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番を殺せなかった

掲載日:2026/06/26

「――選ばれし姫、リュシエンヌ」


 静まり返った大広間に、ひび割れた声が落ちた。


「その身には、印を持つ番が現れる」


 誰かが息を呑む。


「そして、その者と結ばれるとき、国に恩寵が訪れる」


 ――それだけだった。


 付け足しも、解釈もない。

 言葉を終えた瞬間、預言者は崩れた。


 ざわめきが、遅れて広がる。


 番。


 つがい。


 その言葉が、やけに鮮明に耳に残っていた。


 ……よりによって、それなのね。


 思わずそんなことを考えて、すぐに打ち消す。

 軽く扱っていいものじゃない。


 神の言葉は、外れない。


 この国で、それを疑う者はいないのだから。


 私は、玉座の下の席に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。


 顔を上げると、父がいた。

 驚きはしている。でも、それ以上に――掴んでいる。


 この預言の意味を。


 左右の大臣たちも同じだった。

 神官はすでに頭を垂れている。

 誰もが、この言葉を“希望”として受け取っている。


 印を持つ番。


 その者と結ばれることで、国に恩寵が訪れる。


 雨かもしれない。

 豊穣かもしれない。

 あるいは、戦の勝利か。


 ――その鍵が、私にある。


 自然と、背筋が伸びた。


 私はただの姫ではない。

 神殿に祝福された、強い魔力を持つ姫。


 この力は、私のものではない。


 神から預けられた火。

 必要な時に、燃やすためのもの。


 だから私は剣を取る。

 だから政を学ぶ。


 それを疑ったことはない。


 ――たとえ、それが、どんな相手であっても。


 王が立ち上がった。


「神は、我らを見捨ててはいない」


 よく通る声が、広間を打つ。


「リュシエンヌに告げられたこの言葉は、我が国にとっての希望である。印を持つ者は、必ず現れる」


 希望。


 その言葉に、周囲が深くうなずく。


 視線が集まる。

 期待と、計算と、わずかな熱。


 そのすべてを、私は正面から受け止めた。


 わかっている。

 これは、軽いものじゃない。


 でも――


 背負えないとも、思わなかった。




 風は、今日も乾いていた。


 白い城壁の向こうで、砂がかすかに舞う。


 昔はもっと水があったと、年寄りたちは言う。

 この水路も、城も、すべては栄えていた時代の名残だと。


 けれど、私が生まれた時から、この国は乾いていた。


 誇り高く、美しく。

 そしてどこか、ゆっくりと失われていくものを抱えたまま。


 私はその風景を、見慣れていた。


 ――愛してもいた。









 開戦の合図は、とっくに過ぎていた。


 山沿いの戦場は、音が逃げない。

 怒号も悲鳴も、すべてがぶつかり合って濁っている。


 その中で、私は剣を握っていた。


 北の軍は速い。荒い。

 けれど、そのぶん崩れない。


 前方で味方の列が裂けた。


 ――強いのがいる。


 考えるより先に、地を蹴る。


 二人斬る。炎で三人まとめて払う。

 止まらない。そのまま前へ出る。


「姫様、出過ぎです!」


 聞かない。


 流れを押し返している一点へ、まっすぐ向かう。


 黒い旗が見えた。

 翼を広げた黒鷹。


