後編
揺り起されたのはまだ夜明け前だった。
二度と離さない意気ごみで掴んでいた上着は、数本の藁に化けていた。これもマジックですか?
「×△□□×○○」
寝ぼけまなこを擦るわたしにドサッと荷物が渡される。抱えさせられた物を広げると、装備品だった。
なんとっ……! 往来でバッと前を開けたら即通報なマント一枚から、ついに着衣の文明人へ進化できるのですねっ、ありがとうございます!!
簡素なデザインからワンピースと推測をつけ、マントから肩を抜いたところではた、と金色に光る瞳と視線が合うことに気づいた。
「ええと、あっちを向いていてほしいのですが……」
見せる趣味もありませんし、自慢できるスタイルでもありません。
自分が自意識過剰なことは下心のシの字も窺えない眼差しに重々承知しておりますが、恥ずかしいものは恥ずかしいのです……、という言葉とジェスチャーが伝わらない。諦めてテルテル坊主のようにマントを脱がず、四苦八苦しながらワンピースと短パンみたいな下着を穿いた。
ふう……服を着ると落ち着きますね。裸はやっぱり心許ないです。
虎さんはマントを受け取らず、わたしの肩にかけた。ワンピース一枚では寒かったのでありがたく貸してもらうことにした。
戸口で虎さんが来い来いと手招きをしている。
納屋の外に出ると一頭の馬がいた。農耕馬らしく、どっしりと太い足が頼もしいです。
静かな村で起きているのはわたしたちと細く扉を開けたおじさん宅だけ。服と馬の調達先がわかった。食事に移動手段。支払った硬貨の価値も、人にあらずな虎さん相手に適正な取引だったのかもわからない。縋った身で気に病むのはおこがましいけれど……。稼ぎ先を見つけたら、ぼったくられた分も三倍にしてお返ししますからね。
わたしにとっては近寄りがたい大きさの馬でも、虎さんが跨るとポニーサイズに見えて絵面はイマイチです。ぐいっと引き上げられた馬の上で二人乗りの密着度と座りの悪さにモジモジしていたら、虎さんの一声で馬が駆け始め、恥ずかしいという感想は吹っ飛んだ。
いっ、痛いっ!
乗馬って舌噛みそうに全身跳ねるものなんですか!? ヒップがホップでギブっ、ギブアップですっ……!
食い縛った歯からは悲鳴も出ず、タオルも投げられません。身体の力を抜いて馬の揺れに合わせることを学ぶまで、わたしはガックンガックンと後頭部で虎さんの胸板をノックしていた。
スコーンっぽいもので食事休憩をはさんだ以外は、ほぼ一日駆け通した。競走馬のように速くないけれど、二人乗っても馬の歩みは確かだった。
街の明かりが見えた時には泣きそうに嬉しかった。本当に、お尻の皮が全部剥ける前に着けてよかったです。
街の入り口でさすがに疲れ果てた体の馬から降りた。
ひ、膝が笑って立てなっ……。生まれたてのバンビ状態でプルプル震えるわたしは、もう定着してしまった虎さんの小脇に抱えられるという恰好で街へ踏み入った。歩いてませんが。
馬を手放した虎さんは、のっしのっしと目的のある足取りで街を進む。わたしはきょろきょろ周囲を眺めるのに忙しかった。
今朝発った村より明らかに都会です。通りの商店は日暮れとあって軒並み閉まっていたけれど、テントの裏に立ち並ぶ家々の窓に明かりが灯っている。石畳の道に行き交うまばらな人影はわたしと同じ人間だった。目が合うとぎょっとした顔をされたので、誘拐じゃありませんよーとニッコリ愛想を振りまいておく。命の恩人が誤解されては大変だ。
大通りを外れ、かなり歩いたところが虎さんの目的地だった。無骨な石造りの建物は学校の体育館ほどあり、街並みから激しく浮いている。虎さんがくぐった玄関は、頭を屈める必要もないぐらい大きかった。間を置かず玄関ホールへ現れた影にびっくりした。
虎さんだ! もう一人虎さんが出てきた!
