或る愛の価値観とは 1
『お前がそう望むんなら』
その一言に、小さな感情を纏いながら、俺は急いで控え室へと向かった。学校の遅刻とか、ゼミに遅れたとか、もうそんな簡単な物でも無かった。
だって、こんな輝いた世界でも、それでも『社会』なのだから。
甘く見すぎているなんて、そんな事をこの数分の中で、誰かの影で言われているんだろうか。それは俺の辞書では許されない事。多分それは、『初めて』だと言った棗の辞書でも同じ事なのだろう。
トイレに言った事に大きな後悔を覚えながら、俺は控え室のドアを開けた。
「市川先生! どこに行ってたんですかっ……あれ、ナツさんも?」
「ナツ! どこ行ってたんだ? 先に行ってるってお前が言ったのに後から来てもお前いないって聞いたし。あれ、もしかして隣に居るのって……」
編集担当さんの俺に向ける説教にも見えない焦りの訴えと、棗に向けられる知らない誰かの落ち着いたそれ。
「すみません、そこでなつめ……ナツさんに会ってて遅れてしまって…」
「ごめんザキさん。先にトイレ行こうと思って行ったら壱…市川先生に会ったから、つい」
それぞれに向けての弁解の言葉を述べる。
その2つの弁解に、編集担当さんとそのザキさん、とか言われていた人には、それぞれに挨拶をしたいような表情が受け取れた。
「あ、! じ、自己紹介は後で……記者会見は少し遅れさせてもらってます。皆さんもう裏にスタンバってるので、急いで向かってください」
「はい。すみません!」
それでも時間が無い。
遅れさせてもらっている事に大きな謝罪を感じながら、俺は隣の部屋に向かおうとした。
「ナツ、待て待て。お前これ忘れてる」
「あー。サンキュ」
ザキさんとやらがカバンから取り出したそれは、黒縁のメガネ。
――あれ、こいつ視力でも下がったのかな?
なーんて、この状況でテンパってしまっている俺はそんな事を考えられるわけもなく。
またまた俺と棗は隣に並びながら隣の部屋に向かった。
映画館とは違って室内は明るく、裏へと繋がる扉を開けた俺と棗に気付いた進行役の人は、マイクに向かって会見の始まりを告げた。
その言葉に室内が少しだけ静まる。
表にでるその数秒に、俺だけしか聞こえないような声で棗が言葉を発した。
「お前と俺が知り合いって事実はどうするんだ」
「? そんな事聞かれないだろ」
「口裏合わせとかなきゃボロが出るのはどっちだろうな」
記者舐めんなよ。とでも言うような変な笑みをした棗に喉がなる。
「どっちでもいいよ。でも、話すとしても濃くは話すなよ。絶対に」
濃くって言うのは勿論、俺と棗の関係について。
「仰せのままに」
芸能人みたいな笑みを作りながら、棗の黒縁のメガネをかける。そのあまりにも似合っている姿に、唾液を飲み込んだ。
そこで初めて俺は、こいつが芸能人だという事を初めて認識した。