「将軍スヴェンだ!」


 その名は知っている。

 王の血を引くとも噂される男。


 だが、姿を見たのは初めてだった。


 土煙の向こう。

 地を駆ける男。


 馬上ですらない。

 それでいて、前線を食い破ってくる。


 ――無茶な。


 けれど、目が離せなかった。


 距離が消える。


 気づけば、もう目の前だった。


 黒髪。荒い輪郭。

 そして、青い目。


 本来なら、嫌悪するはずの色。


 なのに。


 逸らせなかった。


 次の瞬間、剣がぶつかる。


 重い。


 一撃でわかる。力任せじゃない。

 速さも、踏み込みも、正確だ。


 予想が砕ける。


 打ち合う。二合、三合。


 私の炎が弾け、男がわずかに退く。

 すぐに踏み込まれる。


「……王女か」


 低い声。


「なら、ちょうどいい」


 そのまま押し込んでくる。


 受ける。滑る。重い。


 ――でも、引けない。


 ここで退けば、この男はさらに味方を斬る。


 だから、前へ出る。


 打ち込む。押し返す。

 距離が近い。


 息が触れるほどだった。


 そのときだった。


 腕に、熱が走る。


「……っ」


 焼けた、と思った。


 違う。


 内側から、何かが浮かび上がる。


 視線を落とす。


 手首の上。


 赤く、金に近い光の紋様。

 炎が絡むような、見たことのない印。


 ――嘘でしょう。


 顔を上げる。


 男も、動きを止めていた。


 同じように。


 腕に浮かび上がったものを、見ている。


 黒い手甲の下。

 裂けた布の隙間から、冷たい光の印。


 私たちは、同時にそれを見た。


 そして、同時に相手を見る。


 音が遠のく。


 番。


 預言者の声が、頭の中で重なる。


 ――印を持つ番が現れる。


 違う、と一瞬思う。


 でも、否定できない。

 こんなもの、見間違えるはずがない。


 男の目に、揺らぎが走る。


 驚き。警戒。

 そして、理解してしまった時の、あの空白。


 男がわずかに引く。


 剣は構えたまま。だが、踏み込んでこない。


 その一瞬の躊躇に、腹が立った。


 先に動く。


 剣を振るう。


 火花が散る。


 でも、もうさっきみたいには打てない。


 近い。

 近すぎる。


 印が熱を持つ。脈が乱れる。


 何なの、これは。


 問いは、戦場に飲まれる。


 すぐ横で兵が倒れた。

 矢が岩に突き刺さる。


 現実が戻る。


 私は、大きく間合いを切った。


 追ってこない。


 ――来ない。


 あの男が。


 殺せる距離を、自分から手放した。


 遠くで、退却の角笛が鳴る。


 兵が割って入る。

 味方が私を囲み、敵が彼を守る。


 遮られる、その直前まで。

 私たちは、互いを見ていた。


 最後に見えたのは――


 彼の腕の印。


 私と同じように、消えずに残っていた。









 戦場の記憶は、ひどく曖昧だった。


 勝ってはいない。

 討ち取ってもいない。


 ただ、あの場を切り上げただけだ。


 それなのに。


「姫様が守ってくださった!」


「北を退けたぞ!」


 城門の前では、歓声が上がった。


 手が振られる。

 祈りの声が飛ぶ。


 私は馬上で微笑み、応えた。


 ――そうするべきだから。


 でも、胸は静かなままだった。


 右腕が、熱い。


 袖の下に隠したそこだけが、現実だった。


 


