第8話 奪われた工具、閉ざされた夜
雨音だけが、部屋を満たしていた。
通されたのは、下町の雑居ビルの一室だった。
夜警隊が極秘に使っている隠れ家らしい。
窓には厚いカーテンが引かれ、外の明かりは一切入ってこない。
私はソファの隅で、毛布にくるまっていた。
体は暖かいはずなのに、指先の震えが止まらない。
視線を落とす。
膝の上で握りしめた自分の手。
空っぽの手。
あの「パキン」という音が、耳から離れない。
お爺様のドライバーが折れた音。
私の誇りが、私の半身が、無惨に踏み砕かれた音。
「……飲め。温かいミルクだ」
マグカップが差し出された。
ダリウスが隣に座る。
ソファが沈み込む感覚。
私はカップを受け取らず、掠れた声で言った。
「……帰してください」
「駄目だ。外には刺客がいる」
「私がいたら、貴方まで殺されます!」
顔を上げて叫んだ。
ダリウスの顔を見るのが怖かった。
きっと、迷惑そうな顔をしていると思ったから。
けれど、彼は怒っていなかった。
濡れた髪を拭きもせず、ただ静かに、悲しげに私を見ていた。
「もう、私には何もないんです」
言葉が堰を切ったように溢れ出す。
「工具がない。機材もない。ただの無力な女です。魔力もない、家もない、道具もない……っ、こんな私がいても、足手まといなだけじゃないですか!」
涙が零れた。
職人にとって、道具は命だ。
あれがなければ、私はただの「出来損ないの公爵令嬢」に戻ってしまう。
機械の声が聞こえても、直してあげられない。
それが何より辛い。
私は顔を覆って泣いた。
みっともなく、子供のように。
不意に、私の手首が掴まれた。
強い力で、顔を覆う手を引き剥がされる。
「リディア。俺を見ろ」
「いや……っ」
「見ろ!」
低い一喝に、体が竦む。
恐る恐る目を開けると、琥珀色の瞳が至近距離にあった。
ダリウスは私の両手を広げ、自分の掌に乗せた。
彼の手は大きくて、硬くて、剣ダコだらけでゴツゴツしている。
私の小さくて荒れた手とは大違いだ。
「道具がないなら、俺の手を使え」
彼は真剣な眼差しで言った。
「俺の手は、剣を振ることしか知らん不器用な手だ。精密な作業はできん。だが、重いものを支えることはできる。敵を斬ることはできる。お前が作業する間、盾になることだってできる」
彼は私の手を強く握りしめた。
熱い体温が伝わってくる。
「お前が無力なわけがない。道具がすごいんじゃない。あの光を灯したのは、お前のこの手と、その魂だ」
「でも……道具がなきゃ、物理的に直せません……」
「だから、俺がいる」
ダリウスは私の手を離し、足元の鞄から桐の箱を取り出した。
重厚で、見るからに高価そうな箱だ。
「これを渡すタイミングを、ずっと計っていたんだがな。……こんな状況で渡すことになるとは」
彼は苦笑しながら、その箱を私の膝に置いた。
ずしり、と重い。
「開けてみろ」
促されて、私は震える手で蓋を開けた。
息が止まった。
そこにあったのは、宝石箱よりも美しい光景だった。
黒いビロードの中に、銀色に輝く工具たちが整然と並んでいる。
ドライバー、ニッパー、スパナ、ピンセット。
どれも最高級のミスリル鋼で作られ、グリップには滑り止めの特殊加工が施されている。
ただの新品じゃない。
私は吸い寄せられるように、一番手前のドライバーを手に取った。
指に吸い付くようなフィット感。
重さのバランスが完璧だ。
私の手のひらのサイズ、指の長さ、握力の弱さまで計算し尽くされている。
「……どうして」
これは、市販品じゃない。
完全なオーダーメイドだ。
しかも、この職人技。王都で一番と言われる『黒鉄工房』の仕事だ。
予約だけで三年待ちは当たり前の。
「以前、お前が俺の剣を直している時、ずっと手元を見ていた」
ダリウスが少し照れくさそうに頬をかいた。
「お前は良い腕をしているが、道具が古くて手に負担がかかっていた。だから、職人に頼んで作らせたんだ。『最高の整備士に相応しい、最高の道具を』とな」
私は言葉を失った。
これ一式で、家が一軒建つほどの値段がするはずだ。
それを、彼は私のために。
まだ「ただの雇われ整備士」だった私に。
「お爺様の形見の代わりにはならんかもしれない。だが、性能は保証する」
ダリウスの言葉に、私は首を横に振った。
代わりなんかじゃない。
これは、新しい相棒だ。
彼が私を信じて、託してくれた想いの結晶だ。
ドライバーを握りしめる。
冷たい金属なのに、不思議と熱を感じる。
力が、体の奥底から湧いてくるのが分かった。
直したい。
この道具を使って、壊れたものを直したい。
そして何より、この人の期待に応えたい。
「……重いです」
「ん? ああ、ミスリルは密度が高いからな」
「違います」
私は涙を拭って、彼を見つめた。
視界がクリアになる。
「貴方の想いが、重いです。……どんな宝石の指輪よりも」
ダリウスが目を見開き、それから耳まで真っ赤にした。
咳払いをして誤魔化そうとするが、動揺が隠せていない。
「そ、そうか。……なら、責任を持って使いこなせ」
「はい。使い潰すまで、働かせてもらいます」
私は工具箱を胸に抱いた。
もう、震えは止まっていた。
恐怖がないわけじゃない。
外にはまだ敵がいるし、状況は絶望的だ。
でも、私には武器がある。
そして、盾となってくれる人がいる。
「隊長」
「なんだ」
「設備局長は、私の痕跡を消そうとしていました。それはつまり、私が作った『何か』が残っていると不味いからです」
私の頭脳(回路)が、カチリカチリと回転を始める。
絶望から抜け出した反動で、思考が澄み渡っていく。
「中央制御塔。あそこには、下町中の街灯を管理するマスター回路があります。もし局長が街灯の光を強制的に消そうとするなら、必ずあそこにアクセスするはずです」
「なるほど。そこで待ち伏せ、か」
「いいえ」
私はニヤリと笑った。
職人としての、攻撃的な笑みが浮かんだ気がした。
「向こうが壊しに来るなら、先に直してやるんです。絶対に壊れない、最強の光を」
ダリウスもまた、不敵な笑みを返した。
琥珀色の瞳が、戦意に燃えている。
「いい顔だ。……行くぞ、リディア。反撃開始だ」
隠れ家の扉を開ける。
外はまだ雨だ。
けれど、今の私には、その向こうにある夜明けの光が見えるような気がした。
私の手には、彼がくれた銀色の希望が握られているのだから。




