ユマのプラトー
「やあ、ユマー!」
「フォルメダ、いらっしゃい」
リューはいつも通り仕事に行き、僕も午後はフォルメダと勉強。始めてから3週間目ぐらいだろうか。フォルメダとは色んな話をしてかなり親しくなった。
「見て、フォルメダ」
紙に書いた図形の上に、ぽん、と音を立てて、小さな水蒸気の塊を出した。
「なに、それ」
「小っちゃい雲!」
「え……、ああ、うん」
「何その反応。たまたま昨夜できるようになったから見せたかっただけだよ」
「ごめん、始めた時のことを考えると色々できるようになったよね」
「ふふん。そうでしょう」
そうは言ったけど、実際まだ何もできない。
「ただ、なんていうか、ユマならもうちょっとできていいはずなんだよね。勉強もしっかりしてるのに実際の魔術がいまいち上達していかない。なにかが枷になっているんじゃないかと思ってるんだ、気持ちの面で」
「気持ちが関係するの?」
「気持ちというか、魔術に向き合う姿勢みたいなものかな」
「なるほど……。うーん、実は僕けっこう焦ってるんだ。僕、いまだに何も持ってなくて、このまま何もできない、何も生み出せない人間のままだったらどうしようって、ずっと不安で。リューは毎日立派に仕事してるのに」
別に元の世界でもほぼ何もしていなかったんだけど、こっちの世界で何もしないのは不安の度合いがどういうわけか全然違う。それは日に日に強く実感している。
「へえ、そんなこと考えてたんだね。確かに焦りは逆効果になり得るし、難しい問題だな。ユマはここへ来て間もないし、精神的なリラックスが必要なのかもしれないね。長い目で見ていこうよ」
「フォルメダ、いつもありがとう頑張るね!」
フォルメダを見送った後、部屋の前でシャンスさんとすれ違う。
「お疲れ様でございました。随分頑張られていますね」
「ええ……、みなさんの期待に応えたいので……」
シャンスさんはいつも僕のことを気遣ってくれて、リューの誕生日以降も色々と相談にのってくれた。
「奥様……。最近少し思っていたことですが、かなりお疲れのように見えます。顔色が宜しくないようなので、もう少し気を緩めてもよろしいのでは」
「そうですけど、リューは立派な人だから、僕も少しぐらいは」
「ご主人様は愛情を注がれているのであって、見返りを期待いるわけではないかと」
「愛ってなに? 僕が珍しいから家に連れてきただけのことでしょ?」
まずい。なんだかいらいらして、つい甘えてしまっている。
「奥様、廊下ではなんですので、少し部屋にお邪魔しても」
肩を支えられてソファを促され、シャンスさんが跪いて話を聞こうとする。
「そんな風にご主人様にも気持ちをぶつければいいのではないですか。夫夫なのですから」
「そんなの……。愛があって結婚したわけじゃないし、結婚したから急に愛したりもしないもん」
「奥様は、愛するにはそれに足るだけの特別な理由が必要だとお考えなのですね」
「え、そりゃそうでしょ。理由なく愛したりしないでしょ?」
「理屈で愛するのが本当の愛でしょうか。贈り物のために手を尽くしたり、あのポーカーフェイスの心を読み取ったり、毎晩ソファで膝枕で話したり、抱き合って空を眺めたりするのは、私には愛に見えますが奥様にとっては違うのでしょうか?」
「えっ、な、なんでそんなこと知って……」
「この屋敷のことは全て把握しております。奥様が優しく賢い方なのも最初から存じております」
そう言うとシャンスさんはお茶を淹れて部屋を出ていった。果物の香りと蜜の甘味で、ゆっくり味わうと気持ちが落ち着いていった。
違わないよ。違うから困ってるんじゃないか……。
浴室だけは一人になれるから心からリラックスできる。別に屋敷のみんなは優しいけど、一人の時間は必要だ。それに、考え事をするとき必要以上にネガティブにならない気がするし、少しぐらい泣いても顔が濡れているとそれを実感しないで済む。
どうも、自分で感じている以上に思い詰めているらしい。それは認めざるを得ない。
みんなに協力してもらっているけれど、それだけに結果を出せないのが余計に辛い。完全な初学者だし、見たこともない技術だから、自分が使いこなしている将来像が明確にはイメージできない。いつまでに結果が出なかったら諦めてみんなに頭を下げるのか考えるも怖い。
それと、リューとのこと。日に日に距離が縮まっているし、かわいいと思えることも多い。尊敬できて格好いいとも思う。でも、それが愛なのか、それが僕には分からない。離婚制度がないからこそ、愛するか愛さないかの選択が完全に自分自身にあって、逆に言えば愛し合わなくても結婚生活が可能な状態になっている、というか。一方で、髪に触れたいとか、抱きしめられたい、とかも頻繁に思うようになってきていて。
ああ、いつまで経っても考えがまとまらない! 早く全てに結論を出さないといけないのに。
お風呂上りにあのリップバームを塗った。大切にしたいからめったに使わないけど、今は元気を出したい。
鏡の前にいると、リューがいつもより早く部屋に来た。
「ユマ、キッチンから果物をくすねてきたぞ」
彼は今日も穏やかで楽しそうで、そして僕を甘やかしてくれる。それが時々、僕の胸をちくりとさせる。
「リューはいつも楽しそうですね」
「もちろんだ。こんなに楽しい日々は……、ん、どうした」
「何がです?」
「何を悲しんでいる」
わかるのか。顔に出したつもりはないのに。
「別にそんなことは……」
リューが歩いてきて両手を取る。
「どうしたんだ、ハニー。今にも泣きそうだ。ん……、もう泣いていたのか?」
「いや……、少し疲れただけで……」
精一杯突っ張っても、感情が制御できない。だめだ、崩れる。
「どうした、大丈夫だから落ち着いて。全部大丈夫だ。私にも分けてくれ、その悲しみを」
「悲しみを、分けるんですか?」
「もちろんだ。あなたのものは全部欲しいし、私の全てもあなたにあげたい」
ぐっと顔を近づけられ、リューの緑がかった瞳が見つめる。
目の中に湛えておけなくなった涙がついに溢れ、雫が一粒、頬を伝うのがわかった。
「……っ」
顔を背けると、次、また次と涙が零れる。
その一粒が唇に落ちたとき、それは起きた。
唇の辺りがぽわんと温かく感じた瞬間、薄い桃色が空中にぶわんと広がって消えたのだ。
「あっ」
「?」
「なんだ……、今のは」
「なんか、色が、見えたよね……?」
「ああ、それに温度もあったな」
その色は別に服などに着いたわけではなく、跡形もない。
「ユマ、これは多分、魔術だと思うんだが」
「そうなの? 僕、何かしたかな……」