 大広間は、静まり返っていた。


 私は跪き、報告を始める。


 戦況。損害。敵の動き。

 いつも通り、必要なことだけを並べる。


「敵将は」


 父の声。


「スヴェンです」


 一瞬、空気が揺れた。


「刃を交えたか」


「……はい」


 視線が集まる。

 わかっている。


 聞かれているのは、その先だ。


 喉が、わずかに詰まる。


「それで」


 短い問い。

 逃げ場はない。


「……戦場で、印が現れました」


 沈黙。


「誰に」


 答えたくなかった。

 それでも、口を開いた。


「敵将に」


 ざわめきが走る。


「北の将軍スヴェンです」


 否定の声が上がる。


「ありえぬ」


「見間違いでは」


 神官が口を開く。


「預言者の言葉を疑うことはできませぬ」


 ならば、と誰かが言う。


「象徴ではないか」


「番とは、必ずしも婚姻では――」


 言葉が重なる。


 すがりたくなる。


 ――もし、そうなら。


 あの感覚も、ただの錯覚で済む。


 けれど。


 違う。


 あれは、そんなものじゃなかった。


 印が現れた瞬間、理解してしまった。

 理由も理屈もなく。


 “あれだ”と。


「お前はどう思う」


 父の問い。


 王女としての答えは、ある。


 でも――


「……わかりません」


 それしか出なかった。


 父は頷いた。


「本件は外へ漏らすな」


 命令が下る。


 人々が動き出す。

 処理の時間だ。


 私はその中にいながら、遠かった。


 神は正しい。


 なら、間違っているのは――


 私だ。


 そう思うしかなかった。


 なら。


 簡単だ。


 会わなければいい。

 戦場に出なければいい。


 それでも駄目なら。









 それから、ひと月後の夜。


 呼び出されたのは、戦略室だった。


 地図の前に、父と宰相、老将、そして神官が立っている。


「南東の交易拠点で動きがあった」


 砂漠の縁の水場。

 小さな青が、地図の上でやけに目立つ。


「北が兵を集めている。奪いに来る」


「こちらも出しますか」


「出す。だが数は割けん」


 しばしの間。


 私は先に言った。


「……私が出ますね」


「そうだ」


 迷いはなかった。

 あそこを失えば、この国は干上がる。


 私が行くしかない。


 ――問題は、それだけじゃない。


「相手も来る」


 父の声。


「スヴェンが」


 否定は、もう誰もしなかった。


「来る公算が高い」


 地図を見る。

 あの男と、同じ場所に向かう。


 まるで最初から決まっていたみたいに。


「リュシエンヌ」


 顔を上げる。


 父がまっすぐに見ていた。


「……次に会ったら、殺せ」


 空気が止まる。


「父上」


「王命だ」


 短い言葉。


「預言が広がれば国が揺らぐ。敵にも味方にも利用される。ならば、根を断つしかない」


 理解はできた。

 あまりにも、正しい。


「お前を疑っているわけではない」


 父の声が、少しだけ落ちる。


「守るためでもある」


 胸が痛んだ。


「お前がやらなければ、もっと醜い形になる」


 老将が頭を下げる。


「姫様、国のために」


 宰相も続く。


「どうか」


 逃げ場はない。


 ――拒めない。


「……ええ」


 声が遠い。


「承知いたしました」


 それで決まった。


 会議はすぐに実務へ移る。

 兵。水。行軍。


 私は答え続けた。

 王女として。


 ただひとつ。


 頭の奥で、言葉がこびりつく。


 次に会ったら、殺せ。

 次に会ったら、殺せ。

 次に会ったら、殺せ。


 ――それでも。


 胸の奥で、別の声が小さく響いた。


 会えるのだ。


 私は、それを押し潰した。









 出陣の朝、空は白く霞んでいた。


 遠くが、ぼやけて見える。

 砂の混じった空気が、世界の輪郭を少しずつ削っていた。


 軍は小さい。機動力重視の編成。


 私は馬上でそれを見渡しながら、妙に静かな自分に気づいていた。


 恐れているはずなのに。

 胸の中は、不自然なほど凪いでいる。


 


 昼を過ぎた頃、緑が見えた。


 オアシス。

 砂の中に浮かぶ、小さな青。


 ――そして。


 黒い旗。


 黒鷹。


 いる。


 敵だ。

 殺す相手だ。


 それなのに。


 会えた、と思ってしまった。


 私は、自分を軽蔑した。


 


 戦端が開かれる。


 矢が走り、砂が爆ぜる。


 私は剣を抜き、前へ出た。

 二人斬る。炎でまとめて払う。


 感覚は戻っていた。


 速い。軽い。

 このまま押し切れる。


 ――あの男さえ潰せば。


 


 黒髪。青い目。


 目が合う。


 そこで、世界が一度だけ静かになる。


 


 私は剣を向けた。


「あなたを殺す」


 声は揺れなかった。


 スヴェンは少し遅れて構えた。


「そうか」


 


 踏み込む。


 斬る。


 受けられる。


 重い。


 返される。


 速い。


 


 剣を打ち合わせるたび、印が熱を持つ。


 腕の内側から、脈打つように。


 


 打ち込む。


 押す。


 詰める。


 


 ――なのに。


 決めきれない。


 


 喉を狙えば、刃が逸れる。

 踏み込めば、足が止まる。


 


 そんなはずはない。


 殺すために来たのに。


 


 スヴェンが低く言った。


「その調子で、お前は……国に残れるのか?」


 胸を刺されたみたいだった。


「黙って」


 


 距離が空く。

 息が乱れる。


 戦いじゃない。


 言葉で乱されている。


 


