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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水の都のアクエリーネ

作者: 榛名


水平線の向こうから太陽が顔を出し、朝焼けに街が色付く頃。

私は微睡みの中からゆっくりと目を覚ました。

打ち寄せる波の音、仄かに漂ってくるトマトの匂いが空っぽのお腹を刺激する。


「ふぁ・・・あ」


ベッドの上で上体を起こし、伸びをする。

ピンと伸ばした両腕の先、指先まで感覚がはっきりしてくるのを感じてから・・・私は勢いをつけてベッドから飛び起きた。


「今日も1日がんばるぞ、っと」


素早くパジャマを脱ぎ捨て、着替えを済ませる。

白を基調としたショートワンピースの上から、これまた白のケープを羽織る・・・これが私の仕事着だ。

ケープには青いラインが1本、これが私の階級を意味している・・・1本線は駆け出しの新人の証だけど。


「アリーゼ、ご飯出来てるわよ」

「はーい、今いきまーす」


階下から私を呼ぶ声に応えつつ、子気味よく足音を響かせながら階段を駆け下りていくと・・・

先程から漂ってきていた匂いの正体、真っ赤なスープとサラダの緑が食卓を彩っていた。


「アイネスフィアさん、おはようございます!」

「おはようアリーゼ、昨夜はよく眠れたみたいね」

「はい、もうぐっすりと・・・今日も体調万全です!」


私を出迎えたのは、私と同じようなデザインの服に身を包んだ年上の女性。

腰まで伸びた長い髪はサラサラで癖がなく、その双眸は海の色を写したかのよう。

私のとは違って、ケープには金糸で編まれたラインが神々しい輝きを放っていた・・・金色の線は最高峰の証だ。


彼女こそアクエリーネ・アイネスフィア・・・この街で知らぬ者はいない、一番の人気を誇るゴンドラの漕ぎ手。

私が憧れ目標としている人物であり・・・私の師匠でもあった。


「うふふ・・・それは頼もしいわね」


そう言って上品に微笑む姿が美しい・・・なんと言うか、絵になるってやつかな。

いつも姿勢の正しいアイネスフィアさんの綺麗な立ち姿は、ただそこに立っているだけで美しいと評判だ。

私が席に着くのを見守りながら、アイネスフィアさんは椅子を引いて腰を下ろした・・・もちろん椅子に座っても姿勢の正しさ、美しさは損なわれる事がない。


「今日もこうして頂ける命に感謝を込めて、いただきます」

「いただきます」


まるで敬虔な信徒のようにお祈りをしてから、朝食を頂く。

この街には大きな教会があって観光名所の1つになっているけど、アイネスフィアさんが通っている所は見た事はない。

もちろんお仕事の関係で呼ばれる事はあるけれど、熱心な信徒というのとは違うと思う・・・単に真面目な性格というか、育ちの良さみたいなものなんだろう。


アイネスフィアさんは朝も早起きで、いつも私が起きる頃には朝食の支度が済んでいる。

住み込みの弟子としては、師匠よりも早く起きて支度をすべきだと思うんだけど・・・アイネスフィアさんにも師匠としての拘り?があるらしく、頑として譲らなかった。


「ごちそうさまでした」


パンをスープに浸しながら、ゆっくり味わって食べるアイネスフィアさんを尻目に、私は先に食べ終えて食器を洗う。

・・・せめて後片付けくらいは私がやらないとね。

ついでに鍋や調理器具を洗い終えると、ちょうどアイネスフィアさんが食べ終わる頃だ。


「はい、食器回収しますよー」

「あら・・・いつもありがとう、助かるわ」

「それはこっちの台詞です、少しは弟子らしい事をさせてくださいよ」

「そう?・・・じゃあ・・・はやく一人前になって、私を安心させてね」

「う・・・が、がんばります・・・」


アイネスフィアさんは冗談めかして言うけれど、私自身も気にしている事なので・・・冗談には聞こえない。

彼女に弟子入りして、もうすぐ1年になるというのに・・・いつまでも駆け出しの1本線では心配にもなるだろう。

早く昇級したいけれど、その為にはまだまだ実績が足りなかった。


「アイネスフィアさんは今日もお昼からですよね、先に行ってます」

「ええ・・・いってらっしゃい」


アイネスフィアさんはとても人気があるので、指名の予約もたくさん来ていた。

でも彼女が受けるのは一日に一組だけ・・・きっと一人一人のお客様を大切にしたいという気持ちの表れだろう。

・・・単にのんびりしているだけかも知れないけれど。


それに対して、わざわざ駆け出しの私を指名するお客さんなどいようはずもなく・・・

当日駆け込みの依頼を求めて、今日も朝からゴンドラ協会本部に通うのだった。


「あ・・・アリーゼ、おはよう」

「おはようアシュリー・・・ゴンドラの依頼は・・・なさそうだね」

「あるにはあったんだけど・・・たまたま手の空いてる先輩が通りかかっちゃって・・・」

「うわぁ・・・世知辛い」


先に協会本部に居たのは小柄な少女、名前はアシュリー。

彼女は、私と同じ1本線・・・駆け出しのゴンドラ漕ぎだ。

アシュリーもまた依頼を求めて朝から協会本部に来たのだろうけど、浮かない顔を見る限り残念ながら依頼はないらしい。

彼女とは同じ階級という事もあって、こうして顔を合わせる事が多いので、すっかり顔馴染みになってしまっていた。


「別に依頼がないわけじゃあないぞ?」

「本当?!やるやる!」

「よっしゃ、じゃあ今すぐ港の第3埠頭に行ってくれ」


私達の会話が聞こえたらしく、事務員のおじさんが声を掛けてきた。

つい反射的に飛びついてしまったけど・・・隣でアシュリーが嫌そうな顔をしているのに私は気付くべきだった。


「・・・」

「おっ来たな、荷物はここに纏めてあるから、すぐに始めてくれ」



___港で私を待っていたのは、配達待ちの荷物の山。



運河の張り巡らされた水の都・・・この街では荷物を運ぶのにも小舟が使われる事が多い。

もちろんそういった荷物の運搬を仕事にしている人達もいるんだけど。

人手が足りない時などに、こうしてゴンドラ協会の方にまで仕事が回ってくる事があるのだ。


「・・・どうせそんな事だと思ったよ!」


安易に依頼を引き受けてしまった事を今更後悔しても、もう遅い。

本来ならお客さんを乗せる為のスペースに目一杯荷物を載せて、私は櫂を手に取った。


「とぉりゃああああ!」


全力で、持てる最高の速度でゴンドラを漕ぎ進める。

こんな依頼はさっさと終わらせるに限るよ。

アイネスフィアさんにしっかり基礎を叩き込まれた櫂捌きだ・・・毎日続けた練習の成果を見よ。


重い荷物をものともせず、私のゴンドラはぐんぐん加速して運河を進んでいく。

入り組んだ水路だってものともしない、通り掛かった人々が振り返るのがわかった・・・ふっふっふ、これが私の実力だぁ!


