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秋、燻る宵の底

虫の声が満ちていた。


昼間が残した熱が和らぎ、涼やかな夜風が神殿の石造りの回廊を撫でる。

秋の終わり。虫たちの鳴き声は、夏の頃の元気な音色とは違う。

静かに、どこか遠くで響く、儚い音。

コオロギの低く細やかな調べ。スズムシのか細い囁き。

夜が更けるにつれ、それらはいつか途切れるように遠のいていく。

秋の虫の声は、何かを惜しむような、別れの気配を帯びていた。


その夜、少し開けた窓の隙間から、雨の匂いがしていた。


乾きかけた落ち葉の隙間を、湿った空気が忍び込んでいく。

石畳に漂う、雨の予兆。

遠くの空には、まだ見えぬ雲が重たく広がっているのだろう。


変わりない、大丈夫、心配ない…


そう言い聞かせて返事を書き続けることに、どれほどの意味があるのか。


自分でも、もうわからなくなっていた。

実際、何が「変わりない」のか。

何が「大丈夫」なのか。

誓約を唱えても、唱えても、どうしようもなく揺らいでいる。


──何を信じればいい?


書物を重ねて隠していた文書を、そっと手に取った。

証拠。

神官長が裏で動かしている不正の数々。

帳簿。交易記録。宝石の輸送ルート。

歴代の神官長が学院と人材を私物化してきた、記録。


全ては、積み重ねてきたものだった。

積み重ねて、いつか役立てるつもりだった。

でも、今はただ、手のひらにあるその重みが、どこまでも沈んでいくように感じる。


「……もう、よく分からない」


声に出してみても、心の霧が晴れることはなかった。


その時──


「……卿」


低い声が、静かな夜の空気を微かに震わせた。

ラファエルは半信半疑のまま振り向く。

そこに立っていたのは、久方ぶりに見る少年の姿。

もう少年、とは言えないほどに、背は伸び、肩幅も広くなっていた。

黒衣に包まれた体は、貴族学院での厳しい鍛錬を物語るように、しっかりと引き締まっている。


成長していた。


ラファエルが見ないふりをしていた時間の分だけ、確かに──。


「ヴァルター……」


ラファエルの声は掠れる。

彼は、どこか緊張した面持ちで、ラファエルを見つめていた。


「久しぶりです、卿」


「……ああ」


遠いものを見るような、その眼差し。

青い瞳は、まるで宝石のように透き通っている。

でも、そこに映るのは、かつて 「ラー!」 と無邪気に駆け寄ってきたあの子どもではない。

どこか迷い、どこかためらい、けれども押し殺すような、焦燥を抱えた目。


「学院はどうだ?」


「……変わりない、です」


ラファエルの言葉をそっくりそのまま返してくる。

そう、ヴァルターも、嘘をつくようになったのだ。


しばらく沈黙が落ちる。


ラファエルは、机の上の文書をそっと伏せた。

だが、その動作を、ヴァルターは見逃さなかった。


「卿」


少しだけ、低い声。


「今、隠したものは何ですか」


ラファエルの指先が、わずかに震えた。


「……お前には、関係ない」


「ないとは言わせません」


ぴしゃりと遮られた。


風が吹いた。

石畳を這う風。雨の匂いを含んで、夜気が冷たくなる。


「卿が何をしているのか……俺には、もうわかっている……と、思います」


「ヴァルター」


「なぜ、俺には言えないのですか?言わないのですか?あなたはいつも、大丈夫、ばかりだ」


ラファエルは、彼の視線を正面から受け止めることができなかった。

ヴァルターの青い瞳の奥には、強い感情があった。

でも、それを何と呼べばいいのか。

分からないのは、ラファエル自身だった。


──どうしたらいい?


ヴァルターが、近づく。


あと一歩。


「……もう、よく分からなくなったんだ」


ふと、ラファエルの口から零れた。

言ってしまった。

何を信じればいいのか。

どこまでが真実で、どこまでが欺瞞なのか。

この場所にいる限り、何も見えなくなる。

誓約を唱えても、唱えても、染みついた疑念は消えない。


「どうすればいい?」


囁くように、頼るように、ラファエルは問うた。

ヴァルターの指が、ぐっと拳を握るのが見えた。

彼は、何かを飲み込んだ。


息を潜めるようにして、感情を押し込める。


──この手を伸ばせば、抱きしめてしまいそうだった。


けれど、それをしたら、もう後戻りできない。

だから。


「……俺が、います」


ただそう言った。


ラファエルは、そっと瞼を閉じる。


風が止まる。雨の匂いが濃くなる。

夜が深くなるにつれ、虫の声はひとつ、またひとつと消えていった。


今夜の大雨が、すべてを洗い流してくれたらいいのに。

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