#4 夜の魔物・下②
その現代美術館はわたしが想像していたよりずっと立派だった。広大な敷地にま白い箱のような棟がいくつか点在し、それで最奥にいちばん巨大な箱がある。とりあえず、奥の棟を最終目標に、ふらふら歩いていくことにきめる。
ユナは始終たのしそうに、浮ついた足取りでわたしのとなりを歩いた。広場をゆき、ひとつ箱にはいり、ほうぼうに展示される絵画や立体をうつくしい瞳で見つめた。彼女にはその作品群がどう感じられて、そしてノートに書き記そうとしているのだろう。わたしは作品を見なかった。ただユナを見ていた。
わたしのまえで、すばらしい作品たちは、しかしなんの意味性をも持たなかった。翻訳されることのないモールス信号のように、すべてが無為な記号の連続に思えてしかたなかった。研ぎ澄まされた技巧とたましいの向こう側にあるうつくしさがわからない。そうだ、これがいやで、わたしは美術館に訪れなくなったのだ。なにもわからないのがつらいのではない。なにもわからないことで、わたしの胸のうちにあったはずのひとかけらのたましいが、空虚に灼かれ滅ぼされていること――それを思い知るのが、つらかった。
頭痛がする。わたしは歩きながら、ユナの右手を握った。彼女はあたりまえのようにぎゅっと握りかえしてくれる。熱をもったそのてのひらだけに意味があればいいと、思う。
最奥の棟に向かう。そのころには、わたしはもうだめになりそうだったが、まだ歩けている、最後までユナのとなりにいたい。彼女は心配そうにわたしの顔を覗きこんで、すこし休むか訊いた。わたしは首を横に振った。どこか座ると、もう二度と立ち上がれない気がした。
はいると、なにか特別な展覧会をやっているようで、進路に沿って進んでいく、たん、たん、たん、と足音だけが響く館内に、わたしたちはいる。入口にあった展覧会の説明は目が滑って、ろくに読めない。抽象画。『リビドー〈黄色〉』と題された、ちいさな絵がある。夕陽に照らされた桟橋のような黄とも橙ともつかないような色が混ざりあい、渦をなす。ぐわんぐわんと揺れる世界で、ただユナの存在がきちんとかたちを得ている。わたしはユナのとなりに立つ。彼女が絵を眺めるその横顔がすきだ。三日月のように鋭くうつくしい、そのたましいのきらめきがすきだ。わたしはユナの向こう側にだけ、世界を見ている。
ひととおり見て回り、わたしはユナに手を引かれながら最奥の棟を出た。照りつける夏の陽射しが汗を灼き、また汗が噴きでる。彼女はわたしを木陰のベンチに座らせて、自販機で水を二本買ってきた。膝を屈ませ、わたしの顔を見上げると、ユナは切なそうな表情だった。そんな顔をしないでほしかった。
どれほど経っただろう、それでわたしたちはじっと木陰に息を潜めて、ただぼんやり座っていた。地響きのようなヒグラシの声に囲まれ、退路を断たれた感覚がした。それでも、時は静かに息を吹きかえし、陽は微かに傾いていく。そろそろ出ようか、とわたしが目をあわせていうと、彼女はほっとしたように目を細めて肯いた。
帰り、ショップでカタログと、絵葉書を数枚買った。ユナはコレクションのために、そしてわたしはお土産にするために。どこでも美術館にいったときは、こうして絵葉書を買って、院生のさつきさんに持っていくのがひとつ習慣じみていたところがある。一年ぶりにわたしはそのことを思い出して、それで旅行がおわったら、アトリエにいこうと思った。夏季休業のころだろうと、さつきさんは、どうせアトリエに詰めているはずだ。あのひとは、もはやあそこが家みたいなものなんだから。
わたしは車をゆっくりと走らせ、旅館への道のりをぼんやりといく。中途に昨日訪れたアーケードの商店街があった。そこでスケッチブックと簡素な画材を買った。海を描こうと思った。
§
夕食後、わたしたちは広縁に向かいあって座り、旅のおわりをしんとした空気で迎えていた。わたしは窓向こうに見える、暗いくらい夜の海を見ながら鉛筆を動かす。すくない街灯に照らされた夜の浜辺は、ここからではまともに見えなかった。だからわたしはほぼ手癖で波を描き、視線を海に向けるのはきまって右手が疲れたときだった。
