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虎さんとわたし  作者: riki
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前編

 ちょこっと動けば脳みそを激しくシェイクされたようで、眩暈と頭痛と吐き気がこみあげてきた。

 瞼を閉じてうーんうーんと唸り、素肌にわさっと当たる毛の感触に目を開けた。

 ……お酒の失敗、よく聞く話です。

 縁石枕に高イビキとか、初対面のイケメンと一夜の過ちとか。

 合コン帰りに酔いつぶれてお持ち帰りされたというのならわかります。でもね、それにしたって相手は同じ大学の理系サークル男子なはずですが。


 あれ、アレレー?

 なにこれ、人……?

 頭が虎、どころか身体中が毛皮に覆われふっさふさ。

 なんでカブリモノの人に全裸で抱きついてたりするんでしょう?




 +++++++++++++++




「……わたし、酔っ払ってるんでしょう、か?」

「○×○□? ○△△」

「……おっしゃられることが、ちっともさっぱり理解できないのですが」


 語尾を上げた調子から尋ねられていることはわかるけれど、内容は意味不明です。

 虎の頭部がグルルッと唸った。

 こわっ、怖いよう!

 カブリモノだと信じていた数分前の自分を殴りたい。ひよひよ動く髭を引っぱったら「ガウッ」と吼えられましたよっ、おおおおおっ……!

 完璧に乗り上げてベッド扱いしていた相手から転がり落ち、固い岩の床に「うひぃっ」と情けない声を上げた。痛い、冷たい……。

 肌を隠すものを手探りしていると、のっそりと上体を起こした相手がバサリと布を投げてよこした。獣臭いそれを慌てて巻きつけ、三角座りの爪先までも大きな布の中に引き込む。

 ズキリ、と下腹部に鈍痛が走った。


 ――ももももっ、もしかして!?

 部活に燃えた高校時代を封印し、「大学ではイケメン彼氏を作るぞー!」ときゃぴ☆きゃぴ女子大生♪をめざしてメイクにヘアスタイル、ファッションセンスを磨いてきた。努力の甲斐あって合コンに誘われ、これで彼氏と念願の嬉し恥ずかしラブラブモーニングコーヒー(古い)を!と思っていたら、見も知らぬ遊園地スタッフの方と……?

 まってまって、合コンは普通の居酒屋でしたよ? 二次会はカラオケで、というか近所に遊園地はないし……ここはどこでしょう?

 薄暗いけど、洞窟?


「あのー、ドッキリならそろそろネタばらしお願いします」


 返答はやっぱり聞きとれなかった。

 まるで本物の虎みたいな着ぐるみ。唾液に光る牙も再現とは高クオリティ。唸り声も迫力満点、ボイスチェンジャーも進化したものです。でも蝶ネクタイが見当たらないのですが博士。


 しばらく待ってみてもプラカードを持った人は現れなかった。


 あっはっは。虎の頭部をもつ人なんてプロレス漫画じゃあるまいし、リアリティなさすぎで夢ありすぎです。早く目覚めなくちゃ。

 ……つねった頬の痛みに涙ぐんでいると、虎さんは服を着出した。下は最初から着用していたことを感謝するべきでしょうか。それともわたしがすっぽんぽんなのを憤慨するところでしょうか。

 立ち上がると二メートルを超える長身の威圧感にじりじりと後退る。お尻歩きのバックも練習しておけばよかった。あわあわと見回した視界に赤い色のついた服が飛び込んできた。

 見覚えのある合コン勝負服は引き裂かれたように再起不能のズタボロで、若葉マーク相手にハードプレイが過ぎるんじゃないでしょうか。初体験の記憶がないのは幸いな気がしてきましたよ……。