「荷物をお届けに上がりましたっ!」


送り先に辿り着くと、そこは大きな商店だった・・・きっと仕入れ待ちの商品なんだろう。

『東地区5番街2号』と送り先が書かれた荷物を抱えて店内に入ると、恰幅のよい店主が荷物を受け取り・・・


「この荷物・・・うち宛てじゃないね」

「えっ・・・」

「ほら『東地区5番街2号』って・・・ここ3番街だからね、5番街はあっち」

「・・・ご、ごめんなさい」


慌てて5番街に向かうも、道を間違えたせいで余計に時間が掛かってしまい・・・


「遅いよ、どこで油売ってたんだい!」

「ごめんなさい・・・」


どんなに速度が出せても、道に迷っては意味がない。

この街の水路はまるで迷路みたいで、一度間違えるとなかなか目的地に着けないんだ。

結局、全ての荷物を運び終える頃にはすっかり日が傾いてしまっていた。


「・・・やっと終わった」


さすがにこんな時間になってはもうゴンドラの依頼はないだろう。

うなだれながら夕日に染まる運河を帰路に着いていると、水路の向こうにアイネスフィアさんのゴンドラが見えた。

あのゴンドラはアイネスフィアさん専用の特注品だ、遠目にもはっきりそれとわかる。

そしてゴンドラを漕ぐアイネスフィアさんの姿も・・・茜色に染まる風景も相なって1枚の絵画のよう。


「アリーゼ?」

「アイネスフィ・・・わわっ!」


見蕩れているうちにゴンドラが近付いて来ていた。

慌てて姿勢を正すけれど、ゴンドラの上でバランスを崩しそうになる・・・アイネスフィアさんのようにはいかない。

アイネスフィアさんも仕事を終えた帰りらしく、ゴンドラにお客さんの姿はなかった。


「もう・・・仕事が終わったからって気を抜いてはダメよ」

「はい、ごめんなさい・・・」


アイネスフィアさんがゴンドラを並走をさせてくる。

まったく無駄のない動き・・・ぜんぜん漕いでいないように見えるのに、私の隣にぴったりと付けている。


「アリーゼ、今日のお仕事はどうだった?」

「ええと・・・それが・・・その・・・」


すごく言いにくい・・・お客さんじゃなく荷物の配達で、それも道に迷って遅れただなんて・・・

でも私はアイネスフィアさんの弟子なんだ、師匠には正直に報告するしかない。


「・・・というわけなんです」

「そう・・・」


叱られる覚悟で全てを話し終えると、すごく気のない返事が返ってきた。

まったく感情のない・・・まるで興味がないかのような声。


「ごめんなさい! 私、昇級しないといけないのに・・・もっとお客さんを乗せて実績を積まないといけないのに・・・」

「そう・・・ね・・・」


気まずい沈黙に堪えかねて、謝罪の言葉が私の口を突いて出てくる。

けれどアイネスフィアさんは気もそぞろといった風に、どこか遠くを見つめていて・・・私の声なんて聞こえていないかのようだ。

自分が情けなくて仕方ない・・・これでは思い切り叱られた方がまだ・・・


ふいに、並走していたゴンドラがすうっと後方へ下がっていった。


「アイネスフィアさん?」

「・・・先に帰っていて」


振り返った私は、そこでようやくアイネスフィアさんが反対方向に漕ぎ出していた事に気付いた。

慌てて私も反対方向に漕いでみるけれど、私のゴンドラはその場で斜めに傾くばかりで・・・ゴンドラはあっという間に離れていく。

必死に漕いでも縮められないその距離が、なんだかひどく遠くに感じられた。



それからアイネスフィアさんが帰ってきたのは、すっかり陽の沈んだ後だった。

アイネスフィアさんは終始無言で何も語らず・・・食事だけ済ませると、部屋に入ってしまった。


「アイネスフィアさ・・・」

「ごめんなさい、明日にしてもらえるかしら」

「は、はい・・・」


・・・取り付く島もないとはこの事か。

翌朝も相変わらずアイネスフィアさんは朝食を用意してくれたけれど・・・その視線は私の方を向いておらず。

結局、私はまともに話を切り出せなかった。



「どうしよう、アイネスフィアさんに失望された・・・もうダメかも・・・」

「おーよしよし、代わりに私の弟子にしてあげようか」

「アシュリー・・・茶化さないでよ」

「いや、だってねぇ・・・」


よしよしと私の頭を撫でるその腕から逃れて抗議すると、アシュリーは呆れた顔をして肩をすくめた。

む、こっちは真剣に悩んでいるというのに・・・

友達甲斐のないアシュリーの態度に頬を膨らませていると、不意に彼女が私の手に紙を押し付けてきた・・・依頼書?


「ほらアリーゼ、指名の依頼が入ってるよ」

「え・・・私に指名?」


乱暴に押し付けられてしわくちゃになったその紙・・・依頼書を広げてみると、たしかに私の名前と依頼人の署名が・・・ってこれ。


「アイネスフィアさん?!な、なんで・・・」

「さぁ?実地訓練とかじゃない?わざわざお客さんとして依頼してくるなんて随分大袈裟だけど・・・」


これまで、お仕事の合間に私の練習を見てくれた事はあったけれど、こんな事は今回が初めてだ。

じゃあ昨日の帰りが遅かったのも・・・この為にアイネスフィアさんがゴンドラ協会に掛け合ったとか?


