚い字にちゃんと読まなくても分かるような誤字脱字。それをゆっくりと読み進めていった。
疑問は確信に変わる。
この手紙は、確実にエマから送られてきたものだ。
どうやって俺を見つけたのかも、どうやって所属事務所の住所を探し当てたのかも、すぐに解釈出来た。
「この手紙……壱は…」
「知らないと思うわよ。有沢君に会って、どうだった?」
何でフラれたか分からないと言ってから、きっと壱は本当にこの手紙の事や、手紙の内容についても知らないのだろう。
……しかし、この手紙を見る限り壱とエマは別れた後も相思相愛みたいで結構イラっとしてしまう。イラつく俺が子供なだけなのかもしれないが、この手紙を何度見ても、情が沸く以前に嫉妬で心が埋め尽くされてしまいそうだ。
「納得いかないって顔ね」
「当たり前だろーが。これ知ったら多分壱は俺を見ずにエマっつー女んとこに戻ってくだろ」
「そうね。私もそう思う。だってこの子、文面からして棗君より誠実で心が綺麗だわ」
少しは否定しろとは思ったが、何も返す言葉が無くてしばらく黙った。
「棗君は、昔と今の私の行動の矛盾を疑問に思っていたんでしょ?」
「……あぁ」
「その手紙を見てからよ。……有沢君は、棗君に干渉せず、忘れようとした。あの本もお別れの手紙だったようだし。あなたが見ない事を意図してのやり方だったんでしょうね」
その通りだ。実際に俺は最後の最後にあの本の作者が壱だと分かった。それも自分から進んで読んだのではなく、インタビュー記者に進められて後書きを読んだ。
「手紙を読んで、私は考えを改めたわ」
「薺にしちゃあ珍しい事だよな、それ。一度決めたら例え黒でも白と言い張るだろ?」
「そうねぇ……」
少し笑いながら、薺はコーヒーを飲み込んだ。
「でも、私だって人間だもの。揺らぐ事だってあるわ。それにね? それに、……私、棗君の事を3度も4度も苦しめたくなかったの」
「……どういう事だ?」
「分からない?」
コーヒーをコトリとテーブルに置く。ジッと俺の目を見て、姿勢を但し、薺は俺に向かって頭を下げた。何をしているのかと目が点になってしまった。
「ごめんなさい」
「……は!?」
いきなり薺が謝ってきた。
そういえば。薺が俺に向かって謝るのなんか初めてに近い。今この瞬間を写真に収めて永久に保管しておきたいくらいだ。その時は是非その写真を俺の死後、オプションとして棺桶に入れて一緒に埋葬して貰いたい。
「棗君のお父さんの事も、高校の時の、有沢君の事も」
「ちょっと待て、俺の親父については置いといて。……お前やっぱり壱の親父の事に1枚噛んでたのか?」
「お父さんの転勤云々に付いて、私は何もしてない。ただ有沢君は一緒に行くか行かないか迷っていたみたいで、その時後押ししたのは私」
「そんな話し知らねぇぞ」
「知らない筈よ。あの時は私と有沢君の2人きりで話していたもの。その時の経緯を有沢君がわざわざ棗君に話すとは思えないもの」
それはいつの事かと模索しては見るが、昔知らなかった事を曖昧な記憶の現在では想像する事さえ出来ない。
「これは有沢君にも言った事だけど。私、昔棗君にも言ったわよね。『芸能界に入るには、恋愛、暴力、警察絡みその他諸々。ゴシップ記事は絶対にタブー』って」
確かに、芸能科のある高校に転入してから、一時期は1週間に1度は言われてた気がする。
「『今までの関係を切る事も大切』……とも言ってたな」
「そうよ。……でも、有沢君が相手なら、今はもう違う」
「……?」
「これが相手が女性なら別の話しだけど、男が相手なら、単なる噂で片付けられるわ」
一体薺は、何が言いたいのが。
「芸能界云々の前に、私は小さな頃から口癖みたいに言ってたじゃない」
薺が昔から口癖のように吐いていた言葉。
「『この世は人脈とコネとお金があればどうとでもなる』」
頭に浮かんだ言葉を、そのまま薺が口にする。
「それに、今は権力もある。たかが棗君と有沢君くらい、私が守ってあげるわよ」
「たかがってお前な……」
「だからさ、棗君の好きなようにしてよ」
「……」
「あ、でも。外での行動は謹んで頂戴。あの時は幾らお金を積んだ事か……」
薺は優しげな笑みから一変、陰険な顔をしてブツブツと愚痴を言い始めた。あの時の――ってのは、事務所の順調に売れてきてる俳優が彼女とのツーショットを撮られた時の事だろうか。確かにあの時の薺は常に機嫌が悪くて近寄るのを避けていた。
「じゃあ、社長のお言葉に甘える事にする。外での行動は謹んでな」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、薺はクスっと笑って残ったコーヒーを全て飲み干す。空のカップをテーブルに置いた時、薺は社長の顔に戻っていた。
「……わかれば良いわ。じゃあ、ナツ。さっさと仕事に行きなさい。有沢君はもう日本にいないんだから、仕事はしっかりして。その手紙は持ってって良いわ。返事をするなり有沢君に見せるなり、好きにしなさい」
さっきの笑みはどこへやら。顔はもういつもの真顔に戻っている。
それならば、と、俺も氷の溶け切ったコーラを一気に飲み干した。味は薄いし、炭酸は抜けてきてるし、はっきり言って美味しくはない。
しかし、それを口にも顔にも出さず、そのまま立ち上がった。
「了解です、社長様」
*
社長室の扉は、静かに音を立てて閉められた。
或る愛の価値観とは、大事な彼とその大切な人を守りたいと言う事。