 虎さんはラフに着崩した軍服っぽい胸元をトンと叩いた。紋章があるのは見える。だけどそれが何を意味するかわからない。


「……身分証明ですかね? あいにく免許証は家に置いてきました。割り勘負けしないように飲むぞーって意気込んで参加したもんで。飲酒運転はダメゼッタイ」

「……○○□××△」

「代行もお金かかるじゃないですか。終電逃したらカラオケで始発を待とうかなって思ってたんです。一人カラオケもけっこう楽しいですよ」

「○△」

「こんな山奥で何言ってんだって感じですよね、あはは。……ところで、最寄の駅はどちらでしょうか? 見たところ木しか見えないんですが」

「○○?」

「諭吉を貸してほしいなんて初対面で言われても困りますよね。交番で泣きつきます。お手数をおかけしますが、どこでもいいんで人の住んでる場所まで案内してもらえませんか?」


 虎さんが溜息を吐いた。細めた金褐色の瞳と鼻面に寄るシワで、呆れている雰囲気が伝わってくる。獣面の器用さに感心していると、顎をしゃくった虎さんが歩きだした。長い尻尾が揺れている。

 ついてこいってことかなぁ?

 ついていってもいいのかなぁ……。

 そもそも証拠もないのに乱暴を疑うのは失礼な話で、鈍痛を除けば身体に傷はない。わたしの服についた血は尋常な量じゃなく、あれほどの血を流したら今頃大怪我で動けなくなっている。ざっと見た虎さんにも外傷はないから誰の血か不思議だけれど。

 ――ひょっとして、助けてもらったのかもしれない。

 うっすらと蘇る記憶の中で、ぬくぬくほわほわ安眠ベッド扱いしていた虎さんは、わたしを振り払ったりしなかった。腰に回された毛皮の腕の感触を思い出してひとりで赤くなる。

 すり寄ったり撫で回したりしたのは寝ぼけて抱き枕と間違えたからなので、どうか誤解なく……! 

 洞窟の出口で立ち止まり、「来ないのか?」と雄弁に語る視線に躊躇いは吹っ切れた。

 目は心の窓。昔の人はいいことを言う。置いていってもいいのに、わたしを待ってくれる虎さんの瞳には誠実さが窺えた。頼れるのは虎さん以外にいないのが現状でもある。


「……ありがとうございます! お世話になります! お礼は家に帰ったら改めてさせて頂きますねっ。独り暮らしの貧乏学生なもんで大した物は用意できませんが、このご恩はかならずおかえししみゃっ、ぶっ……!」


