光の中の子犬
それは、夏の始まりのことだった。
神殿の庭に差し込む光が、木漏れ日となって石畳を照らしていた。
木々の葉は緑を深め、僅かな風が夏の到来を知らせるように枝葉を揺らしている。
どこかから鳥の囀りが響き、小さな花々が朝露をまといながら陽射しに煌めいていた。
今日も、ラファエルは誓約を唱え、神官長のもとへ向かう準備をする。
(毎朝、変わらないな)
この神殿にいる限り、彼の一日は決まっている。
誓約を唱え、学びを受け、静かに過ごす。
余計なことを考える暇などない――はずだった。
「ねえ、きみ、名前は?」
声がした。
敷石の上に、小さな影が立っていた。
灰色の髪が陽光を反射し、澄んだ青い瞳がきらきらと輝く。
まだ五歳くらいの幼い少年だった。ラファエルよりだいぶ小さい。
「……今の声は、君かい?」
ラファエルは少し驚いたように返した。間近に子どもを見たのは随分久しぶりで、実際に珍しい機会であることは確かだ。
神殿では、名前で呼びかけられることがほとんどない。
神官たちは「御子」や「後継者」としか呼ばないし、その他の者たちは形式的な敬称を使う。
けれど、この子はそんなことは気にしていないらしい。
「そうだよ! ぼくヴァルター!」
彼は無邪気に胸を張った。
「ヴァルター・カエレスティス!」
まるで自分の名前を誇るように、得意げに言う。
「……ラファエルだ」
目の前にしゃがんだラファエルがそう名乗ると、ヴァルターはその名を繰り返し、小さな口で音を転がすように何度か試した。
「ラファ、エル……ラファ……ラー……」
ふいに彼の顔がぱっと明るくなった。
「ラー!」
ラファエルは、一瞬、呆気に取られた。
「……私のことか?」
「うん!」
ヴァルターはにこっと笑い、ラファエルの膝にしがみついた。バランスを崩しそうになったが、ヴァルターを転ばせないように気を遣いつつ、元の姿勢に戻ってから静かに立ち上がった。
「ラー! 遊ぼ!」
ラファエルは一瞬、迷った。
庭には夏の風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。
白い花が風に揺れ、どこかで草の香りが漂う。
蝉の鳴き声が響き、夏の訪れを告げていた。
今朝の誓約は終わったし、神官長のところへ行っても、概ね毎日来客中であるし、毎日この時間に一応部屋を覗いて会釈をするだけだ。急ぎの用事はない、と判断した。
「……少しだけな」
ヴァルターはぱっと顔を輝かせた。
「やった!」
彼は子犬のように駆け出し、ラファエルの手を引く。
「こっちこっち!」
ラファエルは、微かに笑った。
神殿では、すべての行動に意味が求められる。
誓約、祈り、戒律——どれも重く、そこに自由はなかった。
けれど、この幼い少年は、ただまっすぐに笑っていた。
「ほら、ラー! 早く!」
陽射しの下で駆け回るヴァルターを見ながら、ラファエルは思った。こんな無邪気な笑顔を、俺はいつ失ったんだろう?