かっちりと軍服を着こなした二人目の虎さんが近づいてきた。
「――×○□、□□□△××?」
「××!? ……×○○」
同僚らしい二人の虎さんは何かを話し、わたしを見下ろす。わたしも内容はわからないながら喋る二人を交互に見上げた。
二人目の虎さんは少し若いみたいだ。軍服の襟まわりにかかる顎から喉にかけての被毛がややさみしい。個体差なのか、金赤の毛皮も赤みが薄かった。
会話を切り上げた虎さんが歩き出す。見送っている二人目の虎さんに笑顔で会釈したら、目を瞠られた。虎さん的審美眼でそんなにマズイでしょうか、わたしの顔……。
どうやらこの建物には「種族、虎さん」が集っているようで、すれ違う中に人間を見かけない。全体的に薄暗いのも視力が違うためだろう。挨拶するとことごとく虎さんたちに驚かれるので、スマイルを有料に価格改定しました。傷つきます。
虎さんがひとつの部屋で足を止め、扉を叩いた。
中から開けたのは色違いの虎さんだった。闇の中でもぼんやり光るような銀青の毛並み。根元が青く毛先にかけて銀色に変わり、横縞は漆黒ではなく薄墨色をしていた。弱い光量に光る瞳は同じ金褐色だ。
青い虎さんに部屋へ招かれた。椅子の上におろされたわたしは、青い虎さんが頭から足までしげしげ観察してくるので不安になって隣の上着をぎゅっと握る。
虎さんはわたしの頭をぽんぽんと軽く叩いた。それだけで不思議と気持ちが落ち着く。わたしたちを見ていた青い虎さんが突然噴き出し、咆哮のような声を上げて笑い転げた。ぶんぶん振られる長い尻尾が壁や家具に当たりまくってますが……。
「……あのう、だいじょうぶですか?」
「……□□□」
「――○○! △××△□……!?」
はふはふ息を切らした青い虎さんが咳払いをして立ち直った。せわしなく動く髭が爆笑の名残を残しながらも、態度は真面目なものになる。
それから二、三青い虎さんに質問されたけれど、やっぱりわたしにはわからない。そう言うと、青い虎さんが引き出しから黒い輪を取り出してきた。
鋭い爪がひと撫でしたら、つるんと滑らかな輪の表面を金色の模様が彩った。火打ち石に浮かんだ魔法陣よりずっと緻密で複雑な模様だ。
すごいっ、魔法だぁ……! 興味津々で見ていると、黒い輪は虎さんに差し出された。虎さんは受け取らずに何事かを言い、青い虎さんが再度撫でると輪が一回り縮んだ。
ティアラサイズからバングルサイズになった輪は虎さんを経て――わたし、ですか?
「□△×」
「ニュアンス的に嵌めてみろってことだと思いますが、すでにご飯や服を世話して頂いた身で装飾品まで頂くなんてとんでもありませんっ。魔法のアイテムって高価なんでしょうし、お気持ちは嬉しいですが……!」
虎さんはわたしの言葉を最後まで聞いてくれなかった。さっと屈んだかと思ったら、わたしの右足に輪を押しつけた。継ぎ目のない輪は肌に触れた瞬間冷たく崩れ、わたしの足首を囲って輪を再形成した。おお! 魔法の腕輪はアンクレットでしたか。
「縮めてくれと言うから何かと思えば、足に嵌めたかったんだね」
「――首は目立つ。腕でも変わらん。足ならば靴で隠せるだろう」
……………………虎、さん?