「良かったわね、見捨てられてなくて」

「うん・・・良かった、良かったよぅ・・・ごめんねアシュリー、友達甲斐がないとか思って」

「え・・・な、なんですって?!」

「だからごめんってば・・・いたいいたい」


ぽかぽかと私の背中を叩くアシュリーを尻目に、私は依頼書へ目を通す。

記されている日付は今日、そして時間はお昼前で・・・うわ、急がないと。

ここで遅刻なんてしようものなら、今度こそ愛想を尽かされてしまう。


「ごめん、急がないとだ・・・行ってくる」

「うん、また失敗して本当に見捨てられないようにねー」


縁起でもない声援に見送られながら、私は駆け出していく・・・

係留所に停められている私のゴンドラに勢いよく乗り込むと、昨日の荷物運びの疲れでゴンドラの手入れを怠っていたのを思い出した。

座席汚れてないかな・・・よりによってアイネスフィアさんを乗せるというのに。

・・・残念ながら綺麗に掃除してるような時間はなかった。



待ち合わせ場所に指定された西地区中央公園は街の観光スポットの1つだ。

海を背にした半円形の敷地と放射状に植えられた花壇が特徴で、季節の花が人々に憩いを与えてくれている。

アイネスフィアさんは・・・いた、ベンチに座っている。

私はゆっくりとゴンドラを接岸させ、彼女の元に向かった。


「アイネスフィアさん」

「うん、時間通りね・・・新人ゴンドラ漕ぎさん」

「は、はい・・・本日は私にご依頼くださり、ありがとうございます」


アイネスフィアさんがお客さんとして振舞ったのを見て、実地訓練という言葉を思い出した。

やっぱりそういう事なんだ。

それも実際に仕事として依頼までしている、私もしっかり気を引き締めないと。


「アイネスフィア?えっ本物?」

「あのアクエリーネがいるの?!どこどこ?!」


さすが人気の有名人、その名前を聞いた周囲の視線がこっちに集まってくるのを感じた。

いや、もう遠巻きに人だかりが出来つつある・・・なるべく早く連れ出した方が良さそうだ。


「ごめんなさい、乗る前の諸注意は省略で・・・ゴンドラへどうぞ」

「えっ、ああ・・・しょうがないわね」


私の目配せが通じたのか、アイネスフィアさんも周囲の状況に気付いてくれた。

さすがよく慣れている、まったく危なげのない足取りでアイネスフィアさんはゴンドラの座席に収まった。

とりあえずゴンドラを出してしまえば、周囲の野次馬を気にする事はないだろう。


「今のは私のせいよね・・・うっかりしてたわ、ごめんなさい」

「さすがです、アクエリーネ・アイネスフィア・・・本当にすごい人の弟子になったんだなって再認識しました」

「もうアリーゼったら・・・おだてても手加減はしません」


そう言いつつもアイネスフィアさんは、まんざらでもなさそうに頬を緩めた。

真面目で規律正しい彼女が時折見せるこの緩い表情・・・それも人気の理由なんだと思う。

・・・単に私が好きなだけかも知れないけど。


「やっぱり実地訓練なんですよね・・・私がちゃんとお仕事出来るかをチェックする、みたいな」

「ええ、わかっているなら話が早いわ・・・今から私はただのお客さん、どこを案内するかは『お任せ』で」

「そ、そうですね・・・」


ゆっくりと櫂を漕ぎながら、頭の中で街の観光スポットを思い浮かべた。

この西地区だと割と地味なものが多い・・・岬の大灯台、白砂の浜辺、岩壁の小さな祠・・・

あとは沖に座礁した難破船なんてのもあるけど・・・あれは岩礁地帯で危ないから近付いちゃいけないらしい。


観光客が喜びそうな派手目の名所となると東側・・・ここからは遠く離れた場所だ。

もちろんアイネスフィアさんならそれくらいの事はわかっているはず・・・だからあえて待ち合わせに西地区を指定したんだ。

この状況でお客さんをどう満足させるのか?・・・きっとそれを試されている。


「さぁ、どこに連れて行ってくれるのかしら?楽しみだわ」


無邪気なお客さんの役を演じているつもりなんだろうか・・・アイネスフィアさんがにっこりと微笑んだ。

笑顔の裏にすごいプレッシャーを感じる、半端な場所にはいけない・・・ならばいっそ・・・

緊張に手が汗ばむのを感じながら、私は櫂を握り直した。


「ではお客様、この街一番の名所へお連れします」


櫂を通して打ち寄せる波を感じながら、両腕に力を入れる。

向かう場所は東地区だ・・・距離はあるけどっ!

波をかき分けゴンドラを漕ぎ進める・・・徐々に漕ぐ力を強めて、速度を上げていく。


「まぁ・・・速い・・・」

「揺れるので気を付けてくださいね」


アイネスフィアさんにその心配は無用だけど、普通のお客さんを想定して注意を促す。

波を受けながら最速で進むゴンドラ揺れはなかなかのものだ。


最大速度でまっすぐ東地区へ・・・それが私の答えだ。

入り組んだ街の水路ではまた迷ってしまうかも知れないけれど、海の上は遮る物はない。


「ふふ・・・ゴンドラって、こんなに速く進めたのね」


客席から感心したような声が聞こえる、結構楽しんでくれているみたいだ。

そう思うと漕ぐ腕にもますます力が入る。

背中を押してくる潮風も気持ち良い、こうしていると風を受ける帆が欲しくなる気分だ。


「見えてきましたよお客様、あれがブランデール大橋です」


大きなアーチを描いて運河に掛かる巨大な橋は、下を船が潜ることが出来るように造られた物だ。

橋の上からの見晴らしもさることながら、こうして下から見上げても大迫力。

さらにこの橋を潜った先にあるのは・・・


「橋を抜けましたら左側に注目してください」


何本もの塔を備えた大きな建物・・・かつては王城として使われた事もある宮殿だ。

その姿が運河の水面に反射して、上下対象に見ることが出来る。

この水の都を代表する美麗スポット・・・そう言って過言はないだろう。


「やっぱり水の都と言えばこれです、どうですかお客様」

「ええ、素晴らしいわ」


うん、私は心の中で喝采を叫んだ。

バッチリ良い案内が出来たんじゃないかな。

きっとアイネスフィアさんも満足して・・・満足・・・


「次はどこに連れて行ってくれるのかしら?」

「つ・・・次?」

「ええ、まだ時間はあるもの、これで終わりじゃないでしょう?」

「は・・・はい・・・ええと・・・」


アイネスフィアさんは満足どころか、まだぜんぜん足りない・・・まるでそう書いてあるような顔で・・・

もちろん街の名所はまだたくさんある・・・順番に回っていけばいいんだけど・・・

一番の人気スポットを案内した後では、どれも見劣りしてしまう。


「あちらに見えてきましたのがサルサレーラ大聖堂、たくさんのステンドグラスが・・・」

「まぁ、あのガラスは全部で何枚あるのかしら?」

「え・・・ええと・・・ごめんなさい、枚数までは・・・」

「198枚よ、覚えておいて」


えっそんなに・・・

さすがアイネスフィアさん詳しい。

いやいや、感心している場合じゃなかった。


「あ、あれ・・・」


そろそろ次の名所が見えてくるはずなんだけど・・・それらしい光景が見えてこない。

曲がる水路を一本間違えてしまったかも・・・だとすれば、次の角を曲がって・・・

すぐに引き返さずに、迂回路で元のルートに戻ろうとしたのが更なる悲劇を招いた。


「アリーゼ?さっき通った場所に戻って来たけど・・・」

「え・・・お、おかしいなぁ・・・」


・・・言われてみればたしかに見覚えがある。

ぐるっと一周してしまった?

