22 穏やかな療養生活
この分では、すぐに缶詰では物足りなくなるだろう。どうしようか。
周囲は海だ。海には魚がいっぱいいるだろう。しかし、小舟はあるけど、俺は釣りをしたことがない。釣ったとして、どうやって針から外すのかな?
悩んでいたが、杞憂だった。
ある朝、調理台の上に肉の塊がでんと置いてあった。
ドアから、こそこそと、足音を忍ばせ、出ていこうとする黒い影がいた。
「トラド!」
呼び止めた。
「シグモント・ボルティネ様」
恭しく立ち止り、片手を胸に宛てた丁寧な礼を返してくる。彼に対する恐怖は全く残っていない。ヴァーツァが怒りすぎたせいだ。
「君が持ってきてくれたの? このお肉」
尋ねると、トラドの青白い顔が、一層青くなった。後で気がついたことだが、普通の人間なら赤くなるところを、吸血鬼は青くなるようだ。
「鹿肉にございます」
「すごいね、これ」
「シグモント様が肉を所望されていたと承りましたものですから」
承った? そういえば、台所には常にメルルがうろうろしている。彼の眷属も頻繁に出入りしていた。メルルか彼の眷属から、俺が新鮮な肉を欲しがっていると聞いたに違いない。
「いや、俺じゃなくてカルダンヌ公爵がね、」
「わかっております。その肉は、貴方様のお手を煩わせることのないよう、下処理をしてございます」
よく見ると、さすがは吸血鬼、完璧に血抜きしてある。
「ありがとう、トラド」
トラドの顔が、もう一ランク、青くなった。
「御所望でしたら、抜いた血も残してございます」
「いや、それは君が飲むといいよ」
即座に辞退する。それとも、ソーセージを造るといいのかな? ブラッド・ソーセージとか。俺には無理そう……。
「シグモント様の為に、いかような肉でも獲ってまいります」
トラドの鼻息は荒い。
「いや、そんなにたくさんはいらないよ。でも、血を抜いてくれたのは助かった。ありがとう」
トラドの顔が一段と青くなる。
「あなた様はわたくしの命を助けて下さいました。恐ろしい主人のカルダンヌ公爵から。この御恩、一生、忘れません」
そうだよな。危うく「消」されるところだったもんな。
でも、一生? 吸血鬼の一生って……なんだか凄く長そうな気がする。
「いいよ。そんなこと気にしなくても」
慌てて釘を刺す。
トラドの顔が青黒くなった。もはや死人だ。人としては既に死んでるけど。
「朝日が昇ってまいりました。これにて失礼させて頂きます」
「あ、血抜きをしていて遅くなっちゃったんだね。ごめんね。早く棺桶に帰って休みなね」
恭しく一礼し、音もなく影のように彼の姿は消えた。
◇
けれど肉ばかりではなあ。快方期の怪我人には、バランスの良い食事を採らせたい。
幸いなことに、内庭には野菜畑があった。寝室から抜け出したヴァーツァを探していて見つけた。(ヴァーツァはすぐに見つかり、問答無用で連れ戻した)
やはり、人手不足の影響だろう。畑の手入れは行き届いていない。が、野生化した葉物野菜や根野菜がそこそこ収穫できる。
もう少ししたら、自分で種を蒔こう。
これらの素材を、俺が簡単に料理する。煮たり焼いたり、手間はかけない。かけるとしたら、魔法で時間を短縮して煮込みを造るくらいだ。煮込みは、療養中のヴァーツァの胃に優しい気がして、割とよく作る。
掃除はメルルとその眷属が、洗濯は、俺が日常魔法を使う。外回りの保全は、トラドがやってくれているらしい。夜活動する彼とは、あれから顔を合わせていない。
穏やかな時が流れていった。
寝室に閉じ込められているヴァーツァは、とにかく退屈してた。彼は、俺が本を読んであげるのを好んだ。本は、館に立派な図書館があり、いくらでも手に入る。
本当は子守唄を所望されたのだが、あまりに気恥ずかしいので却下した。
「……刷りすぎた新大陸の紙幣はだぶつき、深刻なインフレが生じた。貨幣の価値は下がり、小麦カップ一杯にバケツ5杯もの紙幣が必要とされた」
なんでこんなのを読まされているのかわからない。
「君の声が好きだ」
時々ヴァーツァは言う。
「穏やかで優しくて、……眠気を誘う」
褒められたのかけなされたのか。どうやら本の内容はどうでもいいらしかった。昨日読んだのは、ロマンス小説だった。
眠くなるのは俺も同じだ。
病人の前だからと必死でこらえているのだが、その日はどうにも眠くて困った。午前中を畑仕事に費やしたせいだろうか。
「新大陸の中産階級の実に八割が没落し、深刻な経済不況が訪れた。やがて中産階級は消滅し、新大陸は……、富裕層と……貧困層に……二分されるのみとなった」
今日はとてもいい天気だ。
暖かくて、うららかで。
日の光が本のページを踊っている。カーテンを閉めなくちゃ。でもそれには、立ち上がらなくちゃならない。椅子から腰を上げるのは、なんだかとてもおっくうだ。
……。
はっと目を覚ました。
いけない。ヴァーツァに本を読んでいて、自分が眠ってしまったようだ。
俺は、布団か何か、柔らかい寝具の上にいた。起き上がろうとしてぎょっとした。何かにしっかり抑え込まれてる? なんだこれは。新手の拘束具か?
頭がだんだんはっきりしてきた。ようやく目の前に見えていたものを認識できた。
ヴァーツァだった。
ヴァーツァ・カルダンヌの顔が、すぐ目の前にある。鼻から吐き出される息が、俺の前髪を細かく震わせた。
彼は横向きに寝ていた。そういえば、俺の知る限り、彼はいつも横向きかうつ伏せで寝ている。仰向けの寝姿は見たことがない。
衝撃的なことに、彼は裸だった。少なくとも上掛けから出ている部分は。裸で俺をがっちりと抑え込んでいる。