「見てごらん、あの顔。驚きすぎて目がこぼれ落ちそうだよ」
楽しそうな声は青い虎さんの牙が覗くと聞こえてくる。ならば、あのぶっきらぼうな喋り方をしたのは――。虎さんを見上げても、元来無口な性質なのか口元は結ばれたままだ。
「僕らの言葉がわかるかい?」
「……は、はいっ」
「成功だね。僕らも君の言葉がわかる」
会話ができるようになったのは、足首に嵌る黒い輪のおかげだろう。
「自己紹介からいこうか? 僕はラズ、君の横にいるのがギーだよ。見ての通り、ここリアンの街で獣騎士をしている。君の名前は?」
「六花、如月六花です」
「リッカ・キラーギリッカ?」
「名前だけなら六花です」
「リッカちゃんだね。了解」
街の名前や彼らの職業に聞き覚えはなかったけれど、意思疎通が可能になったことが嬉しかった。椅子を下り、改めて深々とお辞儀をした。
「ギーさん、助けて頂いてありがとうございました。食事や服などお世話になり感謝しています。こうして言葉までわかるようにして頂き、ラズさんも、本当にありがとうございました」
「気にするな」
「いえいえ、どういたしまして。丁寧な娘だねぇ。どこで拾ってきたのギー?」
「わたしもしりたいです。気がついたらギーさんと洞窟にいて、何も覚えていないんです。一体ここはどこなんですか?」
合コンの帰りに何が起こって、異世界で目が覚めたんでしょう? ヨッパライゆえか記憶にございません。
ギーさんがわたしを見つけたのは、ブルイヤールの森だと教えてくれた。うう……名前からして日本じゃありません……。
「お前がなぜあの森にいたのかは知らん。血の臭いがして見に行ったら、恐らく足を滑らせたんだろう、崖の下に人間が倒れていた。受け止めた木で即死は免れたようだが、折れた枝が腹を貫通していた。内臓が出ていた上に出血がひどかった。助からんと判断して立ち去ろうとしたら、お前が手を伸ばしてきた。助かるとも思えなかったが、回復の魔具を与えて洞窟で様子を見ることにしたんだ。目覚めてからはお前も知っている通りだ」
…………よかった。モズのはやにえ体験なんて一生もののトラウマ間違いなし、覚えてないのは幸いです。わたしが全裸、服が血まみれのボロ屑と化していたのはそういう訳なんですね。立ち眩みもアルコールとは別に、貧血から来ていたのかも。
「魔具って僕があげたもの? 思い切ったことするねギー、人間に使用するなんて想定外だよ。下手したら死んでたかもしれないよ」
「放っておけば死んでいた。だからお前のところに来たんだろう。こいつの傷を診てやってくれ」
「はいはい。リッカちゃんこっちにおいで。お腹の傷を見せてくれる?」
わたしはうつむいたまま、顔を上げられなかった。
「……俺にはあれしか打つ手がなかった」
「ちがいます! 助けて下さったことを感謝こそすれ、手段に不服を感じたりしていません!」
首を横に振る。九死に一生を得てギーさんを恨むはずがない。棺桶から片手だけ出していたわたしを見捨てずにいてくれたこと、伏して拝みたい気持ちでいっぱいです。
「僕? 趣味で創具もするけど本業は治癒魔法の魔法師……ええと、人間でいう薬師だから安心していいよ?」
「……ギーさんの同僚さんですから、心配はしていません」
じゃあ何を、という疑問をもたれた雰囲気に押しつぶされそうですが、言えませんっ……!!
もう、ひゃーっ!と悲鳴を上げて穴掘って埋まりたいです。
いろいろと、ホントにいろいろとあらぬ誤解をしまくってすみませんすみませんっ……!!
初体験?なんて一瞬でも勘違いして申し訳ありません! 川原で襲われる―、とか自分を簀巻きにして川の水で頭を冷やさせたいです!
