40 両肩にかけられた手
部屋の鍵を開けていると、飛びついてきた者がいる。
「シグモント! 帰ってきたんだね。よかった!」
大家さんの孫だ。
「ただいま、シュテファン。まだ起きていたの?」
彼は、俺とそう年齢が変わらない。
「年寄り扱いするなよ? そうそう早寝してたまるか。夜はいつも、君のことを思って遅くまで起きているのだ」
そう言ってシュテファンは胸を張った。要するに、夜更かしの言い訳だ。大家の婆さんは、ランプの油代がもったいないから、孫の夜更かしをひどく嫌っている。
「そんなことより、シグモント、無事でよかった。今まで一体どこへ行ってたんだい?」
「ちょっと仕事」
嘘ではない。俺は除霊の仕事でエシェク村へ行って、それから……。
シュテファンが俺の背後に目を走らせた。そこには、隠隠滅滅とした気配を漂わせ、トラドが立っている。
シュテファンは俺の耳に口を寄せた。
「彼は誰だい? 随分陰気な人だね。陰気っていうより、もういっそ化け物じみているというか……」
「怖がらせてしまってすみません」
内緒話のつもりがしっかり聞かれてしまい、シュテファンは飛び上がった。
「この人は、トラドさん。僕をここまで送ってきてくれたんだ」
俺が紹介すると、暗く陰気にトラドは頭を下げた。
「それでは私はここで」
馬車に戻ろうとする。
「いやいや。もう夜遅いでしょ。泊まっていきなさいよ。空いてる部屋を用意するから」
お人よしのシュテファンが引き留めた。
「いえ、私は夜の移動の方が楽なのです」
「けれど、王都は治安が悪くなってますよ。賊や盗っ人にでも襲われたら大変だ」
「平気です。返り討ちにしますから」
無表情でトラドが言い、シュテファンはたじたじと後じさった。
トラドが送ってくれると言った時、正直、怖かった。彼は、俺がヴァーツァに捨てられた事実をまだ知らないだけかもしれない。何かの拍子に、もし気づいてしまったら……俺は、トラドに襲われ、吸血鬼にされてしまう。
彼と同じ馬車に乗せられ、道中、気が気ではなかった。けれどトラドは、一度も襲いかかろうとはしなかった。それどころか礼儀正しく御者台に座っていて、客車の方には全く顔を出さなかった。
今も、俺を長屋に送り届けるや、即座に屋敷へ戻ろうとしている。
「シュテファン! シュテファン!」
母屋から大家さんの呼ぶ声が聞こえた。
「ちっ」
シュテファンが舌打ちをする。
「つもる話もあったのに。今夜は君を寝かさないつもりだったんだ」
「俺なんかどうでもいいよ。大家さんのところへ行ってやれよ」
ふん、とシュテファンは鼻を鳴らした。
「じいちゃんには、明日の朝、君が返ってきたことを伝えるよ。喜びのあまり血圧が上がったら大変だからね」
「シュテファン!」
「今行くよ、おじいちゃん!」
急ぎ足で、シュテファンは、母屋に入っていく。
彼がいなくなったのを見計らって、俺は御者台に近づいた。
「トラド。君は俺を吸血鬼にするんじゃなかったの?」
小声で尋ねる。
「ええ、その時が参りましたなら」
御者台から、トラドの気の滅入るような暗い声が降ってくる。
「今が、その時なのでは?」
彼だって薄々勘づいていると思う。俺がヴァーツァに捨てられた事実を。御者台に座り続けて、客車に顔を出さなかったのが何よりの証拠だ。彼は優しいから、悲しみに暮れる俺をそっとしておいてくれたに違いない。
憂鬱そうな声が返ってきた。
「何をおっしゃいますやら。シグモント様は依然、ご主人様のものでいらっしゃいます。トラドには、貴方様の両肩に、ご主人様の手が掛かっているのが見えます」
「怖っ!」
思わず自分の両肩を確認してしまった。もちろんそこに、ヴァーツァの手なんかない。
というか、ヴァーツァは俺を追い払った。それはもう、完全に。そもそも二人の間には何もなかったのだけれど。
けど、それは何の慰めにもならない。
「比喩でございます。私は、強引に貴方を仲間に引きずり込んで、ご主人様の不興を買いたくありません。そんな恐ろしいこと……ゾンビ共にも叱られます」
ゾンビというのは、カルダンヌ家の使用人たちのことだ。
「彼らが平和に暮らせるのは、貴方様がいらっしゃるからこそ。カルダンヌ公爵の御心を鎮めるのは、シグモント様にしかできません。それなのに、公爵様の手から貴方を奪い取るなど、一介の吸血鬼にできるわけがありません」
謎のような言葉を残すと、トラドは馬に鞭を宛てた。
「それでは、また。いずれ私と同じ命を生きられますよう、どうか神にお祈りを捧げておいてください」
「神だって?」
なぜここに神が? というか、吸血鬼が神に祈れ、だって?
「わたくしが祈ると嫌がられますから」
「君は、他力本願の権化だね」
俺の皮肉が聞こえたかどうか。不意に、トラドがみじろぎをした。
「そうだ。さっきの彼に、気をつけてあげてください」
「さっきの彼? シュテファンのこと?」
「はい。それと、もう一方、王都警備軍の詰め所にいらっしゃる方にも」
誰だそれは? もしかして、ジョアン?
「それ、どういう……」
俺の言葉はトラドには届かなかったようだ。彼を乗せた馬車は、あっという間に、夜の闇に紛れて行った。