だとすると、次はどの水路に・・・


「・・・」


客席のアイネスフィアさんからの視線が痛い。

全身から嫌な汗が噴き出すのを感じる・・・あ、焦るな私。

ま、まだ大丈夫、ほらあそこを曲がれば正しいルートに戻れる・・・はず・・・


「・・・」

「また同じ場所・・・ねぇアリーゼ・・・もしかして・・・」

「うぅ・・・ごめんなさい」

「・・・しょうがないわね、櫂を貸して」

「・・・はい」


こうなってはもうアイネスフィアさんに櫂を差し出すしかない。

櫂を受け取ったアイネスフィアさんは迷うことなくゴンドラを漕ぎ出し・・・当然だ、彼女が道に迷うはずもない。

程なくしてゴンドラは見慣れた景色に出た・・・私はその間もただ俯いて・・・もうアイネスフィアさんの顔も見る事が出来ない。


「着いたわよ、アリーゼ?」

「・・・ありがとうございました」


ゴンドラが接岸すると、私は逃げ出すように駆け出していた。

私を呼び止めようとする声が聞こえた気もするけど、とてもこの場所にはいられない。

・・・こうして、私の実地訓練は残念な結果で幕を閉じたのだった。




「うわぁぁ、やっちゃった、もうダメだぁぁ」

「ま、まぁ・・・元気出しなよアリーゼ、紅茶飲む?」

「うん・・・じゅびじゅび」


アシュリーが差し出してきたカップを手に取り、音を立てて啜る・・・紅茶は涙の味がした。

殺風景な路地裏にある小さなカフェ・・・あまり観光客の寄り付かないそこは、私達のような半人前が通う隠れ家的なお店だった。


「ねぇアシュリー・・・私を弟子にしてくれる?・・・」

「ちょ・・・あれは冗談だから!・・・アイネスフィアさんだってそんな簡単に見捨てたりは・・・」

「でも・・・ゴンドラの仕事でお客さん乗せて道に迷うとかありえないし・・・」

「え・・・た、たしかにそれはないわ・・・」

「うぅ・・・・」

「はぁ・・・やっちゃったわね」


事情を知ったアシュリーの表情が、何とも言えないものに変わる。

私達はただゴンドラを漕ぐのではない・・・お客さんにこの街の観光案内をするのがメインのお仕事なのだ。

それが道に迷うなんて・・・絶対にあっちゃいけない事だ。


「大聖堂から時計塔に行こうとしてたんだけど・・・エルモーネ通り添いを通ればすぐ見えてくるはずだよね?」

「エルモーネ通り添い?・・・エルーニャ通り脇の第2水路じゃなくて?」

「ああああああ、それだ!」

「アリーゼ、声大きい・・・」

「あ、ごめん」


エルモーネ通りとエルーニャ通り・・・全然違う場所なんだけど、私の中でごっちゃになっていた。

ただでさえ迷路みたいな街だというのに、通りの名前まで紛らわしいんだよね。


「うわ・・・すっかり勘違いしてた、どうりで道に迷うわけだよ」

「まぁ、初心者にはありがちな間違いだけど・・・アリーゼはもう1年経つよね?」

「う・・・面目ない・・・」


原因がわかってしまうと極めて単純なミスで・・・我ながら恥ずかしい。

アイネスフィアさんもさぞかし呆れた事だろう・・・となるとやっぱり・・・


「これはもうアイネスフィアさんに見限られる、よね・・・」

「うーん・・・さすがにそこまでにはならないと思う、けど・・・」

「・・・けど?」

「お客さんを取るのを許さない、くらいはあるかも・・・私がアリーゼの師匠ならそうするわ」

「う・・・」


それはそれで、なかなか現実味のある意見だ。

真面目で責任感の強いアイネスフィアさんだし、今の私にお客さんの相手など許さないだろう。


「当分の間は港の荷物運びの仕事ね、がんばって」

「そんなぁ・・・」

「まぁ、地道にがんばってればいつか許してくれるって・・・私は先に昇級して待ってるね」

「むー」


言うだけの事はあって、アシュリーはそつなく地道に実績を積んできている。

私が相手だと、こんなくだけた態度をしているけれど、お客さんの前ではまるで別人のような接客力を見せるのだ。

きっと今回の事が無くても先に昇級するのは彼女に違いない。


その後も私達はたわいのない話をしたり、劇場で公開予定の演目の話をしたり、仕事の愚痴を言い合ったり。

ずいぶん長い事カフェで過ごしてしまった・・・店長さんの視線がちょっと痛い。


「あ、そろそろ帰らないと・・・」

「どう、ちゃんと帰ってアイネスフィアさんにごめんなさい出来そう?」

「うん・・・がんばる」


正直どんな顔をして帰ったら良いのか・・・まだ自信がないけれど。

でもアシュリーのおかげでだいぶ気が楽になった。

あまり彼女に差をつけられないようにも、がんばらないと。



「・・・た、ただいま戻りました」


アイネスフィアさんの家に戻ると、中はしんと静まりかえっていて・・・ひょっとして出掛けているのかな。

叱られる覚悟を決めて玄関をくぐった身としては、ちょっと拍子抜けしてしまった。

薄暗い室内は明かりも灯っておらず・・・この分だと夕食の支度もまだだろう。


ここは弟子らしく、しっかり家事をこなして美味しい夕食で出迎えよう。

まずは部屋の明かりを付けて・・・おっと。

部屋が散らかっているのか、足元の何かに躓きそうになりながら、部屋の明かりを灯すと・・・


「・・・アイネスフィアさん?!」


部屋の中でアイネスフィアさんが倒れていた。

どうやらさっき私が躓きそうになったのはアイネスフィアさんだったみたいで・・・

彼女の長い髪が床に広がっている所は、ちょっと前に劇場で観た『眠れる森の殺人事件』を思わせ・・・さ、殺人事件?!