「あなたは」


 何を言いたいのか、自分でもわからない。


「あなたは、私を殺して戻って、認められるといい」


 言ってから、痛みが走る。


 


 スヴェンが目を細めた。


「……ああ。だから、俺も、お前を殺しに来た」


 


 同じだと思った。


 同じ理由で。

 ……同じはずなのに。


 


 スヴェンが踏み込む。

 私は剣を上げる。


 ――上げた、はずだった。


 


「どうしてだ」


 


 一歩。


 


「どうして、お前なんだ」


 


 動けない。


 


 殺せる距離。


 今しかない。


 


 なのに。


 


 手が震えた。


 


 最初は小さく。


 すぐに、ごまかせなくなる。


 


 力が入らない。


 剣が、重い。


 


 どうして。


 ――それは、私が聞きたい。


 


 スヴェンが、目の前にいた。


 同じ場所に立っていると、わかってしまう。


 


 ――殺さなければならないのに。


 


 指から、力が抜けた。


 


 からん、と音がした。


 


 剣が、落ちた。


 


 拾えば間に合う。


 それでも、動けない。


 


 スヴェンも動かなかった。


 その沈黙が、残酷だった。


 


 遠くで叫び声。


 兵が来る。


 


 終わる。


 


 先に動いたのは、スヴェンだった。


 


 剣には触れない。


 代わりに、私の手首を掴む。


 


「……離して」


「黙れ」


 


 引かれる。


 


 振りほどこうとする。


 でももう遅い。


 


 兵が迫る。


 


 ――このままじゃ終わる。


 


 気づけば、走っていた。


 


 敵将と一緒に。


 


 砂を蹴る。


 壁を抜ける。


 喧騒が遠ざかる。


 


 背後で誰かが叫んだ。


 振り返れない。


 


 逃げている。


 オアシスを抜けると、そこはもう砂漠だった。


 


 何もない。


 


 赤く染まり始めた砂の海の中を、


 私たちは、走り続けた。









 砂漠の夜は、思ったより冷えた。

 昼の熱が嘘みたいに引き、風は骨まで乾かしてくる。


 私たちは、ほとんど言葉もなく歩き続けた。


 近づきすぎず、離れすぎず。


 剣が届かない距離で、互いを見失わないように。


 敵同士なのに、背を向けて歩けない。

 並ぶこともできない。


 見えない刃を突きつけ合ったまま、進んでいるみたいだった。


 


 夜半を過ぎて、低い岩場を見つけた。


 風を避けられる影。


 そこに腰を下ろす。


 火は焚かない。

 水も使わない。


 何もしないのが、一番正しい。


 ――それが一番難しかった。


 


「……眠らないのか」


 低い声。


「眠れると思う?」


「思わない」


 少しだけ、可笑しかった。


 


 沈黙が落ちる。


 


 私は腕を見る。


 印は、消えていない。


 


「……あなたも、帰れないの」


 


「帰ろうと思えば帰れる」


「嘘」


 


 少し間があって。


 


「……殺さないと、みんなが困るから」


 


 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。


 


「国も、父も、神殿も。私も」


 


「……どこも似たようなものだ」


 


 それだけで、十分だった。


 


 それ以上は、言えなかった。


 


 その夜、ほとんど眠らなかった。


 言葉も、増えなかった。


 


 


 それから先のことは、あまり覚えていない。


 どこを歩いたのかも、いつ名前で呼ぶようになったのかも。


 


 私たちは、戻らなかった。


 


 


 その年、雨が降ったという。

 大したものではない、小さな雨。


 けれど、乾ききった土地には、それで十分だった。


 


 水路に水が戻り、畑に緑が戻り、

 人々はそれを、神の恩寵だと言った。


 


 きっと、そうなのだと思う。


 劇的な奇跡ではなく、

 明日も生きられる程度の変化。


 


 それが、この国に必要な救いだった。


 


 


 朝、目を覚ますと、


 隣で眠っている黒髪が目に入る。


 嫌うべき顔だったはずなのに、

 今では、誰よりも見慣れている。


 


 外では風が鳴っている。


 


 同じ風のはずなのに、



 もう、あの頃とは違って聞こえた。

読んでいただきありがとうございました。

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