 ……千鳥足ではまともに歩けまひぇん。目から星が、口から魂が出るかと思いました。

 虎さんが振り返り、まだ立ち直れずに地面と仲良くなっていたわたしの傍へ来た。毛むくじゃらの手がぐゎしっと捕らえたのはわたしのウエストで。

 四十うふふキロの荷物をぶらりと小脇に抱えて物ともせず歩く虎さんに言いたいことはひとつ。


「駄目ですっ駄目、揺らさないで揺らさないでゆらさないでゆらっ……おえ」


 言葉が通じないって悲しいことです。

 ……今後お酒は控えることにします、この冷やかな金褐色の双眸に誓って。




「たいっへん申し訳ありません! どのようにお詫びしてよいやら、言葉もありませんっ……」


 川に着くまでにもう二回リバースしたわたしは二重の意味で顔が青くなっていた。虎さんは嘔吐する迷惑物体を抱え直し、汚れるのは虎さんだけにしてくれた。

 冷たい水で口をすすぎ、ついでに剥げたメイクも落としたわたしは、無言で汚れた軍服を脱いで川に飛び込み、自身の毛皮と軍服を洗う虎さんに川岸から平謝りしていた。

 川から上がった虎さんはブルルッと全身を震わせ水気を飛ばすと、絞った服をぽいっと川原に投げて森へ歩きだした。

 慌てて追いかけようと立ち上がったら眩暈がしてへなへなと膝が折れる。

 虎さんからついて来るなと掌を向けられた。


「□○……××△○」

「お怒りでしょうか? 恩知らずな真似をしてしまい、本当にごめんなさい……」

「○□? □×△……」


 首を傾げ、虎さんは森に消えてしまった。

 わたしは濡れた服の横でしゃがみこむ。

 独りになると、森のざわめきが心細さをかき立てた。

 静寂よりもざわざわと葉擦れの音や鳥の鳴き声が怖い。パキリと草むらで音がすると飛び上がりそうに驚いた。

 虎さん、早く帰って来てくれないかな……。

 何となく、上着を置いて行ったのは虎さんの気遣いだと思った。わたしを不安がらせないように、戻ってくるという意味で上着を残したんだろう。

 虎さんのあの外見が着ぐるみじゃないことは運ばれる途中で信じざるをえなくなった。躍動する筋肉を覆う被毛が作りものの綿にはどうしても見えない。

 冷たい上着はごわごわとした分厚い生地で重かった。濡れているせいだけじゃなく、何かポケットに入っているらしい。胸の紋章は虎さんの所属部隊を表すのか、翼のある生き物だけれどモデルになった動物が謎だ。四足で鉤爪があって空を飛ぶ動物みたいだけど。


「……酔いは醒めたんですけど、この夢はいつまで続くんでしょうか」


 見たことのない景色。現実とも思えない存在――夢だ。

 抱えた軍服はズシリと重く冷たく、風は水辺の湿り気があり、戯れにちぎった雑草は青臭い。いやにリアルな五感。嘔吐の苦しさは記憶に生々しいし、空っぽになった胃は現金に空腹を主張し始めている。

 ――夢のはず、だ。


「夢じゃなかったり、して……?」


 冗談ぽく言ったつもりの声が震えてしまった。

 ドッキリでも夢でもない、ここが異世界だなんて……嘘でしょう?

 ひとりでいると余計なことに思考が飛ぶ。

 考えるな、考えるな、一晩たてば夢は覚める。朝になればおかしな夢を見たと笑えばいい。


 ガサガサと草むらをかきわけ、両手いっぱいに木の枝を抱えた虎さんが帰ってきた。


「おかえりなさいっ!」


 駆け寄るわたしを一瞥し、虎さんは黙々と薪を組み始めた。すっと手を出されて訳がわからず、腕の中から上着を取られて抱えっぱなしだったことを思い出した。

 軍服の胸ポケットから石を取り出した虎さん。火打ち石かな、と興味深く見ていたら、一度打ち合わされた石からボッと青い炎が上がった。

 ……火花散らなかったですよ? 青い炎を纏わせた石の表面に金色の紋様が浮かんでますが、それが魔法陣っぽく見えるのはなんかこう、マッチ売りの少女的な幻覚ですよね?

 薪に移された炎は青から見慣れた赤へ変わった。

 黒猫をつかまえてデッキブラシにまたがったのは小学校に通う前です。もう魔女が住むのはDVDの中だけなのをしっています。


「お、おしゃれなライターですね。新発売ですか? わたしもひとつほしいぐらいです」

「○□△」

「ガスが要らなさそうなのが流行りのエコですねー……」


 く、苦しいです……。

 虎さんの存在も魔法の火打ち石も、夢だと思いこみたいのに、思えない。

 けれど現実と認めることもまだできなかった。認めてしまったら、取り返しのつかない状況に置かれた自分を受け入れなくちゃならなくなる。

 視線を逸らすと、紅に灼ける太陽が山の端を舐めているのが見えた。

 すぐに夜がやって来る。

 勢いよく燃える焚火を残して、虎さんがまた森へ入って行った。わたしは焚火に近づき、徐々に風が冷たくなるのを肌で感じていた。


 火勢が弱まった頃、追加の薪と獲物を引っ下げた虎さんが凱旋した。

 ドカドカッと薪を放り込まれた焚火に慌ててふうふうと息を送っている間に、川下で兎に似た生き物の解体ショーが始まった。内臓が掻き出される光景や、生皮が剥がされる音というのは、お肉はスーパーで買うものと信じている人間にはなかなかに刺激的です……。

