第2話 煤まみれの幽霊、夜を歩く
下町での生活は、思いのほか忙しい。
朝起きて、堅いパンをかじりながら図面を引き、昼間はジャンク屋へ買い出しに行く。
そして夜は、また別の「仕事」がある。
私は作業用ツナギのポケットに、小型のレンチと銅線をねじ込んだ。
鏡に映る自分を見る。
灰色のフードを目深に被り、顔にはわざと煤を塗っている。
これなら、誰も元公爵令嬢だとは思うまい。
ただの、小汚い下町の浮浪者だ。
「……行こう」
私は廃工場の重い扉を、音を立てないように押し開けた。
時刻は深夜二時。
街は死んだように静まり返っている。
霧が濃い。
湿った空気が肌に張り付き、遠くで野犬の遠吠えが聞こえる。
普通なら、こんな時間に出歩くのは自殺行為だ。
影魔が出る。
けれど、私には聞こえてしまうのだ。
『寒い、寒いよぉ』
『ここが切れてるの、誰か繋いで』
『もう消えちゃう、消えたくない』
風に乗って、機械たちの悲鳴が届く。
私の「機構共感」は、静かな夜ほど感度が上がるらしい。
助けを求める声を無視して布団に潜り込むなんて、私にはできない。
私は足音を忍ばせて、路地裏へと滑り込んだ。
◇
三番街の角にある古道具屋の前。
そこに、一本の街灯が立っていた。
今は消灯しているが、内部からは「助けて」という信号が微弱に出続けている。
私は周囲を見回した。
人影はない。
住民たちは皆、雨戸を閉めて息を潜めている。
よし。
私は街灯の柱によじ登った。
ドレスを着ていた頃には絶対にできなかった動きだが、今の身軽な格好なら簡単だ。
高さ三メートルほどの位置にある点検ハッチにしがみつき、ドライバーでネジを回す。
カチャリ、とハッチが開く。
「……ひどいな」
中は蜘蛛の巣だらけで、魔力伝達用の銀線が腐食して千切れていた。
これでは魔力が届かず、光るはずがない。
管理担当者は何をしているのだろう。
予算がないという噂は聞くけれど、メンテナンスくらいできるはずだ。
『お腹すいた……力が来ないよ』
基板からの訴えが、指先を通して脳に響く。
「すぐ直すからね」
私は口にくわえていた予備の銀線を取り出し、素早く配線作業に入った。
腐食した部分を切除し、新しい線をブリッジさせる。
ただ繋ぐだけじゃない。
この街灯の癖に合わせて、抵抗が最小になるようにねじる。
魔力がない私は、燃料を注いであげることはできない。
でも、僅かに残った「残りカス」のような残留魔力を、効率よく循環させることはできる。
一滴の水も漏らさないように、回路を完璧に密閉するイメージ。
指先が熱を持つ。
私の神経が、機械の回路と同化していく感覚。
ここだ。このリズム。
カチッ。
最後の接続を終えた瞬間、街灯が息を吹き返した。
ジジ……ブォン!
頭上のガラスの中で、光が爆ぜた。
先週直したものよりも、少し青みがかった白い光。
それが同心円状に広がり、路地裏の闇を払い除ける。
『あったかい! 見える、見えるよ!』
機械の歓喜の声が聞こえる。
私も自然と口元が緩んだ。
何度やっても、この瞬間が一番好きだ。
その時だった。
「おい、あそこの灯りが点いたぞ!」
通りの向こうから、太い声が聞こえた。
複数の足音がこちらへ走ってくる。
ガチャガチャという金属音。鎧の音だ。
(夜警隊……!)
心臓が跳ね上がった。
まずい。
公共の設備を勝手にいじっている現場を見られたら、言い逃れできない。
「直しました」と言って信じてもらえる身なりではないし、そもそも無許可の修理は違法だ。
私は慌てて柱から飛び降りた。
着地の衝撃を膝で殺し、すぐさま脇の細い路地へと駆け込む。
ゴミ箱の陰に身を潜め、息を殺した。
数秒後、三人の男たちが街灯の下へ駆けつけてきた。
黒いロングコートに、胸には剣の紋章。
間違いなく、王都騎士団の夜警部隊だ。
「誰もいないか?」
「さっきまで人影が見えたんですが……」
「逃げ足が速いな。例の『煤まみれの幽霊』か?」
……幽霊?
