夏のある日~ヴァルターの学院生活~
初めての講堂に足を踏み入れた時には、その天井の高さにおののいたものだ。入学してしばらく経ち、もう何とも思わなくなっていた。
外はゆだるような暑さでも、白々とひんやりした壁が熱を遮る。
教師が前に立ち、黒板に文字を刻みながら問いかける。
「宝石の本当の価値とは何だ?」
生徒たちは口々に答えた。輝き、希少性、資産価値。
教師は首を振り、
「それもあるが、最も重要なのは——地脈との共鳴だ」
と言った。
「地脈とは、大地に流れる力のことだ。鉱石や宝石は、地脈の流れを受け、その力を宿す」
ヴァルターは眉をひそめた。そんな話は聞いたことがない。
「この地にある神殿が、宝石を管理しているのもそのためだ。適切に配置し、祈りと共に扱えば、人々や土地に良い影響を与える」
「……それは、神殿の秘伝にあたる話じゃないのですか?」
ヴァルターの問いに、教師はため息をついた。
「かつてはな。だが、本来は技術の一つにすぎない。神殿が独占しているだけだ」
ヴァルターはこの言葉をきいて初めて、神殿に対して小さな疑問を抱いた。
教師は杖を手にし、講堂の黒板に精緻な図を描く。そこには、地脈を示す幾何学的な線が交差し、その中心に神殿の構造が刻まれていた。
「神殿とは、単なる信仰の場ではない」
「この地の地脈は、通常ならば一定の流れを持ち、土地を潤し、生命を支える。しかし、宝石の持つ力を適切に調律しなければ、その力は制御を失い、乱れる」
ヴァルターは黒板の図を見つめた。神殿の建物全体が、まるで巨大な共鳴装置のように配置されていた。
「この神殿こそが、宝石の共鳴を調律し、人々に“恵み”をもたらすための中心機構なのだ」
「では、もし神殿が失われたら?」
誰かがそう問いかけた。
先生は静かに答えた。
「地脈の流れは狂い、宝石は共鳴を失い、その恩恵も失われるだろう」
ヴァルターは入学前、貴族学院がどんな世界なのか、漠然としたイメージしか持っていなかった。学ぶべきことは山ほどあるし、貴族の子息としての礼儀作法や戦術学、剣術、経済学に至るまで、必要な科目は想像以上に多岐にわたる。予想以上に宝石文化の授業が多いが、神殿学校の授業でやった基礎が生きていてそんなに辛くはない。
だが――そんなものはどうでもよかった。
学院での生活が始まってからも、ヴァルターの頭の片隅にはいつもラファエルがいた。
(ラーは今も、神殿であの誓約を唱えてるんだろうか)
その日の授業を終えた学院の庭には陽射しが満ち、草木は生い茂り、空には入道雲が浮かぶ。何百年前の生徒たちが過ごした時代と変わらぬ景色が、ここにはあった。
だが、ヴァルターの心は晴れなかった。
ラファエルから届く手紙は、いつも変わらない。
淡々としていて、どこにも感情の揺れが見えない。
「変わりない。大丈夫。」
そう書かれた文字は、まるで呪いのように、ヴァルターの心に突き刺さった。
(本当か?本当に変わりないのか?)
夜、寮の自室で手紙を開いたヴァルターは、机の上に肘をつき、深く息をついた。
寮の団欒室からは、他の生徒たちの楽しげな声が響いてくる。
気の合う仲間たちはできた。剣術の授業では同輩と競い合い、時に勝ち、時に負けながら技を磨いている。教養の授業では貴族としての作法を学び、武人の家系らしく戦術や政治の基礎知識も身につけつつあった。宝石だって神殿に通っていた時より上手に磨ける。
表向きは、学院生活に馴染んでいる。だが、ヴァルターは知っていた。
本当は、自分の心はここはない。
ペンを取り、ラファエルに返事を書く。
「卿が無理をしていないなら、それでいい」
「ただ、卿が本当に望むことを教えてください」
それだけ書いて、しばらくペンを止める。
窓の外では、夏の夜風が吹いていた。
向日葵が月明かりに照らされ、揺れている。
ヴァルターは窓を開け、涼しい風を感じながら、ラファエルの言葉を反芻する。
「変わりない。大丈夫。」
――そんなはずがないだろう。
神殿の誓約を唱えながら、何も感じないはずがない。
あの澄んだ金の瞳が、ただ日々を無機質に過ごすだけで満足しているとは思えない。
知っているのか?神殿がきなくさいこと。お前、そういうこと、許せるタイプじゃないだろ。
ヴァルターはもう、あの頃のように無邪気に「ラー!」と呼べない。
ラファエルが何を考えているのか、知りたくても簡単には聞けなくなった。
けれど。
(俺がいない間も、ラーは一人で戦ってるのかもしれない)
手紙を封じ、紋章の蝋印を押す。
夜風が吹き込む窓辺で、ヴァルターは誓った。
「いつか、俺が、迎えに行きます」
それまでに、もっと強くなる。
どんな策を講じようとも、どんな相手を前にしようとも、ラファエルを縛る鎖を断ち切れるだけの力を――。
それを持って、ラファエルの元へ戻る。
手紙ではなく、言葉で伝えるために。




