62 よこしまな陛下
「アンリ陛下?」
俺はもう、いっぱいいっぱいだった。遮るように口を開いたのは、ヴァーツァだ。
「もういいじゃないか。シグ、君は、傷は治っても、出血で疲れているはずだ。屋敷へ帰ろう」
「僕を見くびってもらったら困るね。造血もちゃんとしておいた。この上もなくきれいで働き者の血を足しておいたよ。シグモントは、今まで以上に健康なはずだ」
むっとしたようにバタイユが言い返す。
「いいよ、シグモント。本当のことを教えてあげる。アンリ陛下は、兄さんに、邪な気持ちを抱いている。それはもう、ずっと。子どもの頃から」
陛下とヴァーツァは、幼友達で学友だった。その陛下がヴァーツァに邪な感情を?
「僕は、兄さんをアンリ殿下の魔の手から守る必要を感じた。だから、兄さんが召喚したゾンビの一人に魔法をかけ、兄さんを襲わせた」
陛下のヴァーツァへの想いは、俺も何となく感じている。ただし、邪だとは思わない。あれはあれで、陛下の愛だと思っている。けれど、バタイユは邪だという。
「でも、だからって……ヴァーツァは実の兄だろう? 君は兄上であるヴァーツァを、誰よりも愛しているはずだ。そのヴァーツァを、彼が使役しているゾンビを使って襲わせるとか、」
「技術的には可能だ。バタイユは俺より魔力が上だから」
静かにヴァーツァが言う。
いや、そういうことじゃない。
「貴方はそれでいいの?」
思わず叫ぶ。
「死んでしまったかもしれないんだよ?」
「死にはしないさ」
にたりと笑ったのは、弟のバタイユだ。
「僕には自信があったからね。必ず治癒させるっていう、絶大な自信が。それは、今回も同じさ。現に兄さんの怪我は完治したし、シグモント、君なんて、前より元気なくらいだ」
「……」
ぐっと言葉に詰まった。さらにバタイユが言い募る。
「何より大切なことは、兄さんをアンリ陛下から引き離すことだ。だから僕は、兄さんを入れた保養箱をあの辺鄙な村の礼拝堂に隠し、結界を張った」
なんてことだ。
陛下は決して、ヴァーツァのことを置き去りにしたわけでも、忘れたわけでもなかったのだ。
傷ついたヴァーツァの体は、バタイユの魔力の下に覆い隠されていた。陛下がヴァーツァの居場所を気に掛けなったのは、そう仕向けられていたから。
「それなのに、兄さんは、治療の途中で目を覚ましてしまった。シグモント。君のキスで」
「その話はもういいから!」
俺は真っ赤になった。
「それに僕がキスしたのは、ガラスの柩で、ヴァーツァ自身ではないよ」
「同じことだ」
憮然としてバタイユが答える。
「それだけじゃない。僕は期間限定の薬草を探しに、大フクロウの背中に乗って旅に出、兄さんは夏の別荘に残った。僕は君に兄さんの世話を任せたよね、シグモント。それなのに、兄さんをアンリ陛下に会わせるなんて、あんまりじゃないか。しばらく会っていなかったせいか、陛下の兄さんへの執着は前にも増して増大し、僕は再び、兄さんを隔離しなくちゃならなくなった」
「……だから、再びゾンビに襲わせたと?」
「怪我をしたのは君だったけどね。余計なことをするからだ、シグモント・ボルティネ」
バタイユの手には、剣が握られていた。




