第7話 不正の露見と、迫る魔手
雨の音が激しくなってきた。
屋根を叩く雨粒が、まるで何かの足音のように聞こえて、私はふと手を止めた。
深夜二時。
夜警隊の詰め所にある資材倉庫──私の工房は、静まり返っている。
ここにあるのは、機械油の匂いと、雨音だけ。
「……落ち着かない」
私は小さく呟き、ドライバーを握り直した。
今夜、ダリウスは不在だ。
なんでも、魔法省の不正を暴くための重要な会議があるらしい。
『君は部屋から出るな。鍵をかけてじっとしていろ』と厳命されていた。
言いつけ通り鍵はかけた。
でも、じっとしてなんていられない。
不安なのだ。
あの嫌味な役人の捨て台詞が、耳にこびりついて離れない。
気を紛らわせるために、私は目の前の通信機に向き直った。
これはダリウスが使う予定の最新型だ。
少しでも性能を上げて、彼の役に立ちたい。
カチャ、カチャ。
ネジを回す音だけが、私の心を鎮めてくれる。
その時だった。
ドォォン!!
雷のような音がして、建物が揺れた。
違う。雷じゃない。
入り口の鉄扉が、何か強い衝撃を受けた音だ。
「な、なに……?」
私は椅子から立ち上がった。
心臓が早鐘を打つ。
ここは夜警隊の敷地内だ。
外部の人間が入れるはずがない。
ガガンッ! メリメリッ!
再び衝撃音。
そして、金属が引き裂かれる嫌な音が響いた。
鍵が壊された。
足音が聞こえる。
一つじゃない。複数だ。
濡れた靴が床を叩く、乱暴な足音。
「おい、ここか? 例の修理屋がいるのは」
「ああ。局長の命令だ。機材ごと『掃除』しろ」
知らない男たちの声。
低く、殺気に満ちている。
「掃除」。その言葉の意味を理解した瞬間、全身の血が凍りついた。
殺される。
私を消しに来たんだ。
逃げなきゃ。
でも、入り口は彼らに塞がれている。
私は震える足で後ずさり、作業台の陰に身を潜めた。
倉庫の奥、棚の裏にダリウスが教えてくれた隠し扉がある。
そこまで行けば、地下水路へ抜けられる。
距離にして十メートル。
でも、その十メートルが絶望的に遠い。
「誰もいねえぞ? 逃げたか?」
「まだ湯気が残ってる。近くにいるはずだ。探せ!」
懐中電灯の魔導光が、倉庫内を乱暴に照らし出す。
光の筋が、私の隠れている作業台のすぐ横を掠めた。
「チッ、面倒なガラクタばかりだ。……おい、全部壊せ。修理屋の痕跡を残すな」
「了解」
ガシャーン!
ガラスの割れる音が響いた。
私が昨日直したばかりの測定器だ。
やめて。
心の中で叫ぶ。
バキッ! ドカッ!
男たちが、手当たり次第に棚を蹴り倒し、機材をハンマーで叩き壊していく。
『痛い! 痛いよ!』
『なんで、なんで殴るの』
『助けて、リディア、助けて!』
機械たちの悲鳴が、頭の中に直接流れ込んでくる。
やめて。お願いだからやめて。
それはゴミじゃない。
隊員たちが命を預ける大切な相棒なの。
耳を塞ぎたくなるような惨劇。
けれど、動けば見つかる。
私は息を殺し、涙を堪えて這い進んだ。
少しずつ、少しずつ、隠し扉の方へ。
その時、一人の男が私の作業台の前に立った。
「ん? なんだこの汚い工具箱は」
男が持ち上げたのは、私の工具箱だった。
実家から唯一持ち出した、祖父の形見。
私の命そのもの。
「大事そうに置いてあるな。……ここか?」
男はニヤリと笑うと、工具箱を高く掲げ、
そのまま床に叩きつけた。
ガシャァァァン!!