思わず自分の手を見る。
確かに煤まみれだけれど、生きた人間だ。失礼な噂が立っているらしい。
「しかし、見てください隊長代理。この光量」
若い隊員が、眩しそうに街灯を見上げている。
「通常の倍……いや、三倍は明るいですよ。しかも、見てください。光の範囲が異常に広い」
「ああ。まるで結界石を新品に替えたみたいだ。ただ修理しただけで、こんな芸当ができるのか?」
年配の隊員が首をひねっている。
私は暗がりの中で、少しだけ胸を張った。
新品に替える予算なんてないから、回路のロスを極限まで減らしたのだ。
私の技術なら、古い魔導具でも新品以上の性能を引き出せる。
「グルルル……ッ」
突然、低い唸り声が響いた。
空気が一変する。
夜警隊員たちが一斉に剣を抜いた。
「影魔だ! 三時の方向!」
通りの闇の中から、黒い靄のような塊が飛び出してきた。
狼の形をしているが、輪郭が曖昧で、赤い目だけがギラギラと光っている。
二匹、三匹……いや、もっといる。
「くそっ、囲まれたぞ!」
「背中を合わせろ! 灯りの下から出るな!」
彼らは街灯の光の円の中に固まった。
影魔たちが一斉に襲いかかる。
鋭い爪が空を裂く。
けれど──。
ジュウウッ!
影魔の爪が光の結界に触れた瞬間、肉が焦げるような音を立てて弾かれた。
「ギャウッ!?」
影魔たちが悲鳴を上げて後退する。
ただの照明なら、多少の嫌悪感を与える程度のはずだ。
物理的なダメージを与えるほどの出力なんて、普通の街灯にはない。
「な、なんだこれ……?」
「光が、壁になってるのか?」
隊員たちが呆気にとられている。
私も驚いていた。
ここまで効果があるとは思っていなかった。
私が「最適化」した回路は、魔力の純度を高める効果もある。
それが、光りが苦手な影魔に効いているのかもしれない。
「好機だ! 怯んでいる隙に叩け!」
年配の隊員が叫ぶ。
彼らは光の円の中から、魔導剣で影魔を切り裂いていく。
光に焼かれて動きの鈍った影魔は、訓練された騎士たちの敵ではなかった。
数分のうちに、黒い靄は霧散して消え去った。
「……助かった」
「あの数、本来なら無傷じゃ済まなかったですよ」
若い隊員が、へたり込みそうになりながら剣を納める。
そして、再び頭上の街灯を見上げた。
「この灯りを直した奴、何者なんですかね」
「分からん。だが、味方であることは確かだ」
「もし捕まえたら、礼を言うどころか、泣いて感謝しますよ俺は」
その言葉が、私の耳にスッと入ってきた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
味方。
感謝。
今まで、そんな言葉を向けられたことはなかった。
「無能」「役立たず」「家の恥」。
浴びせられてきたのは、そんな言葉ばかりだったから。
(私……役に、立ったんだ)
自分の手が震えているのに気づいた。
恐怖からじゃない。
初めて知る、昂揚感。
「よし、巡回に戻るぞ。……いや待て、その前にもう一度周辺を探せ。修理屋が近くにいるかもしれん」
「了解!」
ハッとして我に返る。
感傷に浸っている場合じゃない。
感謝するとは言っていたけれど、見つかれば尋問されるのは確実だ。
身元がバレれば、実家の公爵家に連絡が行くかもしれない。
それだけは避けなければ。
私は音もなく後ずさりし、路地の奥へと姿を消した。
◇
廃工場に戻ったのは、空が白み始めた頃だった。
どっと疲れが出て、私はそのまま万年床に倒れ込んだ。
天井を見上げる。
雨漏りの染みが広がっている、汚い天井。
けれど、心は不思議と軽かった。
目を閉じると、あの青白い光と、若い騎士の安堵した顔が浮かぶ。
「……明日も、行こうかな」
独り言が、誰もいない部屋に吸い込まれる。
まだ直していない街灯は山ほどある。
それに、工具のパーツも足りない。
明日はジャンク屋の親父に掛け合って、もう少しマシなニッパーを手に入れないと。
私は泥のように眠りに落ちた。
自分の噂が、夜警隊長の耳にまで届き始めていることなど、知る由もなく。
「……そうか。昨夜も現れたか」
執務室で報告を受けた男──ダリウス・ヴァイデルは、窓の外の下町を見下ろしながら、興味深そうに目を細めた。
「煤まみれの幽霊、か。……一度、会ってみたいものだな」