ぶわっと噴きだす脂汗とかっかと熱い耳。羞恥で気絶できるならこの瞬間床に倒れてます。
すーはーすーはーと深呼吸をくり返し、何とかパンドラの箱を閉じることができた。
ラズさんに傷を診てもらい、痕も残らず完治していると太鼓判をおされた。そういえば鈍痛も消えている。
「で、これからどうするの? 気がついたらギーと一緒にいたって言ってたけれど、リッカちゃんの出身は? コンティナンの言葉を話せないって相当辺境だろう?」
「日本という国です」
「……聞いたことがないなぁ。どうやってここまで来たの? まさか竜に乗ってきたなんて言わないよね?」
「フッフールですか?」
「ん? リッカちゃん、竜に乗れるの?」
「いえ、乗れません」
「だよねぇ。人間が乗れたら、僕ら《牙の民》は商売あがったりだ」
あははっと笑うラズさん。
冗談は通じないし、笑いのツボもよくわからない。……異世界だ、なんだかとっても異世界なことを実感しましたよ。
ここは少国が集まるコンティナンのオトゥール国だと教えられた。森林が国土の大半を占め、開拓の手間と攻め難さから比較的平和な国らしい。とはいえ安全が保障されているわけでもなく、国境に一番近い街の警備を依頼されたのだと言っていた。ギーさんたちは傭兵をしているそうだ。
わたしが異世界からやってきたと打ち明けても動じた様子は窺えなかった。信じてもらえたのかどうか、獣面から読みとることはできないけれど。
「――リッカちゃんだけど、僕らでは元いた国には帰してあげられそうにないしね。どうする?」
「区長に連絡をとろう」
「引き取ってもらうの? まあねえ、あの人は僕らが嫌いだから飛んで来ると思うけど……」
ラズさんは言葉を濁したけれど、それ以上は言わなかった。
ギーさんがわたしを見下ろした。金赤の毛皮に漆黒が隈取りをする金褐色の瞳。射抜く強さに凄みはあれどそれは王者の風格だ。雄々しい虎の外貌に怯えたのは過去の話、今は美しさに見惚れてしまう。
根拠はないけれど、わたしは彼に傷つけられることがないのを確信していた。いつ見放してもよかったのに、何の見返りも期待しないで助けてくれた。絶対的な信頼は慕わしさもまじって、離れがたさを生むけれど――。
「わかったな? お前は区長に預けることにする。早ければ明日にでも迎えが来るはずだ」
「はい。よろしくお願いします」
これ以上甘えちゃ駄目だ。厚意につけこんで、自分勝手な頼みをする気はない。路は自分で切り拓くものだって誰かも言ってたし、バイトでもしながら地道に帰る方法を模索します。
「今日は泊るといいよ、ここは僕とギーの部屋だから気兼ねする必要もないし。ギーは出かけて留守にするときが多いからベッドは綺麗なままだよ。僕らは違う部屋で寝るから」
ラズさんが指さしたベッドはシーツにシワがなく、使った様子がなかった。
でも部屋の主を差し置いてわたしが使用するなんてできません。あっさり出て行こうとする二人を呼び止めた。
「待ってください。お二人にご迷惑はかけられません。わたしけっこう逞しいんですよ、床でもどこでも大丈夫です!」
「吹けば飛びそうな身体なのに? 子供が変な遠慮をするものじゃないよ、リッカちゃん」
「わたしこれでも二十歳なんですけど……」
……誰か、誰か化粧品をください! 友人直伝の「これでアナタも目ヂカラビーム!ドッキン☆悩殺大人の艶メイク♪」を披露して、この居たたまれない空気を驚愕に塗り変えてみせるのに。すっぴんで酒類を買えない顔がうらめしい。
結局押し切られ、ギーさんのベッドに横になった。
三日間で砂利、藁、ベッドにグレードアップした寝床は、わたしを夢も見ない眠りへ旅立たせた。
++++++++++++++++
区長のところへ行ったギーさんの帰りを待っている間、この世界のことを教えてもらっていた。
この世界には人間の他に、竜やギーさんたち牙の民と呼ばれる獣人がいる。