 しかし枝を串がわりに焚火で炙られるころには食欲が勝り、わたしはこんがり焼けた表面で肉汁と脂がジュウジュウ音をたてるの凝視していた。

 ナイフで切り取られたモモ肉を渡された時は、笑顔が輝いていたと自分でも思います。かぶりついたお肉は素材の味を味わうものでしたが、空腹という最高の調味料が骨までしゃぶらせてくれました。さすがの肉食獣は細かな骨などバキバキと噛み砕いて食べておられます。わーお、ワイルドー。


「あのう、こんなことお尋ねするのは失礼なんですが、わたしは持ち運び非常食じゃありませんよね? エサにしては好待遇だなぁ……なんてヘンゼルとグレーテルのお話が頭をよぎりましたが、わたしけっこう歳食っちゃってますし、おいしくないと思いますよ?」

「……□×?」

「いえ、それはあなたが食べてください」


 兎の頭部は食べにくそうなので遠慮します。虎さんの口元でガリバキッと原形をなくすのをぼんやり見ながら、どんな食べられ方でもいいけれどきっちり絞めてからお願いします、と願わずにいられなかった。

 脂を拭ったナイフを腰の鞘にしまい、虎さんが骨を集めて捨てに行った。川で獲物をさばいたのも、臭いを嗅ぎつけた他の獣が来ないようにだろう。

 とっぷりと日が落ちた暗闇で、熱と光源を求めてわたしは焚火ににじり寄った。




 カクンと垂れた頭をハッと持ち上げ、目をこする。

 パチパチと薪が爆ぜる音と炎のぬくもりに眠気が津波となって押し寄せてきてます。危ない危ない、ビッグウェーブにのみ込まれて昏倒するところでした。

 あらためて膝を抱え直し、焚火を見つめる。

 今のところ後手後手ですが次こそはっ、わたしが薪をつぎ足すのです!

 次こそ、ふぁ~…………………………ハッ!? 危ない危ない、ヨダレが。


 虎さんが何か言った。

 ……すみません、わかりません。

 首を振ると、虎さんがわたしを引き倒した。

 ……寝ろってことですね、わかりました。

 転がされた川原の砂利が地味に痛いです。虎さんが貸してくれた布(おそらくマント)を巻きつけ直し、わたしは目を閉じた。

 ゴツゴツしたベッドって意外に寝辛い……。

 ウォーターベッドの中身ならすぐそばにたっぷり流れていますが、詰める袋がありません。虎さんの視線が気になりつつも一向に眠気は訪れず、寝返りをうつばかり。

 はぁっと聞こえた溜息にビクリと目を上げると、虎さんが立ちあがってわたしの後ろに回った。


「ぅわっ!」


 寝そべる虎さんの胸に、わたしの背中がぴったり当たっている。マント蓑虫と化したわたしを囲い込むように背後から腕を回され、心臓が跳ねた。傍から見れば体格差のため、コバンザメをお腹にくっつけたみたいな恰好だと思われます。

 身体の前は焚火でぽかぽか、後ろは密着した虎さんでぬくぬく。

 寒いから眠れないと思ってくれたんでしょうか? 心遣いはすっごくありがたいですが、そんな意図はないとわかっていてもドキドキして眠れませんっ……!! だってだって、虎さんって頭は着ぐるみですが、体は筋肉質でがっちり固くて(実体験に基づいてます)逞しい男性そのものなので!

