冬の静寂、届かぬ名前
冬は、神殿の静けさをいっそう際立たせた。
白く覆われた回廊は、まるで時が止まったかのように凛とした空気を湛えている。
夜ごとに冷え込む石造りの建物の中、氷の結晶が窓の隅に小さく光り、かすかな吐息すら白く染まるほどだった。
ヴァルター・エクサルディス・カエレスティスは、静かに雪の降る庭を歩いていた。
空は厚い雲に覆われ、世界は一面の灰色。
鐘の音が遠くで響き、その音が積もった雪に吸い込まれていくようだった。
彼の手の中には、青い小さな宝石。
手作りのカットが施されたそれは、ヴァルターが初めて本格的に磨いた石だった。
「……ラ、いや、卿」
ヴァルターは立ち止まり、手の中の石をじっと見つめた。
彼はもう、ラファエルを「ラー」とは呼べなくなっていた。
かつては当たり前のように、無邪気にそう呼んでいた。
ラファエルも、優しく微笑んでくれた。
だが、それはもう許されないことのように思えた。
彼はいつからか、ラファエルを「卿」と呼ぶようになった。
その響きは、彼らの間にかつてなかった距離を生み出している。
神殿の一室。
薄明かりの中、ラファエルは窓辺に立っていた。
外の景色をぼんやりと眺めながら、指先で窓枠をなぞる。
ふと、背後でコンコンと音がして、扉が開いた。
「卿、お時間をいただけますか」
ラファエルが振り返ると、そこに立っていたのはヴァルターだった。
(……背が伸びたな)
かつては見上げてきた少年が、今や自分と変わらぬほどの背丈になっている。
それどころか、肩幅も広くなり、体つきはすでに武人のそれに近づいた。
だが、声変わりしかけた声の奥に、かつての面影がかすかに残っている。
「どうした、ヴァルター」
「……これを」
ヴァルターは、小さな宝石を差し出した。
ラファエルはそれを手に取り、指先でそっと撫でる。
粗削りではあるが、彼の努力が刻まれた美しい石だった。
「お前が磨いたのか?」
「……はい」
ヴァルターはぎこちなく頷いた。
その間も、ラファエルを真っ直ぐに見つめている。
「……よくできている」
ラファエルは微笑んだ。
「お前の瞳の色だ」
その言葉に、ヴァルターの喉がわずかに動いた。
「……ありがとうございます」
まるで硬質な鉱石のように慎重な声。
けれど、その奥に潜む感情は、隠しきれないものだった。
冬の夜は、ひどく静かだ。
ヴァルターは、自室の机に突っ伏していた。
窓の外には、しんしんと降り積もる雪。
(もう、あの頃には戻れないのか)
かつて、無邪気に手を引いていた幼い自分。
そして、それを優しく受け止めてくれていたラファエル。
だが、今の彼は違う。
彼はすでに「神殿の人間」ではなく、「アストルナクスの後継者」だ。
自分はただの一介の武人であり、節度を持ち、敬意を持って接するべき相手。
それは、わかっているはずだった。
けれど、どうしても納得できない感情がある。
ラファエルが自分を見つめるとき、優しく微笑むたびに、
胸の奥が、鈍く疼くような感覚を覚えてしまう。
(……あの人は、俺にとって「敬うべき存在」じゃない)
この気持ちを「憧れ」や「敬意」だけで片付けることはできなかった。
——だが、それを認めてしまったら、何かが変わってしまう気がして。
ヴァルターは、机の上に広げられた書物を握りしめた。
雪の音が、ただ静かに降り積もる。
それは、彼の心の奥深くに積もる、未だ触れられぬ想いと同じだった。
雪が降り続いていた。神殿の中庭を白く染め、静寂を深める冬の景色。自分の前を歩くヴァルターの背中が、白銀の世界の中でひときわ際立って見えた。
成長したな──と、ふと考える。
かつては陽気な子犬のように懐いてきて、どこへ行くにも後ろをついてきた幼いヴァルター。無邪気に「ラー!」と呼び、いつでも笑顔だったこどもが、今では堂々とした少年になり、男性になりかけている。
(卿って、呼んでくるんだよな)
呼びかける声は、妙に距離を感じさせた。
その違和感にはしばらく気づかなかった。最初は、彼なりの成長の証なのだと思った。神殿での教育を受け、礼儀を知り、敬語を学び、学院入学を前にして、大人になろうとしているのだと。
だが、今になってようやく気づく。
ヴァルターは、私から距離を置こうとしている。
それは彼が望んでいることなのか、それとも──そうしなければならないと思っているだけなのか。
「ヴァルター」
名前を呼ぶと、彼はわずかに動揺したように見えた。けれど、体をラファエルの方に向け一瞬目が合うと、その後すぐに静かに目を伏せる。
「……何でしょうか、卿」
敬語。いつからか、ヴァルターはこうして話すようになった。幼い頃のように無邪気に甘えてくることはない。
距離を感じる。
それなのに、ラファエルが歩み寄ることは許されないのだと、本能的に理解していた。
彼はもう、私を弟のように慕う少年ではない。
目の前にいるのは、鋭い瞳を持つ青年。
──あの頃とは、違う。
「……最近、冷えるな」
何気なく言った言葉に、ヴァルターは一瞬だけ眉を動かした。
「ええ、今年の冬は特に寒いようです」
「風邪を引かないようにしろ」
「……卿こそ」
わずかに息を呑む。
今の言葉には、ほんの少しの感情が滲んでいた。
ずっと距離を取ろうとしていたヴァルターの声に、確かに微かな優しさがあった。
(……ああ、そうか)
私は微笑んだ。
ヴァルターは、無理をしているのだ。
私と距離を取らなければならないと思っている。でも、それが完全にはできない。だから、こうして時折、本音が零れる。
「ヴァルター」
私は彼の名を、もう一度呼んだ。
「……はい」
敬語で返す彼に、静かに言葉を紡ぐ。
「私のことは、お前が呼びたいように呼んでくれて構わないんだよ」
「……」
一瞬、ヴァルターの瞳が揺れた。
けれど、彼は俯き、雪を踏みしめる音だけが響いた。
「……お気遣い、痛み入ります」
また、敬語だ。
けれど、私はもう何も言わなかった。
ヴァルターの心は、少年の頃とは違う。彼はもう、ただの弟のような存在ではない。
だから、待つことにした。
彼が、自分の心と向き合うその日まで。




