見知らぬ穴 3
この隣の温かさはまた、すぐに消えてなくなってしまうのだろう。
「やめろって、棗! おい……冗談寄せっ!」
「冗談じゃねぇ……、おい逃げんな」
静かな口調で壱のYシャツの後ろの襟を強引に掴む。少々手荒過ぎたのか、壱の口から短な嗚咽が漏れる。構わずそのままソファの上に倒すと、ぐっと顔を睨まれた。
「お前……! 自分が何やってるか分かってんのか」
「分かってるつもりだ」
そのままぐっと力を込めて、Yシャツを間ん中から引き裂く。こんなシチュはいままでドラマの、不倫男が女性に嫉妬する……みたいな感じでしか無かった。しかもそれはドラマで、破けやすい素材で作られているし、しかも切れ目も入っていたから力を入れなくても裂けた。そんでこの状況、ドラマでも無く、別に切れ目が入っているわけでも無い。そこで思った事は、Yシャツは案外簡単に破けてしまうってこと。
裂けたYシャツから見えた肌は、自分の肌よりも白く見えた。きっと長い事家に篭って仕事をしていたのだろう。まぁでも、自分より色が薄いっていうのは、高校の頃からそう変わらない。
緩く鍛えられた腹筋が、呼吸に合わせて収縮している。自分よりもその呼吸が早い気がして、そっと手のひらを腹に添える。
「やめろ……っ」
腹に置かれた手を自らの手で持って静止する壱を、ゆらゆらと見つめた。やめろと言う言葉は、少しだけ強く、それでも静かな怒気を感じる。
「やめるわけねぇだろ」
その怒気を無視しながら、壱の顔に近づいた。当然それも避けられたわけで、壱よりも俺の怒りが更に1段階アップした。
俺の手を抑える壱の手を手首からきつく締め、もう片方の腕は、肘でもう片方の壱の手を固定しながら、顔を固定する。その瞬間、壱が唾液を飲み込むのが分かった。
「なんでお前……こんなこと…」
きっと、羞恥と惨めさ。壱の顔が強ばっている理由を、そう解釈してみた。
「『なんで』?」
それでも、良い。どうせ、こいつは今のこの状況で俺を受け入れようとはしないだろう。俺と壱の間にある数年の穴を埋めるには、どうしたって時間が足りない。それで受け入れるものであれば、俺はきっとそれ事態を疑ってしまうだろう。
「てめぇがまた俺からいなくなっても、こうしときゃあ、てめぇは俺を忘れねぇだろ」
だから、壱がこっちに戻ってくるまでの鎖を、繋いでおきたいだけ。
「目ぇ逸らすな。逸らしたらその瞬間、俺はてめぇの言い分なんざ聞けなくなる」
「なに、言ってんだ……最初から聞く気なんか、ねぇんだろうが」
その通りだ、なんて思いながら、俺も壱の目を見た。その瞳の中にうっすらと俺が写っていて、安堵してみる。
「顔、近ぇよ。……逸らせるモンも逸らせねぇ」
余裕をカマしてほんの少しだけ壱の口角が上がる。でも頬を伝う冷や汗と、早い筋肉の収縮でもってして『嘘』と言う事はすぐに察した。
多分きっと、絶対に。
俺が何かしらの気を抜いた瞬間に、こいつは俺の腕の中からすり抜けて逃げていくのだろう。
「――ぜってぇさせねぇ…」
「? な、に……」
消えるようなその俺の声に、不思議に思って眉を顰める。その言葉に対しての疑問を投げかけたその声も小さく、発せられたその唇は震えている。
俺はその震える唇を食わんとするように、自分の唇で封じ込めた。