 緊張で固まったわたしは、お腹の前でぎゅっと両手を握りしめた。


「○□□? ……○×××△」


 上を見ると頬杖をついた虎さんがわたしを見下ろしていた。ちょうど頭の天辺に虎さんの喉元があり、喋るともふっと顎の毛が髪に触れてくる。


「何をおっしゃっているのか、わからないんです」

「○×△」


 声色から、眼差しから、読みとろうと目を凝らしてもわからない。

 諦めて首を振ると、虎さんは嘆息して身を退いた。背後の胸板にもたれかかっていたわたしは支えを失い、ゴロンと仰向けに転がる。

 間髪いれず虎さんが圧しかかってきた。


「うひゃっ!?」


 マントが肌蹴られ、虎さんの手が中にもぐり込んでくる。

 わたしは下着一枚身につけていない。素肌に触れた指と毛皮の感触に、ゾクリと背筋が震えた。


「……ちょっ、ちょっとまっ……! やっ……!」


 洞窟で目を覚ました時はしらないけれど、今は意識がはっきりしている。誰にも触られたことのない場所をさぐる手は未知の感覚だった。抵抗に身をよじれば短く吼えられ、身体がすくんだ。

 金褐色の瞳に焚火の炎が揺れている。視線はじっとわたしの腹部に落とされていた。

 怖い。

 視界が潤んでよく見えない。わたしは強く瞼を閉じた。

 指は慎重に腹部を撫でている。肉球にあたる掌には毛がなく直に体温が伝わった。尖った爪が肌を引っ掻くことがないのは、人の柔さをどこかで学んだからだろうか。鳩尾から下へ、臍のあたりはとりわけ丁寧に往復していた。

 ふっふっとかかる息に、至近距離で見つめられていることを意識させられる。耳がじんわり熱くなってきた。時々かすめる髭が皮膚の下で熱とも疼きともつかない泡を弾けさせた。

 実際は大した時間でもなかったのだろう。マントが元通り巻きつけられ、再び虎さんに抱きかかえられた。

 舞い戻ったぬくもりにつつまれても、身体から力が抜けない。


「っく……ふぇっ……」


 裏切られた、と思ってしまった。

 出会って一日もたたないけれど、信頼と呼べるほどに気を許していた。優しい人だと信じていたから悲しくて、こみあげてきた嗚咽を我慢しきれなかった。

 怖かったのだ。

 恥ずかしかったのだ。


「○○×」

「……っや、だ……ひどいっ、こと、……しないでっ……」

「××……」


 虎さんがゆっくりとわたしの頭を撫でた。泣きじゃくるわたしに囁かれた言葉が謝罪だと思ったのは、都合のいい思い込みだろうか。

 あやすようにくり返し撫でる手を感じながら、わたしは泣きながら眠ってしまった。




 +++++++++++++++




 薄目を開けると、川の上には朝靄がただよっていた。

 ……寒いです。もう朝ですか? まだ二度寝余裕の早朝ですね、おやすみなさい……。

 無意識に温かさにすり寄ると、ちょっと湿った感じの毛皮が頬に触れた。

 むむ、獣くさい。抱き枕のメェ~エちゃんは安眠ラベンダーの匂いがするの、に?


「……こんなことをお願いするのは恐縮ですが、次から遠慮なく引っぺがしてください」


 膝上までめくれあがったマントの裾を下ろしつつ、わたしは虎さんにお願いした。

 昨夜の今朝で、生脚剥き出しで虎さんの脚に絡めているとは……乙女の恥じらうハートが真っ二つです。

 自分から縋りついたらしいのはマウントポジションで握り締めていた胸毛で一目瞭然。胸毛といっても毛足は長くて襟巻のようにゴージャス、触り心地もこれまたやわらかでアルパカ、は言いすぎですが。

 のそのそ虎さんから這い下りた。羞恥心と申し訳なさに目を瞑れば、川原の砂利より断然寝心地が良かったです。もふ。


 ああ……朝になっても夢が覚めなかった。

 朝日に照り映える虎さんの毛並み。地となる毛は根元が金色で先に行くほど赤くグラデーションがかかり、太く細く、虎独特の横縞が漆黒で描かれる。お腹あたりの毛は淡くて白に近い。二足歩行の獣人さんは、日本どころか世界中を探してもいないだろう。

