33 見果てぬ夢
その晩のことだ。
なんとかヴァーツァをベッドに押し込み、自室に戻ると、黒い影が揺らいでいた。
「シグモント・ボルティネ様」
「トラド! 久しぶりだね!」
吸血鬼のトラドだった。
夜中に活動する彼とは、滅多に顔を合わせることがない。以前は、獲物を仕留めてきた彼と話すこともあったが、この頃、狩りには、あのケビンという使用人が行っているようだ。
もちろんケビンには、あれから弓を射掛けられたことなどない。俺を見かけると、帽子を取って挨拶してくれる。
トラドは、夜行性の獣ばかり仕留めて来たが、昼間狩りをするケビンは、ウズラやキジなどの鳥を多く仕留めて来た。鳥は、獣より消化がいいような気がする。
「貴方にお願いがあってまいりました」
恭しい口調でトラドが言う。
「お願い? なんでも言ってよ」
使用人たちが地下にいた間、トラドには世話になった。
「どうか、ご主人様のそばにいて差し上げて下さい」
「……は?」
唖然とした。
「シグモント様がいらしてからというもの、館の使用人たちは、安心して過ごすことができます。失敗をしても斬り付けられることがなくなりましたゆえ」
「………………」
ゾンビに人格がない、なんてのは嘘じゃないか。力いっぱい、俺は思った。彼らは、横暴なヴァーツァを恐れていた。
人格というのが言い過ぎでも、切られるのはいや、斬首は怖い、という感情の切れ端のようなものはあるのだ。
「シグモント様のおかげで、屋敷の中の雰囲気はとてもよくなっております。ゾンビ共も不必要に怯えるのは止め、各自の仕事に邁進できるようになりました。ひとえに、貴方様のおかげでございます」
「それは、使用人のみなさんがそうおっしゃっているのですか?」
トラドは吸血鬼だ。ゾンビの気持ちなどわからないかもしれない。以前と比べ、使用人たちが安心して過ごしているというのは、彼の推測に過ぎないのかもしれないと思い、聞いてみた。
「さようにございます。特にメイドのキャサリンは、シグモント様に心酔しております。あまりに心酔しているので、ご主人様のお怒りを買ったらいけないと思い、わたくしから叱りつけておきました」
「……はあ」
キャサリン……いつもお茶を持ってきてくれるあの女の子だな。断っても、毎回、着替えを手伝おうとするあの子だ。
「斬首を免れたケビンも、貴方様の為なら身命を捧げると申しております」
それはどうだろう。身はともかく、命って……。
「お気づきになりましたか? |ヴァーツァ・カルダンヌ公《ご主人様》におかれましては、この頃、とても朗らかであられます。これは、未だかつてなかったことです。お館を覆っていた恐怖の雲は晴れ、ゾンビ共は、この上もなく晴れやかな気持ちで毎日を送っております。これすべて、シグモント様、貴方様のお陰でございます」
「いや、俺はなにもしていないよ?」
「ご主人様のおそばにいらっしゃるだけでよろしいのです。貴方様はご主人様の鎮静剤、夢、希望……」
そこでトラドは言葉に詰まった。
「失礼致しました。吸血鬼の身では、明るく前向きな言葉を探すのが苦手なのでございます。鎮静剤というのは、明るい言葉でございますか?」
「う、うん、多分」
俺がヴァーツァの鎮静剤というのは解せないが、トラドの言いたいことはわかった気がする。もちろん、過大評価であることに違いはないけど。
「でも、ずっとここにいることはできないよ。俺の家は別にある」
「そこは、貴方様にとって居心地のいい場所でございますか?」
トラドに言われ、はっとした。
それだけ、今の俺にとって、この館は居心地のいい場所になっていた。
荒れ狂う海の真ん中にある、孤島、そこにそびえるこの屋敷が。
ヴァーツァのいる、この館……。
「失礼致しました、言い過ぎましてございます。貴方様のお屋敷は、きっと素晴らしいに違いありません。ですが、」
ここでトラドはにたりと笑った。
「シグモント様がご主人様を離れられるその時には、必ず、このトラドが貴方様の元を訪れます。わたくしは、その日をとても楽しみにしております」
「トラドさん。それは、どういう……」
「貴方はわたくしの一族となるのでございます。わたくしとともに、暗黒の世界を生きてまいりましょう」
トラドの口からは、鋭い犬歯が覗いている。
え? 今俺、吸血鬼から勧誘された?
「いや、それ、ちょっとご辞退申し上げたいというか……」
婉曲に断るにはどうしたらいいんだ?
トラドはしつこかった。
「わたくしが決めました。貴方様に選択権はございません。ご主人様のものでなければ、シグモント様はわたくしのものです」
そんな。
ヴァーツァは、簡単に俺を手放すと思う。そもそも二人の間には何も起こっていないのだし。
そしたら俺、吸血鬼になっちゃうの?
ふうっと、深いため息が、トラドの口から洩れた。
「見果てぬ夢を語ってしまいました。申し訳ございません。ですが、ご安心なさいませ。ヴァーツァ様は決して、貴方様をお放しになりはなさいませぬゆえ」
謎のような言葉を残し、トラドの姿は消えた。