中身がぶちまけられる音がした。
そして、男は鉄底のブーツで、散らばった工具を踏みつけた。
パキン。
乾いた音がした。
私が一番大切にしていた、オリハルコン製の精密ドライバーが折れた音だった。
「──ッ!」
声にならない悲鳴が喉の奥で張り付いた。
私の指先が、自分の身を切られたように痛んだ。
お爺様のドライバー。
どんな硬いネジも、優しく回してくれた魔法の杖。
それが、折られた。
私の心が、音を立てて砕けた。
「おい、あそこの木箱! 誰かいるぞ!」
男の声。
見つかった。
殺意の籠もった視線が、私を捉える。
逃げなきゃ。
もう、工具を拾っている時間はない。
私は弾かれたように立ち上がり、棚の裏へと走った。
背後で怒号が飛ぶ。
「逃がすな!」「撃て!」
パシュッ、と魔導銃の発射音がして、頬の横を熱い塊が掠めた。
髪が数本、焼き切れる匂いがする。
私は隠し扉に体当たりした。
錆び付いた蝶番が悲鳴を上げ、狭い闇の口を開ける。
滑り込むように中に入り、内側からかんぬきをかけた。
ドンドンドン!
扉を叩く音と、男たちの罵声。
私は震える膝を叱咤して、暗い地下通路を走った。
涙で前が見えない。
頬を伝うのは、恐怖の涙か、悔しさの涙か、自分でも分からなかった。
◇
地下水路を抜け、下町の裏路地に出た頃には、私は泥と雨でずぶ濡れになっていた。
寒い。
吐く息が白い。
私は路地裏のゴミ捨て場にうずくまり、膝を抱えた。
工房が壊された。
道具も、機材も、全部。
私の居場所が、また奪われた。
(……なんで)
私はただ、直したかっただけなのに。
役に立ちたかっただけなのに。
実家では「無能」だから捨てられた。
ここでは「有能」だから狙われた。
結局、私はどこにもいてはいけない人間なのだろうか。
右手の指先を見る。
いつも握っていたドライバーの感触がない。
空っぽの手。
道具のない私は、ただの無力な小娘だ。
ダリウスは「守る」と言ってくれた。
でも、私がいるせいで、彼まで危険に晒している。
夜警隊の詰め所があんな風に襲われるなんて、私のせいだ。
「……もう、嫌だ」
ポツリと漏れた言葉は、雨音にかき消された。
誰もいない。
街灯のない路地裏は真っ暗で、影魔の気配が濃厚に漂っている。
でも、怖くなかった。
今の私には、影魔に食われる恐怖より、自分の存在が誰かを不幸にする恐怖の方がずっと大きかったから。
私は立ち上がった。
ここにはいられない。
ダリウスに会いたいけれど、会えばきっとまた迷惑をかける。
私は、街を出よう。
誰も知らない、もっと遠くへ。
機械の声が聞こえない場所へ。
そう決めて、一歩を踏み出した時だった。
「──どこへ行くつもりだ、リディア」
雨音を切り裂く、強く、低い声。
ビクリと肩が震えた。
ゆっくりと振り返る。
路地の入り口に、一人の男が立っていた。
肩で息をしている。
雨に濡れた黒髪が顔に張り付き、その琥珀色の瞳だけが、暗闇の中で獣のように鋭く光っていた。
ダリウスだ。
どうして、ここが分かったの。
「来ないで……!」
私は後ずさった。
彼を巻き込みたくない。
「私に関わらないで! 私のせいで、工房も、貴方の大切な場所も……!」
「そんなものは、また作ればいい!」
ダリウスが叫んだ。
普段の冷静な彼からは想像もできない、激情の声。
「道具も、建物も、代わりはある! だが……お前の代わりはいないんだ!」
彼は駆け寄り、泥だらけの私の腕を掴んだ。
強い力。
痛いほどに、生々しい力。
「行くな。俺の前から、勝手に消えるな」
その声は、命令というより、懇願に聞こえた。
雨が二人の間を冷たく降り注ぐ。
けれど、掴まれた腕の熱だけが、私をこの世界に繋ぎ止めていた。