 待てど暮らせど世界が見慣れた顔を見せることはなく、ついにここがわたしの生まれ育った地ではないことを受け入れるしかなくなった。

 ……異世界だって小説やDVDの中にしかないと思っていたのに、何の因果でしょうか神様。始終ご縁がありますように、と四十五円しかお賽銭をさし上げなかったからでしょうか。ゼロの数を間違えましたか。

 日頃の行いが悪いとおっしゃるなら悔い改めます。ですからどうか……。

 両手を組んでブツブツ呟くわたしに、若干引き気味だった虎さんが何か言った。


「○○×? ……□×、○□△」

「あいかわらず、さっぱりわかりません」


 首を傾げてみせると、虎さんがわたしを捕まえた。

 ……移動ですね、わかりました。

 ぶらんと小脇に抱えられ、森の中の行軍が始まった。

 行動が言葉になるのは言語コミュニケーションが成立しないから仕方ないにしても、うら若い乙女を捕まえて完璧荷物扱いですよ? 昨日から薄々思っていましたが、わたしに対する扱いを改善してほしいです。淑女とは言いません。わたしも自分をしっていますから、エッヘン。せめて人らしく、猫の仔を運ぶようにじゃなくてですねー。

 ――自分の足で歩かせてもらったところ、躓く、すっ転ぶ、はぐれると、虎さんの足を引っ張るまさにお荷物でした……いきがってすみません。

 木の根にぶつけた小指に悶絶していると、虎さんがぽとりと掌に乗せてくれたのは野苺だった。頬張ってニコニコするわたしを抱え、森をかきわけかきわけ、さらにかきわけ、もいっちょかきわけ。


 再び日が暮れかけたとき、木立が途切れた先に見えたのはザ☆農村だった。

 おおお、建築物だー。

 煙突からもくもく白い煙が出ている。

 ご飯ですか? 晩ご飯ですね! 野苺だけじゃないってわたし、わかってました!

 ニッコニコするわたしに呆れた視線が突き刺さった気がしますが、抱えられたお腹がぐうキュルごろキュルと激しく自己主張しているので、期待は隠せたものではありません。

 暗くなった村を出歩く人はいないようで、どの家も扉が閉ざされていた。虎さんは家々を見渡し、一際立派な家に向かった。

 警戒するようにそろりと扉を開けたのは、身形の整った中年のおじさんだった。

 おおおおおっ、人間だー!

 驚いているのはおじさんも一緒で、虎さんとわたしを交互に見てなんだか怯えた顔をしていた。おじさんもその中年腹をまさぐられることを恐れているんでしょうか。


「△□×××○」

「○!? ……△××××△」


 交渉とおぼしき会話がなされているけれど、乏しい知識を総動員させても単語の意味ひとつわかりません。お腹空いたなぁ、とぼんやりしているとおじさんが一度奥に引っ込み、しばらくしてお皿に待望のご飯を乗せて戻ってきた。

 虎さんが上着から黄金色の硬貨をおじさんに渡し、お皿を受け取って踵を返した。

 すぐ後ろで勢いよく閉まった扉に驚いた。

 わたしたちを追い払いたがっているみたい。

 家に入れてもらうこともなく、さっさと去れと言わんばかりのおじさんの態度。ちらっと仰ぎ見た虎さんは怒るでもなく黙々と歩いている。

 わたしでも嫌な感じがしたのに、どうして?

