夢
カタカタと音を立てるキーボードは、3時を知らす時計の音と共に止んだ。パソコン画面をじっと見ていて疲れ切ってしまった目の端を指でくいっと引き上げ、それから腕を天井目掛け伸ばしてみる。背中が少しだけコキコキとなって、予想以上に痛かった。
「終わったー……」
そう小さく歓喜の声を漏らし、上にあげた手をガッツポーズにした。
明に俺の恥ずかしい小説を日本に送られ、それから何故か評価され、出版社にデビュースカウトみたいな事をされ。
出版社から届いたあの書類が母さんに見つかり、その見つかった日に父さんにまでばれた。普通に拒否されると思ったし、何故か怒られるとも思い身を引き締めていた俺に向かって放った父さんの言葉は、俺を力いっぱい脱力させた。
「凄いなー、壱は。ま、頑張れよ!」
まさかそんな他人事のように言われるとは思わなかった。父さんにだって考えている事くらいあるのだろうが、親ならばこんな不安定な道、絶対に止めろと言うと思っていた。それに、正直少しくらい止めて欲しかった。止めてくれれば、俺はすぐにその話しを断って、大学院に行くか、普通のサラリーマン生活をしていた事だろう。
誰にも否定されない、自分でその話しを断ったって、やりたい事だってない。それなので、俺はすぐに出版社と連絡を取り合った。断りの連絡ではなく。
「……腹減った」
次に来た通知は、直筆の手紙と、メールアドレスだった。電話じゃ金が掛かるからと、担当のメール連絡先。最初はこんな上手い話し、詐欺かなとか、そんな事を思っていたが、連絡を取り合っているウチにそうではないと分かった。
実際、文章の書き方やら、構成の事やら、いろいろな事を指摘してくれていた。成長も目に見えて上達したし、楽しさだってわかった。それから今まで、そのたった1つの原文を直す事だけをしてきた。たまにテストがてら短編を書かされたりもしたが、まぁ大体はその原文直し。面倒臭いし、結構面白くもなかった。
やっと完成したその小説。最初に比べてみれば8割以上に立派になった。
出来たそれを厳重に2度程保存し、それからUSBに写し、その原文もコピー印刷をした。
「さっさと送んなきゃな……」
封筒にまたまた厳重にそのUSBと印刷した紙を入れ、のりで封をしてからその上からテーピングまでした。国際便で送って、届くのは4,5日後だろう。行きでそれくらい、届いたらメールが来る。いつもいつもその繰り返し。
国を跨いでいる分、やりとりは少しばかり窮屈で難しいものだった。
俺の背中を押してくれている人達には申し訳無いけれど、俺は本当に本が出るなんて思ってはいない。だってそんな夢みたいな話しがあるわけないし、じゃあ何でこんな事を続けているのかと聞かれれば、純粋に嬉しいからだった。
文を書いて送る。返って来た返事は注意点とアドバイス。それを踏まえて直して再度直した文を送る。返ってくる返事は注意とアドバイスと、褒め言葉。
その褒め言葉が嬉しくて、楽しくて、だから俺はその為に頑張っていた。
俺の文が出版されるなんて、そんな事頭の端にさえ入ってはいなかった。
そんな夢みたいな事、あるわけがないし。
そんな夢みたいな――。
「……」
『本を出版する準備を進めています』
頭に思い描いていない夢ほど叶いやすいって事を、俺はまだ、迷信だと信じて止まなかった。