見知らぬ穴 1
コーヒーの匂いが、どんどんと濃くなっていく。匂いが鼻を突く度に、だんだんと焦げたような匂いにも錯覚していった。多分これが「香ばしい」って類のやつだろう。
兵藤を見送った壱は、そのまま俺の目の前を通りすぎ、給湯室へと向かっていった。少しして、コーヒーを注ぐ音が聞こえた。かちゃかちゃとカップとソーサーが擦れる音も聞こえる。そこから出てきた壱の手には、コーヒーが二つ。
「コーヒー1杯分だけだ」
そう一言だけ言った壱は1つを自分の分をテーブルの目の前に起き、向かい側にもう1つを置いてソファに深く腰を掛けた。
その1杯分だけ、話しをしてやるって事だろうか。
そうだろうと確信し、俺はそのコーヒーの置かれたテーブルの傍にあるソファに座った。それと同時に、壱が口を開く。
「見つけたな、お前。俺の事……まぁ、俺が見つかりに行ったもんか」
一瞬何の事だか分からなかったが、フッと思い出した。空港で俺が発した言葉だ。『絶対見つける』とか、なんとか。
自らを皮肉めいた言葉。顔を逸らしたまま、顔は見えない。
ずっと見たいと思ったその顔だ。随分と大人びた顔をもっとみたい。あの頃はあんなに近づけていたのに、離れた時間からは、俺と壱の間にぽっかりと穴が空いていた。
分かっていたことだ。仕方ない。
それでも、その大きな大きな穴を、どう埋めれば良いのか。
「全部教えろ。お前の過ごした事全部だ」
「コーヒー1杯分っつったろ。無理だ」
「じゃあ1つだけで良い。お前の恋人だった女の事を話せ」
「『だった』ってなんだよ。まだ付き合ってるかもしんねぇだろ」
顔は逸らされたままだったが、ムッとした言葉で、どんな顔をしているか少しだけ想像出来た。
「お前の事だ。お前が心からその女を好きって思ってんなら、俺とまた会っても、俺には何も思わないだろ」
でも壱は記者会見で言った。復縁が無いとは断言出来ないと、迷っていると。
「だからお前はその女の事を好き『だった』んだろ。まぁ、そいつと付き合ってたとしても、俺はお前をもう離す気はねぇが。」
「エマの事をそいつとかその女とか、そんな風に言うんじゃねぇ……」
その言葉でまたしても確信。壱は本当に、そのエマって子を愛していたんだろう。
「フラれたか」
そう言ってみると、何やら確信をついてしまったらしく、小さく「うるせぇ」と聞こえた。それから、淡々と話し始める。
「エマは……、俺があっちに行ってから初めて付き合った女の子で、……結構長い事付き合ってた。すげぇ綺麗で優しくて、頭良いけど少し抜けてるとこもあって。俺はエマに頼られてたつもりだし、俺もエマを頼ってた。お互いに重要供給は一致してたけど、でもダメだった。なんか知らねぇがフラレた。それだけだ」
偉く自慢をさせられている気分になった。
それ程までに相思相愛だったと言う事だろうか。そう思って、コーヒーを啜る。
苦い。
「なんで小説なんて面倒くせぇモン出版社に送り付けたんだ? 俺にお別れする為ってだけじゃねぇんだろ」
「あれは……ただの若気の至ってやつだ。それを明に見られたみたいで、勝手に送られて、そしたらこうなった」
俺は少し、あの兵藤って男を間違った目で見ていたのかもしれない。全てを遡ってみると、あの男がいなかったらきっと、今こうして俺は壱と再開出来ていない。
兵藤への感謝が湧き上がってきたけれど、やっぱりさっきの壱との親しげな会話がムカついたので撤回。
「お前も……、良く役者になったな。…嫌じゃねぇのか」
「誰かさんを見つける為に必死だったもんでな」
「……そーかよ…」