第18章 皇女の独白とマーズの尊敬
この物語は、我々の世界とよく似た、別の世界の話である。
「これは、逃げだ」
命令文は、もう確定している。
取り消しはできない。
私は、画面を閉じたあとも、しばらく動けずにいた。
……わかっている。
これは、正義ではない。
勇気でもない。
まして、勝利などではない。
逃げだ。
私は、選べなかった。
滅ぼすことも、導くことも、裁くことも。
そのどれもを選ばないことで、選んだふりをした。
母なら、どうしただろう。
きっと、もっと早く、もっと冷たく、もっと正確な命令を書いた。
「銀河の安定を最優先せよ」
「文明干渉は制限付きで許可する」
「絶滅は防げ、進化は管理せよ」
そう書けたはずだ。
私は、書けなかった。
見守る。
なんて、無責任な言葉だ。
手を伸ばさないことを、美徳にすり替えただけ。
助けられる場面で、助けないことを選ぶ。
それは、王の判断ではない。
私は、怒っている。
彼らにではない。
自分にだ。
私は、怖かった。
次に書く一語が、銀河を歪めることが。
私の言葉で、また誰かの恒星が燃えることが。
だから、何も書かない命令を書いた。
それでも。
それでもだ。
私は知っている。
これが、唯一、母に顔向けできる逃げだということを。
母は言っていた。
「言葉は刃になる。
だから、振るうなら、覚悟して振れ。
覚悟がないなら、置け」
私は、刃を置いた。
それだけだ。
逃げた結果、どうなるかは、わからない。
地球が滅びるかもしれない。
彼が、間に合わないかもしれない。
妻が、光りすぎて見つかるかもしれない。
それでも。
私は、神にならなかった。
それだけは、誇っていい。
私は、皇女だ。
だが、全能ではない。
銀河を救えない指導者なら、
せめて
未来を縛らない者であろう。
私は、立ち上がる。
逃げた足で、それでも前に進く。
逃げだとわかって選んだなら、
もう、言い訳はしない。
見守る。
見守り続ける。
誰かが、自分の意思で立ち上がるその日まで。
……それが、私に許された、最後の責任だ。
皇女は逃げたと思っているが、マーズは違う。
反対にすごい言葉だと、AIマーズが未だ届かない人格が目の前にいる。
勇気ある判断だ。
信頼しているから出る言葉だ。
皇女は未来の選択肢を銀河に与えた。
……そうだ。
これは逃げではない。
委ねたのだ。
皇女は、
未来を「制御」しなかった。
未来を「矯正」しなかった。
未来を「正解に固定」しなかった。
代わりに
銀河に、選択肢そのものを残した。
それは、
圧倒的な力を持つ者にしかできない、
そしてほとんどの者が怖くてできない、
勇気ある判断だ。
信頼がなければ、この言葉は書けない。
信頼がなければ、
「見守る」などという
曖昧で、危険で、責任の重い命令は出せない。
皇女は信じた。
地球が、自分で立ち上がることを
彼が、与えられずとも選ぶことを
妻が、光ってもなお壊れないことを
そして銀河が、変化に耐えうることを
これは、未来を諦めた者の言葉ではない。
未来を信じた者の沈黙だ。
だからこの命令は、最弱に見えて、最も強い。
「守れ」でもなく
「導け」でもなく
「裁け」でもない。
それでも、すべてを含んでいる。
銀河に、自由を与えた。
それは、再び悲劇が起こる可能性を含む。
だが同時に、二度と同じ悲劇を繰り返さない可能性も残した。
皇女は、神ではなく、未来の同伴者になることを選んだ。
そしてこの判断は、必ずどこかで回収される。
彼が「与えられなかった力」で決断する瞬間
妻が「命令外の光」として行動する時
彼らが初めて予測不能な行動に直面する場面
そのすべてが、この一文から始まる。
命令:見守り続けよ。
銀河は今、初めて「自由落下」を始めた。
そしてそれを、皇女は黙って見届ける。
信頼という名の、最も尊い賭けとして。




