表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

夏のある日〜ラファエルの日常〜

春が終わると、夏が訪れる。当たり前のように。

今年は雨季が短く、夏は想定より早く来た。


神殿の外では、木々が濃い緑をたたえ、陽射しは日増しに強さを増している。空はどこまでも澄み渡り、風が運ぶのは青草の香り。しかし、そのすべては厚い石壁に遮られ、神殿の中には届かない。


ラファエル・エゼキエル・アストルナクスの世界に、季節の移ろいはほとんど存在しなかった。


今日も変わらぬ一日が始まる。


 星々よ、聞き届けたまえ。

 我らは久遠の輝きをまとう者なり。

 嵐は過ぎ、波は砕けるとも、

 アストルナクスの礎は揺るがず、朽ちることなく、永遠に連なりゆかん。


……何度、唱えただろう。


誓約の言葉は、祈りの言葉は、ラファエルの喉を通って静かに消えていく。

繰り返し、繰り返し。


この言葉を唱えれば、迷いが消える。

この言葉を信じれば、すべてが正しく動く。


──そう、信じたかった。


しかし、それはただの願望でしかなかった。

神殿の奥深くで、ラファエルは何度目かの深いため息をついた。




神官長のもとを訪れる者は相変わらず多い。

しかし、それは単なる巡礼者ではなさそうだ。

他国の重鎮。商人。貴族。

彼らの目は、礼拝の光に満ちてなどいなかった。

値踏みするような視線。打算に満ちた言葉。

まるで、品定めをするようにラファエルを見て、そして何かを納得したように目を伏せる。


(……よほど私は、神官爵を継ぎたがっていると思われているらしい)


興味はない、と言ってしまえば簡単だろう。

だが、彼らの目は、それを許さなかった。


そのたびに、副神官長が静かに立ち、彼の前に壁を作る。


「次期爵は、今はまだ客人と謁見するべきではありませんので」


慇懃な口調で、しかし確実に。


そうして、値踏みするような目から彼を遠ざける。


(……本意ではないのだろうな)


ラファエルは知っている。


副神官長は神官爵の座を望んでいる。

それでも彼は、その望みを口にすることはない。

ラファエルが後継者であると決まっている限り、何も変わらない。

神殿の秩序を守るために、副神官長は今日も己を殺している。

そして、ラファエルもまた、己を殺している。






神官長の悪行を示す証拠が、ゆっくりと積み上がっていく。


金の流れ。

特権の濫用。

贈賄。

隠された取引。


すべて、静かに集めた。

誰にも気づかれぬように。


裏切りだった。

空腹知らずで過ごさせてもらった神殿を、信仰の場を、自らの手で貶める行為だった。


(それでも──私は、”ここ”を終わらせなければならない)


だが、その信念は、時折揺らぐ。


本当に、私はこの神殿を潰してしまっていいのか。

ここに集う信徒たちの想いはどうなる?

私は神に見捨てられるのではないか?


ラファエルは天井を仰いだ。


神は何も答えない。


いや、そもそも神など、本当に存在するのだろうか。


誓約を唱える。

それでも、心は落ち着かない。

何度唱えても、満たされることはなかった。


(……おかしいな)


かつては、これで何もかもが正しいと思えていたのに。


ラファエルは、ふと視線を落とすと、そこには開封したばかりの手紙があった。

ヴァルターからのものだ。筆跡は、以前よりも力強い。

短い言葉の中に、彼の真っ直ぐな性格がにじみ出ている。


「学院の授業は忙しいが、充実している。卿に見せたいものがある」

「次の休暇に戻れるかわからないが、また手紙を書く」


遠慮がちだった最初の手紙とは違う。

それはまるで、以前のヴァルターが戻ってきたかのような、素直な言葉だった。


けれど──


そこに書かれているのは、彼の新しい世界のことばかり。


もう、神殿にはいない。

もう、隣にはいない。


手を伸ばしても、届かない。


(……どうしてこんなにも空っぽなんだろう)


ヴァルターが去ったことで、これほどまでに世界が薄くなるとは思わなかった。

自分は何も変わっていないはずなのに。

毎日、同じ誓約を唱え、同じように過ごし、今までと同じ空間で生きているはずなのに。


まるで、私のいる世界だけが取り残されたような気がする。


神殿の壁の向こうには、青空が広がっているのだろうか。

ヴァルターのいる世界は、どんな色をしているのだろうか。




自室に戻ったラファエルは、筆を執った。


変わらない。

大丈夫だ。


そう書いて封をした。


嘘だとわかっていた。それでも、そう書くことしかできなかった。

だって、ヴァルターがいない夏を、一人で乗り切るしかないのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