夏のある日〜ラファエルの日常〜
春が終わると、夏が訪れる。当たり前のように。
今年は雨季が短く、夏は想定より早く来た。
神殿の外では、木々が濃い緑をたたえ、陽射しは日増しに強さを増している。空はどこまでも澄み渡り、風が運ぶのは青草の香り。しかし、そのすべては厚い石壁に遮られ、神殿の中には届かない。
ラファエル・エゼキエル・アストルナクスの世界に、季節の移ろいはほとんど存在しなかった。
今日も変わらぬ一日が始まる。
星々よ、聞き届けたまえ。
我らは久遠の輝きをまとう者なり。
嵐は過ぎ、波は砕けるとも、
アストルナクスの礎は揺るがず、朽ちることなく、永遠に連なりゆかん。
……何度、唱えただろう。
誓約の言葉は、祈りの言葉は、ラファエルの喉を通って静かに消えていく。
繰り返し、繰り返し。
この言葉を唱えれば、迷いが消える。
この言葉を信じれば、すべてが正しく動く。
──そう、信じたかった。
しかし、それはただの願望でしかなかった。
神殿の奥深くで、ラファエルは何度目かの深いため息をついた。
神官長のもとを訪れる者は相変わらず多い。
しかし、それは単なる巡礼者ではなさそうだ。
他国の重鎮。商人。貴族。
彼らの目は、礼拝の光に満ちてなどいなかった。
値踏みするような視線。打算に満ちた言葉。
まるで、品定めをするようにラファエルを見て、そして何かを納得したように目を伏せる。
(……よほど私は、神官爵を継ぎたがっていると思われているらしい)
興味はない、と言ってしまえば簡単だろう。
だが、彼らの目は、それを許さなかった。
そのたびに、副神官長が静かに立ち、彼の前に壁を作る。
「次期爵は、今はまだ客人と謁見するべきではありませんので」
慇懃な口調で、しかし確実に。
そうして、値踏みするような目から彼を遠ざける。
(……本意ではないのだろうな)
ラファエルは知っている。
副神官長は神官爵の座を望んでいる。
それでも彼は、その望みを口にすることはない。
ラファエルが後継者であると決まっている限り、何も変わらない。
神殿の秩序を守るために、副神官長は今日も己を殺している。
そして、ラファエルもまた、己を殺している。
神官長の悪行を示す証拠が、ゆっくりと積み上がっていく。
金の流れ。
特権の濫用。
贈賄。
隠された取引。
すべて、静かに集めた。
誰にも気づかれぬように。
裏切りだった。
空腹知らずで過ごさせてもらった神殿を、信仰の場を、自らの手で貶める行為だった。
(それでも──私は、”ここ”を終わらせなければならない)
だが、その信念は、時折揺らぐ。
本当に、私はこの神殿を潰してしまっていいのか。
ここに集う信徒たちの想いはどうなる?
私は神に見捨てられるのではないか?
ラファエルは天井を仰いだ。
神は何も答えない。
いや、そもそも神など、本当に存在するのだろうか。
誓約を唱える。
それでも、心は落ち着かない。
何度唱えても、満たされることはなかった。
(……おかしいな)
かつては、これで何もかもが正しいと思えていたのに。
ラファエルは、ふと視線を落とすと、そこには開封したばかりの手紙があった。
ヴァルターからのものだ。筆跡は、以前よりも力強い。
短い言葉の中に、彼の真っ直ぐな性格がにじみ出ている。
「学院の授業は忙しいが、充実している。卿に見せたいものがある」
「次の休暇に戻れるかわからないが、また手紙を書く」
遠慮がちだった最初の手紙とは違う。
それはまるで、以前のヴァルターが戻ってきたかのような、素直な言葉だった。
けれど──
そこに書かれているのは、彼の新しい世界のことばかり。
もう、神殿にはいない。
もう、隣にはいない。
手を伸ばしても、届かない。
(……どうしてこんなにも空っぽなんだろう)
ヴァルターが去ったことで、これほどまでに世界が薄くなるとは思わなかった。
自分は何も変わっていないはずなのに。
毎日、同じ誓約を唱え、同じように過ごし、今までと同じ空間で生きているはずなのに。
まるで、私のいる世界だけが取り残されたような気がする。
神殿の壁の向こうには、青空が広がっているのだろうか。
ヴァルターのいる世界は、どんな色をしているのだろうか。
自室に戻ったラファエルは、筆を執った。
変わらない。
大丈夫だ。
そう書いて封をした。
嘘だとわかっていた。それでも、そう書くことしかできなかった。
だって、ヴァルターがいない夏を、一人で乗り切るしかないのだから。




