第01章:漂流
この物語は、我々の世界とよく似た、別の世界の話である。
ワープが終わった瞬間、宇宙は音を失った。
警報も、振動も、光の悲鳴もない。
ただ、星々が凍りついたように遠くで瞬いている。
艦内に満ちていたはずの混乱は、
真空に吸い取られたかのように消え去り、
代わりに重く、底のない沈黙が落ちてきた。
銀河帝国の民、わずか百億。
数ではない。
問題は密度だった。
銀河帝国文明が、一瞬で引き裂かれ、凝縮され、
壊れた破片としてここに漂っている。
船団は整然とは並んでいない。
大小さまざまな艦が、距離も向きもばらばらに、
暗黒の海に投げ出されていた。
ニア・エド・マク・ルードは、
旗艦の中枢制御層に立っていた。
床でも壁でもない。
情報が重なり合う、半物質・半思考の空間。
彼女の足元には座標軸が淡く光り、
頭上には船団全体の状態が無数の数式と色で示されている。
(……生体反応、安定)
マーズの冷静な思考波が流れ込む。
声はない。
言語もない。
ただ理解だけが直接、脳に届く。
(損耗率、想定以下。ただし心理指数は……未経験領域)
ニアはわずかに目を閉じた。
未経験 当然だ。
彼らは、初めて何も起きない時間を与えられていた。
恒星が燃え盛り、フレアが宇宙を引き裂き、
死が秒単位で迫っていた時、恐怖は行動を生んだ。
逃げろ、守れ、飛べ。
思考は鋭く、感情は単純だった。
だが今は違う。
敵はいない。
追撃もない。
星も、惑星も、目的地もない。
ただ、漂流。
各艦から、微弱な感情ノイズが立ち上り始めていた。
哀悼、喪失、困惑、そして 空白。
(民が、考え始めています)
マーズの報告は、警告に近かった。
(止められない?)
(不可能。思考は生命活動です)
ニアは、母の船が燃え落ちた瞬間を思い出しかけて、
すぐに切り捨てた。
今は指揮官だ。
皇女である前に、生き残った文明の重力点でなければならない。
「……静寂を、利用する」
思考が命令に変換される。
瞬時に、全船団の内部環境が調整された。
照明はわずかに落とされ、不要な情報表示は削除される。
娯楽系AIは停止され、代わりに最低限の生活リズムだけが配布された。
(敢えて、与えないのですね)
「与えすぎれば、崩れる。今は……空を知る時間だ」
民は、初めて音のない宇宙を意識した。
エンジン音も、都市のざわめきも、恒星の重力の唸りもない。
あるのは、船殻を打つ自分自身の鼓動と、遠すぎる星の光だけ。
泣く者もいた。
祈る者もいた。
何もできず、ただ壁を見つめる者もいた。
それでも、暴動は起きなかった。
なぜなら、彼らは知っていたからだ。
生きているのは、奇跡ではない。選ばれた結果だ、と。
ニアは船団の外縁に視線を向けた。
母が遺した座標。
星図に存在しない、空白の領域。
(この先に、何がある?)
マーズですら、答えを持たない。
だが、敵が追ってこない理由が、そこにある。
ニアは静かに宣言した。
「漂流は終わらせる。ここは、墓場ではない」
百億の民は、まだ知らない。
この静寂こそが、新しい銀河史の、最初の一頁であることを。




