浮き世
昔付き合ってたときに、エマに言われた気がする。
「壱は多分、神様に選ばれた人間なんじゃないかな?」
「え?」
顔も良く、頭も良い。ちょっとだけ性格は歪んでいるところは有れども、出会いや別れを繰り返し逞しく成長し、若い内に日本国内までも飛び越えた。学校を1年飛び級し、良い大学に入り。
「神様は悪戯ものね」
壱は特別扱いされているのだ、そう言って、俺の頭を撫でた。
「あなたは躓けど立ち上がって先に進める筈だわ。大丈夫よ、……だってほら、あなたはこんなにも――」
悲しげで嬉しげなエマの顔が消えていく。喋っている途中なのに、彼女の顔は視界がぼやけて見えなくなった。どうしたのかと眼を擦って開けてみると、部屋の天井が写った。
「……夢」
別れを告げられて、もう幾つも日が経つのに、彼女の太陽みたいな笑顔は脳裏に焼きついたまま、まだまだ消えない。それ程好きだったのかと理由を付け足せば、その通りだと思う。
だけどもう彼女はいない。
「まだ、引きずってんのかね……」
ベッドから抜けて机の上にある時計を覗いてみれば、午前8時30を指していた。今日は大学は昼からだから、ごはんを食べて、それから少し話しの構成でも練ろうか。
寝間着のTシャツとジャージを脱いで、クローゼットから服を出す。
着替えて下に行けば、母さんが俺に気付いておはようと挨拶をした。
「おはよう、母さん」
「ごはん、すぐ作るから待っててね」
「うん」
挨拶をしてから洗面台に行き、顔を洗い、歯を磨いてからまたキッチンへと戻ってきた。母さんが目玉焼きを焼いていた。棚からコーヒーカップを取り出し、コーヒーメーカーから注ぎ込む。角砂糖を2、3個入れてからかき混ぜ、ダイニングにある椅子に座った。
「良い天気ね。大学はお昼から?」
「うん、それまで仕事するよ」
「あら。頑張ってね、……余り無茶するんじゃないわよ?」
「分かってるってば。ちゃんとペース考えてるから、心配しないで」
「そう、……壱が言うなら安心かしら?」
安心かしらと口にする母の顔は、それでも大層心配しているように感じられた。仕方ないだろうが、俺はそうだよと笑う事しか出来なかった。
「俺は大丈夫だよ、」
『……だってほら、あなたはこんなにも――』
大丈夫だよと言って、夢のエマを思い出した。あの言葉の続きはなんだったろうか。夢だけじゃない。俺は確かにあの場所で、エマに、あの言葉を言われた。言葉の続きはなんだろうか。
「……」
思い出せない。
「壱。出来たわよ」
テーブルの上に、食パンとバター、ジャム。野菜スープ。目玉焼きがのっている皿には、それと一緒に、茹でたブロッコリーと焼いたベーコンが一緒にのってある。いつもの朝食に、手を合わせた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
作り終わって、調理器具を洗い終わった母は、エプロンを外して隣の椅子に掛け、俺の真向かいに座って美味しい? と尋ねてきた。
「うん、すっごい」
否定なんて出来るものか。
「そうだわ、壱。朝唯子に聞いたんだけれど……」
「何?」
「日本に帰るのは本当なの?」
「え……」
母の一言で、パンにバターを塗る俺の手が止まった。あまりにも懐かしい夢のせいで忘れていた。そんな話もあった。
俺の編集担当が不便だからとそんな提案をしていたっけ。もうすぐ長期休暇も始まるから、その少しの間なら別に構わないと言った。
俺にはまだ大学という大事な物があって、明みたいにそれを辞めてまで仕事を優先できるなんて、そんな賭けにはまだ出られる自信は無い。
「夏休みに……少しだけ帰ろうかと思ってる」
「あら、それは良い事だわ。気分転換でもしてらっしゃい」
唯子が余計な話も交えたんだな、と、母の安堵差から分かったきがした。多分『壱が日本に戻って仕事始める』だとか、もう帰ってこない感じに喋ったんだろう。先に唯子に話したのがまずかったのか。
「友達には会うの?」
「友達?」
「日本に居た時に仲の良かった子がいたでしょ?」
「あぁ……そうだね」
思い出すのは矢西の事や、仲佐の事や、真琴の事。矢西や仲佐には転校する事を話したけれど、それだけだった。行く時に、棗に知られたら困ると行先も電話番号も教えては居なかったから。たださようならと、そう言っただけだった。
だから連絡を取ってはいないし、どこで何をしているのか、元気でやってくれているのかさえ分からない。
「あ、そうそう。こっちにくるとき、空港で会った男の子が居たわね」
「空港?」
「血相掻いて息切らして、お別れの挨拶に来てくれた男の子が居たじゃない」
棗だ。
「良いお友達だわ。その子とは会うの?」
「あ……、うん。相手の都合もあるから、どうか分からないかな」
――俺が絶対見つけるから、お前のこと。
「あら、そうなの。会えると良いわね」
母の暖かそうな笑顔の前に霞む、真面目な顔をした棗の顔。
忘れたくても忘れられないその顔を思い出した。
「そうだね」
俺は今にも泣きだしてしまいそうになった。
『……だってほら、あなたはこんなにも真っ直ぐで綺麗だわ。だからきっと大丈夫。どんな迷い事があったって、あなたはちゃんと道を見つけられる筈よ』
「――そうだね」
違うんだ、エマ。