牙の民は人間よりも数が少ない。小数が迫害されないのは単体で人を凌駕する力をもっているからだ。さらに高速で空を飛ぶ竜を駆ることができるのは牙の民だけだという。
森でサバイバル生活を送れる彼らと比べ、脆弱な人は衣食住で発展をとげた。牙の民は傭兵という形で己の力を売り、報酬で人間の作ったものを買う。雇われた者を獣騎士や竜騎士というそうだ。
話題が日本のことになると、ラズさんは髭をぴこぴこ震わせ、興味深そうにわたしの話を聞いていた。疑われているのか探られているのか、フレンドリーな青い虎さんの真意ははかれない。
「ふうん。リッカちゃんの世界は変わってるんだねぇ。人間しかいないんだ?」
「想像上の生物としてならラズさんや竜もいますけど、実在はしていません」
「なるほど、だから僕らを見て怯えないんだね。外見からして違いは明らかなのに、怖くないの?」
「……初めは確かにそうでしたが、もう怖くありません。ギーさんやラズさんは見知らぬわたしにもこんなに親切にして下さって、本当に感謝しているんです」
「それはギーに言ってあげて。面倒臭がりでさ、あまり他人と関わりたがらないんだ。おまけに人間嫌いもひどくて……君を連れて現れたときは目を疑ったよ、どういう風の吹きまわしかって。リッカちゃんのことは不思議と気に入ってるみたいだし、ここを出てもたまに顔を見せに来てくれると嬉しいな」
「もちろんです! でも、ギーさんはやさしくして下さいましたよ?」
「じゃあリッカちゃんは特別なんだろうね」
「……そうでしょうか?」
虎さんは人間嫌いらしい。思い返してみても、冷たくされた憶えはない。恥ずかしい勘違いで騒いだり泣いたりして手を焼かせただろうときも、さぞ呆れられたと思うけど、邪険に扱われはしなかった。
しかし、ギーさんには迷惑をかけた記憶しかないっていうのは問題ですね。羽がないのと不器用で機織りは除外ですが、何としてでも恩返しをさせて頂かねば!
メラメラと決意を燃やしていると、ギーさんが帰ってきた。
「区長夫妻が迎えに来たぞ。ついて来い」
「はい」
僕も行くよ、とラズさんが席を立った。
廊下を並んで歩いていると、ギーさんが言った。
「――人間は人間の中にいる方がいい」
唐突な言葉の意味を考える。
背を向けた黒いシルエット。
「……村でのことですか?」
「ああ」
「どうして思い直してくれたんですか?」
「言葉がわからなくては苦労すると思ったからだ」
おいていかないで。
あの言葉は通じなかったけれど、通じなかったから救われた。
ギーさんの言いたいことがわかる。魔法の輪のおかげで――わかってしまう。
縋らぬようにと強く拳を握った。
足首で揺れる輪が冷たく肌を刺した気がした。
「あなたが保護された子? まああ! 幼い娘を森に捨てるなんて、親は何を考えているのかしらっ……!」
区長夫妻は五十代頃の派手な格好をした人たちだった。華やかな刺繍が施された服に、これでもかと光りモノを着けている。ふくよかな夫人に抱き潰され、頬に食い込むネックレスが痛かった。豊かな口髭をたたえた区長さんはギーさんと話している。
「あの子はわしらが連れて行こう」
「住むところと仕事を世話してやってくれ」
「お前たちに言われずともわかっておるわ。行くぞ」
「はいはいあなた。…………あら、この輪は!」
わたしの足を見て、夫人が顔色を変える。「あちゃあ、もっと長い靴を履かせたらよかったねぇ」とラズさんが苦い声で言った。
区長さんが赤い顔で怒鳴りつけた。
「お前たち、奴隷の輪を外さないとはどういうつもりだ!?」
「落ち着いて下さいよ」
「あれはお前の考えているものではない」
言い合う三人を険しい表情で見ている夫人に、こっそり尋ねた。
「この輪はどんな意味があるんですか?」
「知らないままに嵌められたの!? 可哀相に……。これは奴隷がつけられる輪よ。言葉の自由を奪ったり、主人に逆らうと締め上げて苦しめるの。魔法師しか造れないし外すことができない魔具なの。こういったものを外すのが仕事のはずなのに、何を考えているのかしら!」