「すぅ・・・」


あ、寝息を立てている。

良かった、てっきり殺人事件かと思ったよ。


「起きてくださいアイネスフィアさん、こんな所で寝てると風邪ひきますよ」

「ふわ・・・ぁ・・・」


軽く身体を揺すると、アイネスフィアさんは意外な程かわいらしい欠伸をしながら目を覚ました。


「ごめんなさい、アリーゼの帰りを待っていたら、うとうとしてしまって、つい・・・」

「もう、せめてソファーで休んでてくださいよ・・・なんでこんな場所で」

「あら・・・私ね、実は寝相がすごく悪いの」


アイネスフィアさんは悪びれもなくそんな事を言った。

ひょっとして、最初はソファーで寝てたのかな、結構距離があるけど・・・なんか意外な一面を見てしまった。


「今夕食の支度しますから、アイネスフィアさんはそこで休んでてください」


人気の人だから日々の疲れが溜まっていたんだろう。

手早くベーコンと野菜を刻んで火にかける、たしかチーズもあったはず。

あまりアイネスフィアさんを待たせないように、時間のかからない物を・・・


「アリーゼ、何か手伝う事はある?」

「大丈夫です、簡単なやつ作ってますから」

「何を作ってくれるのかしら・・・美味しそうな匂いね」

「もうっ、覗き込まないでください」


私の料理が余程気になるのか、アイネスフィアさんはキッチンにやってくると、料理中の私の周りをうろちょろと・・・

こう言っては失礼なんだけど・・・すごく邪魔くさい。

ついさっきまで『どんな顔で帰れば・・・』とか悩んでたのが馬鹿らしくなってきた。


「あ、お皿出さないと」

「もう出してますからっ!部屋に戻っててください」


見かねてキッチンから追い出すと、アイネスフィアさんはすっかりしょげてしまった。

いったいこの人は何がしたかったのか・・・よくわからないけれど、今は料理を仕上げてしまおう。

溶いた卵を流し込んで、仕上げにチーズを・・・


「お待たせしました・・・運ばなくて良いですからね」

「そ、そう?」


さっそく席を立とうとしたアイネスフィアさんを制止して料理を並べる。

チーズが冷めてしまうと美味しくないので手早く並べ終え、私も食卓に着く。


「ええと、頂ける命に感謝を込めて・・・」

「作ってくれたアリーザに感謝を込めて・・・いただきます」


そんな風に言われるとなんだか照れ臭い。

弟子としては、当然の務めを果たしただけだと思うんだけど・・・


「ん・・・美味しいわ」


アイネスフィアさんは小さく一口食べて、そう感想を漏らした。

さすがと言うか、アイネスフィアさんはすごく上品に食べる。

雑に造った庶民的な料理なんだけど・・・彼女が食べると、まるで宮廷料理のよう。

逆に私の食べ方の方がすごく汚いような気にもなってくる。


「ねぇ、アリーゼ・・・昼間の事だけど」


食事を進めていると、不意にアイネスフィアさんが真面目な顔で話しかけてきた。

・・・いよいよか。

お叱りを受けるのは覚悟出来ていた、出来ていたのだけれど・・・


「ごめんなさい! 通りを勘違いしてしまって・・・」


アイネスフィアさんの言葉を遮り、勝手に口を突いて出た・・・見苦しい言い訳。


「後で考えたらもう、すごく単純なミスで・・・本当に私ったらなんであんな事をしたのか・・・」


声が震えているのが自分でもわかった。

そんな事を言ったところで逆効果も良い所、かえって悪印象を持たれてしまうだろうに。

自分で自分が見苦しくて仕方ない・・・でも・・・


「あのね、アリーゼ」

「次からは絶対に、絶対に間違えませんから・・・次は・・・」


何かを口にしようとしたアイネスフィアさんを再び遮る。

怖い・・・その続きを言われるのが・・・すごく怖い。

何も聞きたくない・・・聞きたくなかった。


「次は絶対に、ゴンドラだってもっと上手く・・・」

「アリーゼ!」

「・・・!」


堪りかねたか、アイネスフィアさんが立ち上がった。

ああ、完全に怒らせた・・・現実から逃げるようにぎゅっと目を閉じる。

刑の執行を受ける直前の死刑囚のような気持ちで、目を閉じたまま私はじっとその時を待・・・


「アリーゼ、ごめんなさい」

「えっ・・・」


耳元で聞こえたのは意外な言葉。

そして背中から回された腕が私を優しく包み込んだ。


「・・・アイネスフィアさん?」

「アリーゼ、貴女はよくがんばってるわ・・・私の教え方が下手なだけ」

「そ、そんなこと・・・ないです・・・」


なんか良い匂いがする・・・アイネスフィアさんは香水とか使ってないはずだけど・・・


「貴女にもっと教えないといけない事がたくさんあるのに、ろくに時間も取れてなかったし・・・」

「だってそれは・・・アイネスフィアさんはすごい人気で、お仕事だって大切で・・・」


確かに、もっとアイネスフィアさんから教わりたい事はたくさんあるけど・・・我儘は言ってられない。

アクエリーネ・アイネスフィアは、この街を代表する存在だ・・・あの大聖堂や宮殿にも並び立つ、水の都の女神。

弟子の面倒ばかり見ているわけにもいかないのは当然だ。


「いいえ、貴女の師匠として、もっと出来る事をしたいの」

「・・・アイネスフィアさん」


今日だって貴重な時間を使わせてしまったのに・・・あんな体たらくで・・・

なのにアイネスフィアさんは、怒りもしないで、こんなにも優しくしてくれて。

見捨てられるどころか、気にかけて貰えるなんて・・・私はどれだけ幸せ者なんだろう。


「だから・・・これからはアリーゼのお勉強の時間を作ろうと思います」

「え・・・おべんきょう?」

「ええ、今日見ていて気付いたの・・・貴女にはお勉強が必要だわ」


・・・そう言ってアイネスフィアさんは、教鞭を手に取った。



「今日はまず聖王国についてよ、図書館から資料を借りてきているわ」

「・・・」


ズシン、とテーブルに置かれた重量物。

それは200年くらい前に滅んだという異国について書かれた分厚い書物だ。

ページいっぱいにびっしりと書かれた文字の列は、見ているだけでも頭が痛くなりそうだった。


「継承権第1位だった王子が病死した事をきっかけに、第1王女と婚姻関係にあった教皇が・・・」


・・・本当の本当にお勉強。

夕食後に設けられた『お勉強の時間』は、毎日1時間程アイネスフィアさんが講義を行い、宿題としてその日教わった範囲の復習が義務付けられた。

ちゃんと復習してないと同じ所の講義をもう1回受ける事になる・・・この聖王国の興亡だけで1ヶ月かかってしまった。


権力を握った教皇派は民の信仰心を利用して圧政を敷き、教皇は蓄えた財産で贅沢の限りを尽くすようになった。

それと対照的に国民は貧しい暮らしを強いられ、疲弊した聖王国はやがて隣国に滅ぼされてしまう。


「・・・この時に聖王国の王宮が打ち壊されたのだけど、美しいステンドグラスを壊すのが躊躇われたのね・・・そこで新しく建てられていたサルサレーラ大聖堂に移されたの・・・でも完全には移せなくて、220枚あったガラスのうち22枚が失われたそうよ」


