番を殺せなかった
「――選ばれし姫、リュシエンヌ」
静まり返った大広間に、ひび割れた声が落ちた。
「その身には、印を持つ番が現れる」
誰かが息を呑む。
「そして、その者と結ばれるとき、国に恩寵が訪れる」
――それだけだった。
付け足しも、解釈もない。
言葉を終えた瞬間、預言者は崩れた。
ざわめきが、遅れて広がる。
番。
つがい。
その言葉が、やけに鮮明に耳に残っていた。
……よりによって、それなのね。
思わずそんなことを考えて、すぐに打ち消す。
軽く扱っていいものじゃない。
神の言葉は、外れない。
この国で、それを疑う者はいないのだから。
私は、玉座の下の席に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
顔を上げると、父がいた。
驚きはしている。でも、それ以上に――掴んでいる。
この預言の意味を。
左右の大臣たちも同じだった。
神官はすでに頭を垂れている。
誰もが、この言葉を“希望”として受け取っている。
印を持つ番。
その者と結ばれることで、国に恩寵が訪れる。
雨かもしれない。
豊穣かもしれない。
あるいは、戦の勝利か。
――その鍵が、私にある。
自然と、背筋が伸びた。
私はただの姫ではない。
神殿に祝福された、強い魔力を持つ姫。
この力は、私のものではない。
神から預けられた火。
必要な時に、燃やすためのもの。
だから私は剣を取る。
だから政を学ぶ。
それを疑ったことはない。
――たとえ、それが、どんな相手であっても。
王が立ち上がった。
「神は、我らを見捨ててはいない」
よく通る声が、広間を打つ。
「リュシエンヌに告げられたこの言葉は、我が国にとっての希望である。印を持つ者は、必ず現れる」
希望。
その言葉に、周囲が深くうなずく。
視線が集まる。
期待と、計算と、わずかな熱。
そのすべてを、私は正面から受け止めた。
わかっている。
これは、軽いものじゃない。
でも――
背負えないとも、思わなかった。
風は、今日も乾いていた。
白い城壁の向こうで、砂がかすかに舞う。
昔はもっと水があったと、年寄りたちは言う。
この水路も、城も、すべては栄えていた時代の名残だと。
けれど、私が生まれた時から、この国は乾いていた。
誇り高く、美しく。
そしてどこか、ゆっくりと失われていくものを抱えたまま。
私はその風景を、見慣れていた。
――愛してもいた。
開戦の合図は、とっくに過ぎていた。
山沿いの戦場は、音が逃げない。
怒号も悲鳴も、すべてがぶつかり合って濁っている。
その中で、私は剣を握っていた。
北の軍は速い。荒い。
けれど、そのぶん崩れない。
前方で味方の列が裂けた。
――強いのがいる。
考えるより先に、地を蹴る。
二人斬る。炎で三人まとめて払う。
止まらない。そのまま前へ出る。
「姫様、出過ぎです!」
聞かない。
流れを押し返している一点へ、まっすぐ向かう。
黒い旗が見えた。
翼を広げた黒鷹。
「将軍スヴェンだ!」
その名は知っている。
王の血を引くとも噂される男。
だが、姿を見たのは初めてだった。
土煙の向こう。
地を駆ける男。
馬上ですらない。
それでいて、前線を食い破ってくる。
――無茶な。
けれど、目が離せなかった。
距離が消える。
気づけば、もう目の前だった。
黒髪。荒い輪郭。
そして、青い目。
本来なら、嫌悪するはずの色。
なのに。
逸らせなかった。
次の瞬間、剣がぶつかる。
重い。
一撃でわかる。力任せじゃない。
速さも、踏み込みも、正確だ。
予想が砕ける。
打ち合う。二合、三合。
私の炎が弾け、男がわずかに退く。
すぐに踏み込まれる。
「……王女か」
低い声。
「なら、ちょうどいい」
そのまま押し込んでくる。
受ける。滑る。重い。
――でも、引けない。
ここで退けば、この男はさらに味方を斬る。
だから、前へ出る。
打ち込む。押し返す。
距離が近い。
息が触れるほどだった。
そのときだった。
腕に、熱が走る。
「……っ」
焼けた、と思った。
違う。
内側から、何かが浮かび上がる。
視線を落とす。
手首の上。
赤く、金に近い光の紋様。
炎が絡むような、見たことのない印。
――嘘でしょう。
顔を上げる。
男も、動きを止めていた。
同じように。
腕に浮かび上がったものを、見ている。
黒い手甲の下。
裂けた布の隙間から、冷たい光の印。
私たちは、同時にそれを見た。
そして、同時に相手を見る。
音が遠のく。
番。
預言者の声が、頭の中で重なる。
――印を持つ番が現れる。
違う、と一瞬思う。
でも、否定できない。
こんなもの、見間違えるはずがない。
男の目に、揺らぎが走る。
驚き。警戒。
そして、理解してしまった時の、あの空白。
男がわずかに引く。
剣は構えたまま。だが、踏み込んでこない。