言葉の自由を奪う? わたしは自由に喋ることができる。むしろ言葉が理解できるようにしてもらったのだ。当然輪が締まったこともない。輪について説明されたことなかったけれど、彼らの善意を疑ったりしない。
わたしは夫人の腕から逃れ、区長さんに叫んだ。
「この輪はわたしのために嵌めてもらったままなんです! わたしがここの言葉を知らないから、話せるようにしてもらったんです。だから外さなくてもいいんです!」
「余計なことを言うな」
ギーさんに叱られた。その理由はすぐにわかった。わたしを見る夫妻の目が懐疑の色を孕む。
「言葉がわからないって、どういうことかしら?」
「顔立ちも見かけぬものだな。辺境とて言葉が通じぬはずはない。どこから来たのだ? ……まあよい、後で訊くとしよう。とりあえずここを出るぞ、獣臭くて気分が悪い」
区長さんの態度は不快だった。明らかに二人を侮蔑している。ラズさんが僕らを嫌っていると言ったのは、牙の民を嫌っているということなんだ。
夫人がわたしの手を取った。とっさに振り払いそうになって自分を押しとどめる。逆らってどうなるというんだろう。けれど足は鈍る。強く引かれた勢いでたたらを踏み、転んでしまった。
「何をしている! さっさと歩け!」
区長さんが戻って来た。襟首を掴み上げられ、吊られる苦しさで呼吸を求めて立ち上がる。解放されてゴホッと咳が出た。引っぱられた手首が痛い。
虎さん。ギーさん。
わたし、行きたくない。
一度も振り向けなかった。滲む視界で床だけを見ていた。
別れの挨拶もできない。口を開けば飛び出すのは彼を困らせる言葉ばかりだろうから。
輪が締まってくれたらいいのに。痛くて、歩けなくなって、この部屋から出られなければいいのに。
「――待て」
夫妻が足を止めた。
「何だ?」
「気が変わった。そいつは俺が面倒をみる」
「ふん、馬鹿なことをぬかすな。剣を振るうしか能のない獣が人の面倒をみると言うのか? 獣騎士などと呼ばれて調子に乗っているようだがな、お前たちは人にたかって金をもらう寄生虫よ。慰み者がほしいのならば雌猫をくれてやろう」
「……手を放せと言っている」
グルゥッと唸り声が上がる。鼻面に皺を寄せ牙を剥き出しにしたギーさんに怯んだ夫人が手を放した。
わたしはタッと駆け出した。軍服の腕がいざなうまま、広い背に隠れる。なだめるように添う尻尾が軽く足に触れてきた。
――ああ、どこよりも安心する場所。
そうっと顔を出すと、憎々しげに睨みながら夫妻が出ていくところだった。気がおさまらなかったのか、区長さんが捨て台詞を吐いた。
「いいだろう。お前たちに犯されてもなつく壊れぶりだ。連れ帰ったところで、けだものの涎にまみれた狂人など誰も引き取るまい」
金赤の風が走った。荒々しく床に引きずり倒された区長さんが腕を振り回す。抵抗を歯牙にもかけず組み伏せると、ギーさんが咆哮を上げた。布が裂ける音がし、夫人の絶叫が響き渡る。
「やめろっギルバート!!」
振り上げられた腕がぴたりと静止する。苛立ちもあらわに尾が床を叩く音と、ふっふっと速い息づかい。張りつめた空気はまだ緩んでいない。
「そうだ、落ち着け……。ここは僕らの里じゃない、牙の掟は通じないんだ。殺せばただの殺人になる」
喉を押さえられ、びっしりと顔中に脂汗を浮かべた区長さんが喘ぐ。ギーさんがゆっくりと退くと、激しく咳込んでいた。あわてて夫人が背中をさすりにかかる。区長さんは服の左胸を裂かれただけで、血は流れていなかった。
「人間で命拾いをしたな。――死にたくなければ失せろっ!」
吼えるような大喝に、区長夫妻は血相を変えて転がるように逃げ出した。
襟を正したギーさんは、戻ってくるとラズさんと拳を突き合わせた。
「助かった、ラズウェル。危うく殺すところだった」
「どういたしまして。いやあ、愉快だねぇ! 君が熱くなるのは初めて見たよ」