最後の方になって、やっと知ってる単語が出てきた。

あの大聖堂もステンドグラス・・・それで198枚なのか。


ここにきてようやく私も『お勉強』の目的がわかってきた。

この街の観光名所の1つ1つに関わる歴史・・・それもかなり深い所から学ばせようとしているんだ。


美しい大聖堂に対抗する形で建てられた豪奢なミラブリューニ宮殿。

川が運んできた土砂で広がっていった土地に造られた新市街。

海洋交易の発達によって建てられた大灯台と、代わりに失われた旧灯台。


歴史を学ぶ事でより詳細な観光案内が出来るようになる・・・それはわかるんだけど。

結論から先に言うと、残念ながら私の頭脳はそんなに優秀ではなかったのだ。



「アリーゼ・・・なんかフラついてない?」

「あ、あはは・・・今アイネスフィアさんから色々教わってて寝不足で」

「何それ、自慢?・・・心配して損したわ」

「いや、アイネスフィアさんって結構厳しいんだよ?」

「そりゃそうでしょうよ・・・はい」

「?」


いつものようにゴンドラ協会で出会ったアシュリーが何か手渡してきた。

この紙・・・どこか既視感が・・・


「そのアイネスフィアさんからご指名よ、今度こそヘマしないようにね」


再びアイネスフィアさんから、お客さんとしてゴンドラに乗せる依頼。

その目的はおそらく・・・


「アリーゼ、今日はこれまで学んだ成果を見せてもらうわ」

「は、はい・・・お願いします」


前回と違って今回はお任せではなく、街の中心を流れる川沿いに名所を巡るように指定されている。

どれも『お勉強』で歴史を学んだ場所だ。

まずはサルサレーラ大聖堂から・・・最初に勉強した、聖王国の・・・


「右に見えますのがサルサレーラ大聖堂です、あのステンドグラスは遠い聖王国の王宮で使われていたものなんですよ」

「遠くから運んできたのね、全部で何枚あるのかしら」

「ひゃくきゅうじゅう・・・あれ・・・いくつだっけ?」

「198枚よ」

「そうでした198枚、運ぶ時に、ええと・・・20枚くらい失われたそうです」

「うーん・・・もう少しね、がんばって覚えて」


次はミラブリューニ宮殿、大聖堂への対抗意識が色んなところに出てるんだよね。


「ミラブリューニ宮殿の東門が見えてきました、宮殿にある3つの尖塔はそれぞれ大聖堂の・・・大聖堂の・・・」


そこで言葉に詰まってしまった。

大聖堂にある何かより大きく造られてるはずなんだけど・・・なんだっけ?

ちゃんと勉強したはずなのに、さっぱり出てこない。


「だ、大聖堂より大きく造られてますっ!」

「・・・アリーゼ、さすがにそれは大きすぎると思うわ」


その後も、更にその後も・・・

どれもこれもちゃんと勉強したのに・・・私の頭からさっぱり消え去っていて・・・


「・・・」

「ごめんなさい、あんなにアイネスフィアさんが教えてくれたのに・・・」

「誰にでも向き不向きはあるもの、気にしないで・・・忘れていた所はじっくり復習していきましょう」

「はい・・・」


忘れていた所の方が多いんだけど・・・また最初からやり直しかな。

気付けばゴンドラはエルモーネ、じゃない・・・エルーニャ通りの方に来ていた、前に道に迷った所だ。

あの時は間違えて散々な目に遭ったけど、今度は間違えないよ。


「あ、時計塔が見えてきた・・・ええと、この時計塔は・・・」


言いかけて・・・勉強した範囲の中にこの時計塔が含まれていない事に気付いた。

私の事だからまた忘れてる可能性もあるけど・・・とにかく、頭の中にないものは仕方ない。


「この時計塔は、街の色んな場所から見えるので、時間を知りたい時に探すようにしてます」

「・・・!」

「本当に色んな場所から見えるんですよ? 結構便利で、私だけじゃなく友達もね、よく待ち合わせる時なんかにも・・・」


焦って、だんだん自分で言ってる事がわからなくなってくる。

けれどアイネスフィアさんはそれを聞いて満足そうに微笑んだ。


「まだ教えていないはずだけど・・・よく知ってたわね、予習をしていたの?」

「え・・・いや、私は何も・・・ただ、いつもあの時計が見えるから便利だなって・・・」


後で教わった話だと、あの時計塔は有名な建築家がこの街のどこに居ても見えるように計算されて造られたのだとか。

建築家の名前は忘れてしまったけど、今も街の皆の役に立っているのは私もよく知っている。


「・・・そう、貴女はそうなのね」

「アイネスフィアさん?」


私の返事を聞いて、アイネスフィアさんは何か妙に納得したような表情で頷いていた。

私が何だっていうのだろう・・・頭が悪いとかそういう話?


「アリーゼ、少し代わって貰える?」

「あ、はい・・・」


請われるままにアイネスフィアさんに櫂を手渡し、場所を譲る。

なんだろう・・・今日の実地訓練はここまでって事かな。

ゴンドラの上にぼうっと立ったまま、そんな事を考えていたら・・・


「お客様、危ないですので、ご案内中は座席から立ち上がらないようにお願いします」

「ふぇ・・・?!」


そう言うなり、アイネスフィアさんが手に持った櫂を振るう・・・その穂先が水面に触れて・・・


パシャン


「わぷっ!」

「うふふ・・・警告はしたわよ?」


水面から跳ね上がった水が、まるで狙ったかのように私の顔面を直撃した。

いや、狙ったんだ・・・私の顔面だけにかかるように。

今アイネスフィアさんは私の事をお客様と呼んだ・・・遅ればせながらもその意図を察して、私は慌てて座席に着く。


その気配を背中に感じているのか、一切振り返る事なくアイネスフィアさんはゴンドラを漕ぎ出した。

相変わらず無駄のない綺麗な櫂捌きはゴンドラ漕ぎのお手本のよう。

実際ファンの絵描きが書き起こしたというスケッチが、文字通りのお手本として新人ゴンドラ漕ぎの間で人気を集めていたりもする。


「さてお客様、本日は少し風変わりなコースにご案内いたします・・・『怠け者の航路』とでも呼びましょうか」

「え・・・」


ゴンドラ漕ぎの間で定番とされるコースはいくつかあって、それぞれ独特な名前がついていたりする。

大聖堂から鐘のような軌跡を描いて水路を周回する『鐘楼流し』

細い水路を使ったショートカットを多用する上級者向けの『水編み』

川沿いを進む『川下り』は古くからの伝統的コースでもあり、そこから無数の派生を生み出していた。


しかし今回アイネスフィアさんが口にしたのはそれらとは全く違う、聞いた事もない名前だ。

怠け者とか、あまりよろしくないイメージがするけど・・・

アイネスフィアさんの事だ、きっと何か歴史上の逸話とかあるのかも知れない。


そんな事を考えていると・・・ゴンドラが旧市街の一角に差し掛かったあたりで、彼女は櫂の手を止めた。

見た感じ、これといって目を惹くような何かがあるような場所には見えないんだけど・・・


「アイネスフィアさん・・・ここはいったい・・・」

「ふふふ・・・それは見てのお楽しみ」

「え・・・」


そう言うなりアイネスフィアさんは櫂を引き上げると、ゴンドラ内に収納してしまった。

それだけではなく、自らも・・・座席に座る私と向かい合うような形でアイネスフィアさんはゴンドラに腰を下ろした。

ここで休憩?・・・それにしては不用心な・・・係留されていないゴンドラは徐々に流されて・・・


「アイネスフィアさん?!ゴンドラが流されてます」

「ええと、種も仕掛けもありません・・・と言う所かしら?」

「??」


妙に得意げな顔でアイネスフィアさんがわけのわからない事を言っている。

このまま流されて、壁にぶつけたりしたらゴンドラが無事では済まない。

例えかすり傷でも目立つ所だとお客さんの印象を左右するし、穴が開いて浸水してしまう可能性だってある。


慌てて櫂に手を伸ばそうとした私の腕を、アイネスフィアさんの手が軽く抑えた。


「大丈夫よ・・・よく見ていて」

「え・・・」


流されるままのゴンドラは壁にぶつかる事もなく、むしろ綺麗な軌道を描いて水路を進んでいた。

幅も広く直線的な新市街の方と違って、旧市街の細く入り組んだ水路だというのに・・・

いったいアイネスフィアさんは何の魔法を使ったのか・・・目の前で起こっている出来事が信じられない。


「お客様、よく耳を澄ましてください・・・何か聞こえませんか?」


そう言われるままに耳に意識を向けると、どこからか美しい音楽が聞こえてきた。

素人の耳でもかなり上質なものだとわかる・・・こんな旧市街には似つかわしくない至上の旋律。

音はだんだんと大きくなって・・・ゴンドラが流れていく水路の先から聞こえてきている?