 ……慣れて、るんだ。

 ふいに理解する。どの家も玄関は虎さんに比べて小さい。頭を下げないとくぐれない扉は、必然的に中に住むのが人間サイズだと知らせている。

 ここは人間の村で、虎さんは“他所者”なんだ……。

 人に会えて嬉しいはずの心が、ぎゅうっと締めつけられるようだった。


 おじさん宅の裏手に回った虎さんは、納屋の戸に肩を当ててグッと押し、カギを破壊して侵入した。両手がふさがっているからって力技な……言ってくれれば自分の足で歩きます。

 ぴかぴか金色に光る瞳は暗い納屋も支障ないようだ。わたしがおろされた場所は地面じゃなく、草っぽいものの上だった。これが藁ベッドでしょうか、おしえてーおじいさん。


「△□○」

「ありがとうございます」


 虎さんに渡されたスープはまだ温かかった。木椀を齧る勢いですすると、じんわりと喉から胃へ、身体中に熱が広がっていく。山間の農村で塩は貴重品なのだろう、あとひとつまみ塩を足してくれたらと願う減塩食でしたが。

 温かい食べ物って緊張をほぐしてくれる力がある。

 ホッとしたら力が抜けてしまって……。

 ぽと、と膝を叩く水音。

 湯気、のせいで……視界が霞む。ああ、鼻水も。

 ……なにもこんなもので塩気を補いたいわけじゃなかったのに。


「…………あり゛がど、うっ……」


 ぐしゃぐしゃと力強く頭を撫でられ、視界がグラグラ揺れてます。追加で渡された虎さんの木椀で両手がふさがり、涙も拭けないわたしはグズグズ洟を啜りあげた。

 誤解です。泣くほどお腹が空いていたんじゃないんです。

 虎さんのやさしさはスープと違って、胸を熱くしてくれた。




 +++++++++++++++




 どうして気づけたんだろう。

 誰かの手がさっと眠気を払ったみたいに、その瞬間目が覚めた。


「――どこへ行くんですか」


 戸口へ向かう背中に問いかけた。

 暗い納屋でも目が慣れればある程度物を判別できる。黒い獣の輪郭は身じろぎもせず、耳だけが機敏にわたしの方を向いた。

 用を足すのに断る必要があるのはわたしだけで、虎さんはいつもふらりと姿を消していた。声をかけるのはエチケット違反だと普段なら思っただろう。

 直感が働いた。

 呼吸にさわさわと膨らんだ毛が、宙でくねる尾が、虎さんの静かな緊迫を表していた。

 低く唸る声が返答を紡ぐ。何を言われているかわからない、わからないけれど。

 立ち上がって虎さんに駆け寄った。袖口を掴んでも振り向いてくれない。


「虎さん、虎さん」


 観念したようにわたしを見下ろす金色の瞳。目を皿のようにして見つめ返した。


「わたしをここにおいていく気じゃありませんよね?」


 無償の親切がいつまでも続くと信じるほど子供じゃない。先日デパートで見つけた迷子をサービスカウンターに預けたように、より適した者へ任せるのは当たり前だ。移動も食事も虎さんに頼り、何倍も効率を落とす足手まといを延々と連れ歩いてくれるわけがない。だけど、森で見捨ててもよかったわたしを村まで連れて来てくれた。

 強靭な肉体も鋭い牙と爪も、人が恐れを抱くのに充分だろう。知恵を得た獣は野の獣より抗し難い。虎さんだけなら食事にも不自由しない森から、わざわざ非友好的な村へ来た理由。

 なにかを頼める立場じゃないけれど。

 ただお礼を言って、この指を解くべきだとわかっているけれど――。


「おいていかないでください。おねがいします。……おいて、いかないでっ……」


 強く握りしめた指が震える。ピンと張った布地から持ち主にも伝わったようだ。

 虎さんがわたしの頭に手を乗せた。迷いのある手はそれ以上動かない。

 悲しくて涙がわいてきた。

 この毛むくじゃらの手は、離されてしまうのだろうか。


「○○。……△□×」


 緩く引き寄せられた。今度は頭を撫でてくれた手に心底安堵しながら、わたしは軍服に顔を埋め、抑えきれなくなった嗚咽をこぼした。

 まだ傍においてもらえる。もう少し、一緒にいられるんだ……。

 再び藁のベッドに戻ったわたしは、渋る虎さんの上着をしっかり掴んだまま眠った。

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