からかう声には応えず、ギーさんがわたしの前に立った。
「……なんだ、どうして泣いている? 俺が恐ろしいか」
「ぢがっい゛ま゛ず、っ……」
「区長に腹が立ったのか? 追いかけてひと撫でしてきてもいいが」
ギーさんの「ひと撫で」は物騒な意味合いしか感じられません。首を横に振ると、ぽんっと頭に置かれた毛むくじゃらの手がぐしゃぐしゃと撫でてくる。
首がグラグラするけれど、このひと撫では嬉しい。泣き笑いでいると、横で見ていたラズさんが「その手荒さで喜べるの? リッカちゃんっておかしな娘だね」と呟いた。
ギーさんのやさしさがわかるから嬉しいんです。ごしごしと涙を拭った。
「ごめんなさい……」
「何を謝る?」
「……区長さんとのことを」
「気にするな、あれに任せようとした俺が間違っていた。今回の件でお前は人間の中で働きにくくなってしまった。すまなかったな」
「いいえ。わたしより、ギーさんたちの立場を悪くしたんじゃないですか?」
長、と名のつく役職の人ともめて後々問題にならないだろうか? 心配になって尋ねると、今さらだと言われた。
「あの人との確執は以前からだよ。ギーって言い返さないから罵り放題だったんだけど、これでちょっとは懲りたんじゃないかな? もう無駄にお金をかけた服を引き裂かれるのは嫌だと思うよ」
あっけらかんと笑うラズさんをギーさんも否定しない。
「二度とお前とは会わせん」
「それがいいよ。僕も聞いてて苛々したから、次は止めないかもしれないし。決めたのギー? リッカちゃんのこと」
「ああ、俺が面倒をみる。――リッカ、お前がそう望むならだが」
金褐色の瞳が答えを待っている。
……いいの、かな。
好意に甘えてしまっても、いいのかな?
「ほんと、はっ……行きたくなかった、んですっ……! でっ、もっ……めいわくっ、かけちゃうってっ……いえなくてっ……!!」
行きたくなかった。不安で、心細くて。言葉がわかるようになって嬉しかったけど、怖かった。
外見が違うだけだ。ギーさんはやさしい。同じ人間だけれど、村のおじさんも区長さんも好きになれなかった。人の中で暮らすよりも、彼らの傍に居たい。我がままな願いだ。ペットじゃあるまいし、拾ってきたら一生面倒をみてほしいなんて言えない。
しゃくりあげる息の中でなんとか言葉にすると、黙って聞いていたギーさんがそっとわたしを抱きしめてくれた。
「――崖下で、お前は手を伸ばしてきたんだ。牙の民の俺に、人間のお前がだ。死ぬ間際であっても喰われまいと獣を避けるのが普通だ。助けたのは気紛れだ。洞窟を出るときについて来なければそれまでだと思っていた」
死にかけたことは憶えていない。自分のとった行動も。
冷淡な口ぶりの虎さんだけど、置いて行ってもよかったのに待っていてくれた。あの瞳についていこうと決めたんです。
「なぜか知らんが、お前はあまり俺を恐れん。言動も突飛で見ていて飽きなかった。村で別れようと思ったが、やはり言葉の問題を解決してからだと考え直した。……これが情が移るということなのか?」
「そりゃあ何事にも淡白な君が人間を連れ帰るんだから、客観的に見てもばりばり情が移ってるだろうさ」
わたしが怖がらないのは多分、真実彼らの脅威を感じていないからだ。リアリティにかける存在をどこかあやふやに捉えているせいだろう。その距離感をギーさんが気に入ってくれたのなら、わたしは日本人でよかったと思う。
「人間の中に戻そうと区長を呼んだが、お前に対する態度が気に喰わん。次にお前を預けるときはもっとましな人間を探そう。それまでは俺の許で暮らすことになるが、かまわないか?」
「……はいっ! はいっ、もちろんです! 嬉しいですっ……!!」
ギーさんの腕の中で、眩暈がするほどぶんぶん首を振って頷いた。「……この調子で、ギーのお眼鏡に適う人間が現れるかねぇ?」と呆れた声が聞こえた。
大丈夫ですラズさん、誰も現れなくてもまったく問題はありません。