「あれは、この水の都が誇るフィルヴァージュ弦楽団の演奏です・・・この先にある建物が練習場所になっているの」

「・・・!」


フィルヴァージュ弦楽団と言えば、弦楽器を中心としたオーケストラチームだ。

特に音楽に興味がなくても名前くらいは知っている・・・たしかアシュリーと最近見た歌劇も彼らの演奏だったはずだ。

ゴンドラが旧市街を抜けたあたりでそれらしき建物が見えてきた、言われていないとそれと気付く事が出来ないような地味な練習施設。


「こんな場所に、あんなものが・・・」

「あの人達は練習熱心だから、だいたいこの時間はいつも練習してるわ」


そう語るアイネスフィアさんは、まるで自分の事のように誇らしげな笑顔をしていた。

分野が違っても達人同士は互いに通じ合う・・・そんな話を聞いた事がある。

ひょっとしたら、あの中に知り合いや友人がいるのかも知れない。


新市街に入ると、アイネスフィアさんは再び櫂を手に取ったものの、漕ぐような素振りは見せなかった。

ゴンドラはただ流れるままに進んでいく・・・なるほど、漕がずに行けるから『怠け者の航路』なのか。


「昔と違って今は行き交う船が増えたから、気を付けないといけないの」


そうは言っても、この街で知らぬ者なき有名人アクエリーネ・アイネスフィアだ。

ゴンドラに立つその姿を見れば、他の船の方が避けて通るのも当然というか。

特に危なげもなく、すれ違う船に向かって優雅に手を振る姿も様になっていた。


「お客様、そろそろお腹が空いてきませんか?」


きゅるる・・・

まるでその言葉に反応したかのように私のお腹が空腹の旋律を奏でた。

そう言えばまだお昼を食べていない・・・お腹が空くのも当然なんだけど・・・


「アイネスフィアさん・・・ひょっとして・・・」


言い訳じゃないけど私のお腹が鳴ったのには理由がある・・・先程から漂ってくる匂いだ。

パン焼きの竈から漂ってくる香ばしい香り。

それだけではない、リンゴの焼ける匂いに、甘さを引き立てる香辛料の香りが混ざって・・・


さすがにこれはわかる・・・よく行くお店だもの。

行列の出来るアップルパイで人気のお店、ラズベリーヌの本店だ。

その店の裏口がある所に流れる水路・・・そこを今このゴンドラが通っている。

そしてその裏口が今まさに開かれ、店の中からコック帽を被った体格の良い男性が現れた。


「これはこれはアクエリーネ・アイネスフィア、お待ちしておりました」

「もう、店長さんたら・・・いつも通りでお願いします」

「いやー、嬢ちゃんがすっかり立派になっちまって、どう接すれば良いかと一晩考えてだな・・・」

「ふふふ・・・お店で食べていきたいのだけど、席は空いてるかしら?」

「もちろん、一番いい席を取ってあるぜ」


店長さん?なんか親しげに会話してるんですけど・・・さすがアイネスフィアさん顔が広い。

気の置けない会話をしながらも、店長さんは手慣れた様子でゴンドラを係留すると・・・そこでようやく私の存在に気付いた。


「・・・こ、こんにちは・・・」

「嬢ちゃん、こっちの娘は・・・」

「この子はアリーゼ、私の弟子なの」

「よ、よろしくお願いします・・・」


・・・こ、これはどう振舞えばいいのか。

身体の大きな店長さんに覗き込むように見つめられると、捕食者を前にした小動物の気分になる。


「おおう、弟子なんて取ったのか・・・いやいや高名なアクエリーネ様だ、弟子の1人や2人いて当然か」

「もう・・・からかわないでください」

「悪い悪い、注文はいつもので良いか?弟子の嬢ちゃんはどうする?」

「え、ええと・・・」

「遠慮なんてするな、今日は俺のおごりだ、好きな物を頼んで良いぞ」


えっ本当に?

このお店ってアップルパイが人気だけど、店名にもなってるラズベリーも美味しいんだよね。

でもちょっと値段が高いからなかなか手が出なかったんだけど・・・


「じゃ、じゃあ・・・」


お言葉に甘えて・・・ラズベリータルトに、チーズケーキ、や、焼きプリンも捨てがたい・・・

師匠の手前、遠慮した方が良いんだろうけど・・・いや、やっぱり甘いものの誘惑には勝てないよ。

迷った末に私は、普段買わないような高めの商品を3つ・・・飲み物付きで注文するのだった。



「はうぅ・・・」


口の中でとろける甘さが踊ってる。

やっぱり一度は食べないといけない味だよ。

しかもなんかいつもより切り分け方が大きい気がする・・・アイネスフィアさん効果か。


そのアイネスフィアさんの方はと言うと・・・私のとは対照的に小さいパイが並んでいた。

どれも一口サイズ・・・小食のアイネスフィアさん向けに作られたかのような・・・これはこれで可愛らしい。


「ふふ、いつ来ても変わらない味で安心したわ」

「そいつはどうも、弟子の嬢ちゃんの方はしっかり食べてくれるから安心したぜ、お代わりいるか?」

「いや、さすがにそれは・・・遠慮しときます」

「そうか、またいつでも来てくれよ」


本当はすごく食べたいんだけど・・・食べ過ぎるわけにはいかない。

スラっとしたアイネスフィアさんの弟子がぽっちゃりとか、恥ずかしいにも程がある。

やっぱりこういうお仕事だもの、食事にも気を付けるべきなんだろうなぁ。


その点アイネスフィアさんはどんな場面でも羽目を外したりしない、これほど暴飲暴食と無縁の人はそうはいないだろう。

スラっとした美しい体形は、こういう日々の積み重ねで出来ているんだろうなぁ・・・やっぱり私もダイエットが必要かも。


アイネスフィアさんの来店を聞きつけたのか、次第にお店の周りが混雑してきた。

大きな騒ぎになる前に私達は店を出る事に。

裏口からゴンドラを出すと・・・うわ・・・すごい人だかりが出来てる。

さすがに水路までは追ってこれないけれど、根性のある一部のファンは橋まで走ってきた。


「応援ありがとうございます」


そんなファン達に優雅に一礼して、橋の下を潜り抜ける。

いくら熱心なファン達と言っても、守るべき一線を越えてくるような事はしない。

アクエリーネ・アイネスフィアのゴンドラは彼女の聖域、水の上の彼女に手を出せる者などこの街にはいないのだ。


アイネスフィアさんがゆっくりと櫂を漕ぎ始めた・・・『怠け者の航路』はもう終わり、帰路に入ったのだろう。


「アイネスフィアさん、今日はありがとうございました」

「・・・」


波に揺れるゴンドラが心地良い・・・この揺れ具合さえもアイネスフィアさんの計算通りなのかも知れない。

短い時間だったけれど、圧倒的な実力差をまざまざと見せつけられてしまった。

いつかこの人に追いつける日は来るのだろうか・・・いやいやそれ以前に一人前になれるかどうかか。


「・・・アリーゼ、今日の事はよく覚えておいてね」

「もちろんです、もう忘れられない一生の思い出に・・・あ」


まさか・・・今日のは破門する前の最後の思い出に?!