その一瞬の躊躇に、腹が立った。
先に動く。
剣を振るう。
火花が散る。
でも、もうさっきみたいには打てない。
近い。
近すぎる。
印が熱を持つ。脈が乱れる。
何なの、これは。
問いは、戦場に飲まれる。
すぐ横で兵が倒れた。
矢が岩に突き刺さる。
現実が戻る。
私は、大きく間合いを切った。
追ってこない。
――来ない。
あの男が。
殺せる距離を、自分から手放した。
遠くで、退却の角笛が鳴る。
兵が割って入る。
味方が私を囲み、敵が彼を守る。
遮られる、その直前まで。
私たちは、互いを見ていた。
最後に見えたのは――
彼の腕の印。
私と同じように、消えずに残っていた。
戦場の記憶は、ひどく曖昧だった。
勝ってはいない。
討ち取ってもいない。
ただ、あの場を切り上げただけだ。
それなのに。
「姫様が守ってくださった!」
「北を退けたぞ!」
城門の前では、歓声が上がった。
手が振られる。
祈りの声が飛ぶ。
私は馬上で微笑み、応えた。
――そうするべきだから。
でも、胸は静かなままだった。
右腕が、熱い。
袖の下に隠したそこだけが、現実だった。
大広間は、静まり返っていた。
私は跪き、報告を始める。
戦況。損害。敵の動き。
いつも通り、必要なことだけを並べる。
「敵将は」
父の声。
「スヴェンです」
一瞬、空気が揺れた。
「刃を交えたか」
「……はい」
視線が集まる。
わかっている。
聞かれているのは、その先だ。
喉が、わずかに詰まる。
「それで」
短い問い。
逃げ場はない。
「……戦場で、印が現れました」
沈黙。
「誰に」
答えたくなかった。
それでも、口を開いた。
「敵将に」
ざわめきが走る。
「北の将軍スヴェンです」
否定の声が上がる。
「ありえぬ」
「見間違いでは」
神官が口を開く。
「預言者の言葉を疑うことはできませぬ」
ならば、と誰かが言う。
「象徴ではないか」
「番とは、必ずしも婚姻では――」
言葉が重なる。
すがりたくなる。
――もし、そうなら。
あの感覚も、ただの錯覚で済む。
けれど。
違う。
あれは、そんなものじゃなかった。
印が現れた瞬間、理解してしまった。
理由も理屈もなく。
“あれだ”と。
「お前はどう思う」
父の問い。
王女としての答えは、ある。
でも――
「……わかりません」
それしか出なかった。
父は頷いた。
「本件は外へ漏らすな」
命令が下る。
人々が動き出す。
処理の時間だ。
私はその中にいながら、遠かった。
神は正しい。
なら、間違っているのは――
私だ。
そう思うしかなかった。
なら。
簡単だ。
会わなければいい。
戦場に出なければいい。
それでも駄目なら。
それから、ひと月後の夜。
呼び出されたのは、戦略室だった。
地図の前に、父と宰相、老将、そして神官が立っている。
「南東の交易拠点で動きがあった」
砂漠の縁の水場。
小さな青が、地図の上でやけに目立つ。
「北が兵を集めている。奪いに来る」
「こちらも出しますか」
「出す。だが数は割けん」
しばしの間。
私は先に言った。
「……私が出ますね」
「そうだ」
迷いはなかった。
あそこを失えば、この国は干上がる。
私が行くしかない。
――問題は、それだけじゃない。
「相手も来る」
父の声。
「スヴェンが」
否定は、もう誰もしなかった。
「来る公算が高い」
地図を見る。
あの男と、同じ場所に向かう。
まるで最初から決まっていたみたいに。
「リュシエンヌ」
顔を上げる。
父がまっすぐに見ていた。
「……次に会ったら、殺せ」
空気が止まる。
「父上」
「王命だ」
短い言葉。
「預言が広がれば国が揺らぐ。敵にも味方にも利用される。ならば、根を断つしかない」
理解はできた。
あまりにも、正しい。
「お前を疑っているわけではない」
父の声が、少しだけ落ちる。
「守るためでもある」
胸が痛んだ。
「お前がやらなければ、もっと醜い形になる」
老将が頭を下げる。
「姫様、国のために」
宰相も続く。
「どうか」
逃げ場はない。
――拒めない。
「……ええ」
声が遠い。
「承知いたしました」
それで決まった。
会議はすぐに実務へ移る。
兵。水。行軍。
私は答え続けた。
王女として。
ただひとつ。
頭の奥で、言葉がこびりつく。
次に会ったら、殺せ。
次に会ったら、殺せ。
次に会ったら、殺せ。
――それでも。
胸の奥で、別の声が小さく響いた。
会えるのだ。
私は、それを押し潰した。
出陣の朝、空は白く霞んでいた。
遠くが、ぼやけて見える。
砂の混じった空気が、世界の輪郭を少しずつ削っていた。
軍は小さい。機動力重視の編成。
私は馬上でそれを見渡しながら、妙に静かな自分に気づいていた。
恐れているはずなのに。
胸の中は、不自然なほど凪いでいる。
昼を過ぎた頃、緑が見えた。
オアシス。
