38 ボートに乗ろう
ここは、海に浮かぶ小島だ。すぐ近くに半島があり、そこまではボートで渡る。
ボートは苦手だけど、オールもあるし、なんとかなるだろう。幸い今日は、海も静かだ。
若干の不安がないわけではなかったが、それ以上に、ヴァーツァの投げつけた言葉の衝撃の方が大きかった。俺を許せないと言った。即刻立ち去れと命じた。そして、あの殺気。
ヴァーツァは平気で俺を殺すだろう。彼は、アンリ陛下と自分の間の友情が何より大切なのだ。
……それは本当に友情なのだろうか。ヴァーツァが陛下を思う気持ちは。
心の底から湧き上がってきた声に、首を横に振った。
俺には関係のないことだ。
可哀そうなヴァーツァ。君が思うほど、陛下は君との友情を大切にしていない。君を戦場に置き去りにして、忘れてしまった。それどころか、俺の推測が正しければ、陛下は君を殺そうとした……。
「わたくしが同行いたします。シグモント様のご自宅まで、確実にお送りいたします」
部屋で荷造りをしていると、耳元で声がした。
「トラドさん?」
けれど姿が見えない。
「はい、トラドでございます。ただいまはまだ、陽の光が残ってございます。私は姿を現すことができません」
そうだった。トラドは吸血鬼だ。太陽の光が苦手だ。
「いや、それには及びません」
トラドは、俺を吸血鬼に仕立て上げようと狙っている。今まではヴァーツァの保護があったけど、彼の元を離れたら、俺はトラドの意のままだ。
「ご遠慮なく。貴方を安全にお送りせよとは、ご主人様の命令なのです」
「ヴァーツァの?」
意外だった。まだ少しは俺のことを心配してくれているのか。
「貴方はカルダンヌ公爵家の客人ですから」
膨らんだ希望がみるみるしぼんでいくのを感じる。何を期待していたのか。最初から最後まで、俺はヴァーツァの客に過ぎない。
「いや、結構だよ。俺は一人で帰るから」
吸血鬼に送ってもらうより、一人で帰る方が安全だと思う。送られた自宅でがぶりと噛みつかれ、仲間入りさせられたら困る。
「そういうわけには参りません。ご承知の通り、私はカルダンヌ公爵様の御命令に背くことができませんので。ご自宅まで、お送り致します」
「俺はまだ彼の客人だということは、つまり……」
言いよどむ。なんとなく、嚙みついたりしないよね? と問い質すことは失礼に思えたのだ。
優秀な執事は、俺の言いたいことを的確に捉えた。
「さようでございます。ですので、大変残念でございますが、私は、貴方様に手を出すことができません」
トラドは不満そうに眉を吊り上げているが、俺は心の底からほっとした。
「うん。ならいいんだ。それなら、お願いしようかな」
正直に言えば、陸地に辿り着けるか、不安だったのだ。以前、公園の貸しボートに乗ったのだが、俺は、ろくにオールを操ることができなかった。どうしても行きたい方向へ行けなかったのだ。ボートの返却時間が迫ってきて、途中から、ジョアンが代わって漕いだ。
「つきましては、シグモント様。太陽が空にある時間、私は表へ出ることが叶いません。けれど、ご安心なさいませ。船に柩が積んでございます。私の本体はその中に納まっています」
「柩を持って行くの!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。いろいろと常識外れ過ぎる。
「はい。柩には、私の墓の土が詰められておりますゆえ」
「トラドさん、お墓あったの?」
もう何が出て来るか、予想もつかない。
「昔、人間だった私が死んだ時に造られた墓でございます。我々吸血鬼は、自分の墓の砂を詰めた柩にいると、パワーが回復するのでございます」
「なるほど」
そうね。トラドさんだって、誰かに血を吸われて吸血鬼になったんだもんね。
「それではシグモント様。また、後ほど」
すうーっと、トラドの気配は消えた。