一瞬嫌な想像をして冷や汗が出てくる・・・けれど全然そんな事ではなかった。


「貴女を見ていて気付いたのだけど、貴女は勉強するよりも実際に体験した方が覚えやすいみたい・・・」

「あ・・・それは、そうかも・・・」


そう言われると確かに・・・

今日アイネスフィアさんに案内してもらった場所は全部しっかりと覚えてる。

旧市街のだいぶ入り組んだ場所だったのに・・・この前の場所と違って、迷わず行ける自信さえあった。


「これからは私をやり方を見て覚えて貰おうと思うの・・・ええと、看取り稽古って言うのかしら?」

「え・・・でもアイネスフィアさんは忙しいんじゃ・・・」

「そうね・・・あまり時間を取ってあげられないわ」


それはそうだろう、今日1日だけでも彼女の人気は嫌という程よくわかった。

指名の予約もいっぱいだし、様々な行事に呼ばれたりもする。

私に付きっきりになってる時間なんてあるわけが・・・


「それでも、出来る限り時間を作るから・・・この街に溢れる私の大好きな場所を貴女にも知ってほしい」

「アイネスフィアさん・・・」


気付けば日は傾いて、沈みゆく夕日が街を染めあげていく。

え、ここってこんなに綺麗な場所だった? 茜色に染まる街並みが鏡のように水面に写り込んで・・・

特別な名所なんてない、いつも通過するだけのただの街並みが、今はこんなにも・・・


「この時間に、この場所から見る街も私の大好きな景色の1つ・・・アリーゼ、覚えられそう?」

「・・・」

「こんな風に私の大好きを1つずつ覚えて、それをお客さんにも伝えていって欲しいの・・・全部は無理かも知れないけれど、1つでも多く」

「はい、私覚えます!全部、絶対に全部覚えて見せますから・・・」


皆が憧れるアクエリーネ・アイネスフィアにこんな事を言われて、断れる弟子がいるだろうか。

ぎゅっと目に力を入れて、今目の前に広がる風景を焼き付ける。

この場所を、この風景を忘れたりするもんか・・・他の場所だってきっと。


でも・・・やっぱりどうしても不安になる。

この人はどうして、これ程までに・・・


「アイネスフィアさんはなんで私なんかに・・・こんな出来の悪い弟子にそこまでしてくれるんですか?」

「えっ・・・」


振り返ったアイネスフィアさんが見せたのは・・・呆気に取られたような、驚いたような顔。


「私、アリーゼを出来が悪いなんて思った事ないんだけど・・・」


それは同情でもなんでもなく、まるでごく当たり前の事を告げるかのように。


何1つ疑惑が差し挟まる余地のない真っ直ぐな瞳で、アイネスフィアさんは不思議そうに首を傾げた。

そして・・・


「私が教えた基礎がしっかり身についてるし、櫂の使い方に関してはもう・・・」

「えっ・・・」


・・・今度は私が呆気にとられる番だった。






「それでね、アイネスフィアさんが言ったんだよ『もうアリーゼは私を超えている』って」

「あーよかったわねー」

「本当!良かったよ!ひたすら基礎に基礎を重ねた血の滲む練習の日々がついに報われたって言うか、ねぇアシュリー聞いてる?」

「はいはいきいてますよー・・・うざ」

「今うざって言った?!うざって・・・」

「いってないいってない・・・ウッザ」


翌日。

すっかりテンションの上がった私は、もう居ても立っても居られず朝からアシュリーを捕まえて話し込んだのだった。

だってアイネスフィアさんが褒めてくれたんだよ?

最初に教わった基礎練習を毎日欠かさずやってた事にも気付いてくれてた。


「あんなに速くゴンドラを漕げるのは私だけだって!アイネスフィアさんのお墨付きだよ、最速の称号とか名乗れるかも」

「別にゴンドラの速さとか、お客さんは求めてないんじゃないかなぁ・・・」

「いやいや、時間に追われたお客さんとかに便利かも知れないよ?あとは・・・そう、風を感じたいとか」

「はいはいアリーゼは好きなだけ風になると良いよ・・・あれ、その依頼書って・・・港の?」

「うん、荷物運ぶやつ、なんだけど・・・ラズベリーヌの納品依頼見つけちゃった」

「えっ?!」


ラズベリーヌと聞いてアシュリーが食いついた。

あそこのアップルパイはアシュリーもお気に入りなのだ。

水路沿いにあった裏口からもしやと思ったけど、あのお店は船で材料を運んで貰ってるらしい。


「私ラズベリーヌの店長に覚えられちゃってるから、納品のついでに買えるかも・・・」

「心の友よっ!私の分も買って来てくれるよね?ね?」

「でも私うざいんだよね・・・1人で風になるしか・・・」

「うざくないですごめんなさいアリーゼ様どうかアップルパイのお恵みを」

「うーん、しょうがないなぁ、一応買えたら、だからね?」

「やたっ!ありがとう親友、じゃあ仕事終わったらいつもの店でー」

「おーけー、行ってきまーす」


急に親友を名乗り出したアシュリーに見送られながら、自分のゴンドラに向かう。

港でリンゴや小麦粉等の材料を受け取って水路を進んでいると、見覚えのあるゴンドラを見つけたので追いかける。


「アイネスフィアさーん、これからお仕事ですか?」

「ええ、アリーゼは配達のお仕事ね、がんばって」

「はい任せてください、最速で運んじゃいますよー」


アイネスフィアさんに見せるように、力いっぱい櫂を漕ぐ。

最初に教わった基礎はもうすっかりこの身体の一部になっている。

この基礎のように、いずれはもっと多くのものをアイネスフィアさんに教わって、身に着けていけるに違いない。


私の名前はアリーゼ、水の都で1番のゴンドラの漕ぎ手アイネスフィアさんの1番弟子だ。

今はまだ駆け出しだけど・・・駆け出したからには止まらない。

いつか必ず、アイネスフィアさんの後を継いで、この街の1番になるからね。


「水の都へようこそ、名物のゴンドラはいかがですか?」



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