砂の中に浮かぶ、小さな青。
――そして。
黒い旗。
黒鷹。
いる。
敵だ。
殺す相手だ。
それなのに。
会えた、と思ってしまった。
私は、自分を軽蔑した。
戦端が開かれる。
矢が走り、砂が爆ぜる。
私は剣を抜き、前へ出た。
二人斬る。炎でまとめて払う。
感覚は戻っていた。
速い。軽い。
このまま押し切れる。
――あの男さえ潰せば。
黒髪。青い目。
目が合う。
そこで、世界が一度だけ静かになる。
私は剣を向けた。
「あなたを殺す」
声は揺れなかった。
スヴェンは少し遅れて構えた。
「そうか」
踏み込む。
斬る。
受けられる。
重い。
返される。
速い。
剣を打ち合わせるたび、印が熱を持つ。
腕の内側から、脈打つように。
打ち込む。
押す。
詰める。
――なのに。
決めきれない。
喉を狙えば、刃が逸れる。
踏み込めば、足が止まる。
そんなはずはない。
殺すために来たのに。
スヴェンが低く言った。
「その調子で、お前は……国に残れるのか?」
胸を刺されたみたいだった。
「黙って」
距離が空く。
息が乱れる。
戦いじゃない。
言葉で乱されている。
「あなたは」
何を言いたいのか、自分でもわからない。
「あなたは、私を殺して戻って、認められるといい」
言ってから、痛みが走る。
スヴェンが目を細めた。
「……ああ。だから、俺も、お前を殺しに来た」
同じだと思った。
同じ理由で。
……同じはずなのに。
スヴェンが踏み込む。
私は剣を上げる。
――上げた、はずだった。
「どうしてだ」
一歩。
「どうして、お前なんだ」
動けない。
殺せる距離。
今しかない。
なのに。
手が震えた。
最初は小さく。
すぐに、ごまかせなくなる。
力が入らない。
剣が、重い。
どうして。
――それは、私が聞きたい。
スヴェンが、目の前にいた。
同じ場所に立っていると、わかってしまう。
――殺さなければならないのに。
指から、力が抜けた。
からん、と音がした。
剣が、落ちた。
拾えば間に合う。
それでも、動けない。
スヴェンも動かなかった。
その沈黙が、残酷だった。
遠くで叫び声。
兵が来る。
終わる。
先に動いたのは、スヴェンだった。
剣には触れない。
代わりに、私の手首を掴む。
「……離して」
「黙れ」
引かれる。
振りほどこうとする。
でももう遅い。
兵が迫る。
――このままじゃ終わる。
気づけば、走っていた。
敵将と一緒に。
砂を蹴る。
壁を抜ける。
喧騒が遠ざかる。
背後で誰かが叫んだ。
振り返れない。
逃げている。
オアシスを抜けると、そこはもう砂漠だった。
何もない。
赤く染まり始めた砂の海の中を、
私たちは、走り続けた。
砂漠の夜は、思ったより冷えた。
昼の熱が嘘みたいに引き、風は骨まで乾かしてくる。
私たちは、ほとんど言葉もなく歩き続けた。
近づきすぎず、離れすぎず。
剣が届かない距離で、互いを見失わないように。
敵同士なのに、背を向けて歩けない。
並ぶこともできない。
見えない刃を突きつけ合ったまま、進んでいるみたいだった。
夜半を過ぎて、低い岩場を見つけた。
風を避けられる影。
そこに腰を下ろす。
火は焚かない。
水も使わない。
何もしないのが、一番正しい。
――それが一番難しかった。
「……眠らないのか」
低い声。
「眠れると思う?」
「思わない」
少しだけ、可笑しかった。
沈黙が落ちる。
私は腕を見る。
印は、消えていない。
「……あなたも、帰れないの」
「帰ろうと思えば帰れる」
「嘘」
少し間があって。
「……殺さないと、みんなが困るから」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
「国も、父も、神殿も。私も」
「……どこも似たようなものだ」
それだけで、十分だった。
それ以上は、言えなかった。
その夜、ほとんど眠らなかった。
言葉も、増えなかった。
それから先のことは、あまり覚えていない。
どこを歩いたのかも、いつ名前で呼ぶようになったのかも。
私たちは、戻らなかった。
その年、雨が降ったという。
大したものではない、小さな雨。
けれど、乾ききった土地には、それで十分だった。
水路に水が戻り、畑に緑が戻り、
人々はそれを、神の恩寵だと言った。
きっと、そうなのだと思う。
劇的な奇跡ではなく、
明日も生きられる程度の変化。
それが、この国に必要な救いだった。
朝、目を覚ますと、
隣で眠っている黒髪が目に入る。
嫌うべき顔だったはずなのに、
今では、誰よりも見慣れている。
外では風が鳴っている。
同じ風のはずなのに、
もう、あの頃とは違って聞こえた。
読んでいただきありがとうございました。
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