閑散とした文房具屋で買った2Bの鉛筆は、その安っぽさが思いのほか手に馴染んだ。最初、白紙のスケッチブックを開いたときは、わたしにはなにも描けないのではないかという恐怖が身を凍らせたものの、いざ線を引くとなぜか筆は進み、微妙にやわらかい芯で波を描くのはこころを落ち着かせた。鉛筆画は小学生のころからすきだった。大学にはいって描く機会は減ったが、鑿を握れないいまでは、いいリハビリだった。
ユナはブランデーを飲みながら、あまったケーキを平らげようと奮闘している。サプライズでちいさなホールケーキを頼んでいたらしいが、わたしが一ピースで満足してしまったので、のこりはすべてユナの腹に収まることになった。とはいえ、ユナはおとなしそうな顔をしてなにげにいっぱい食べるから、どれだけ豪華な夕食を平らげたあとでも、すこし多めのケーキくらいやすやすといける。まぁわたしにはどだい無理な量の食事が、彼女の細いからだにどう収まっているのか、謎ではある。
気づけば時刻は午後十時を過ぎ、わたしは色鉛筆で暗やみのなかに佇む海を色づけている。すでにケーキをおなかにおさめたユナは、ブランデーと水とをちょびっと飲みながら、わたしが手を動かすのを眺めていた。たまに視線をあわせると、彼女はとろんとした目でうれしそうに微笑む。イデア的な表情だった。
すてきな旅行だった。お金を使いすぎた節はあるけれど、それはわたしがクリーニング屋に詰めれば見なかったことにできそうな部分だった。色鉛筆を走らせる。安っぽい紙の質感が胸を撫ぜる。
もう三十分もすると、絵はいちおうの完成を見た。ひさしぶりに描いたにしては上出来で、ユナはねむそうな顔で絵を眺めると、「てんさい」とへんなり笑った。飲みすぎたらしい。
照明を消して、仲居さんが敷いた布団にわたしたちは寝転ぶ。昨日は二枚敷いてあった布団は、なぜか今日、おおきなそれが一枚になっていた。ユナはケタケタ笑っていた。たぶん、この子が一枚にしてくれと頼んだのだろう。
わたしはユナを抱き、ひっそりと目を閉じた。彼女は腕のなかですぐに寝息を立てはじめる。その規則正しさがあまりにも愛しくて、なんだか今日は眠れそうだった。静謐なシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。暗がりのなかに、愛しいひとのかたちがある。
*
どれぐらいねむったのだろう。わたしは暗やみに目を醒ました。はかなくうつくしい夢がおわったような暗い気持ちがあった。喉の渇きを覚える。ユナを起こさないよう、わたしは静かに起き上がり、備え付けの冷蔵庫にいれていた水をひとくち飲んだ。
充電ケーブルに繋がれたスマホをとりあげると、時刻がはっきり浮かびあがる。けれどわたしにはたった四つのアラビア数字が読めず、あきらめて、スマホを床に置いた。わたしは音を立てずに浴衣を着替え、無思考に部屋を出た。
そのまま旅館を出ると、街灯すら消えた町で、わたしは海に向かった。ただ波音だけがたしかにあった。空に月はなく、すべては暗がりに呑まれていた。永遠に向こう側などない。スマホをもってくればよかったと思う。
海辺の堤防までくると、潮のつんとしたにおいがずっと強まった。わたしはしばらく立ち尽くし、瞳にはなにも映らず、視界の奥になにがあるかわからない。一瞬、ちらりとひかりが見えた。水平線をきらめかせる。陸から海に向かう風が、わたしの髪を無造作にかき乱して、そのままひかりへと吸いこまれていった。
わたしは靴を脱ぎ、夜の砂浜へとおりる。足の裏には砂粒が盲目なまま引っつき、不快だった。やがて砂浜を歩く体力がずんずんと削られていき、もはや足を引きずるように歩いた。海の向こうにひかりがちらつく。わたしはものがなしい、夏の夜のきらめきを求めて歩く。波音が近く、さざ波が見える。
はてしない風がわたしを覚えている。砂浜には無数の足跡があった。だれかに見つめられている気がして、くるしい、くるしい、魔物がそこにいる。
つま先に冷たい水がひっかかって、胸の奥を掻きまわす。波音はわたしを導く。ビロードよりもうつくしい、高らかな音色だった。のびやかに波打つ、くるおしい響きだった。見えない月の引力によって、わたしは海向こうにきらめく遥かなひかりを目指す。足首まで海に浸かる。声。声がする。わたしは振りかえる。
「ぃこ、ぃこ!」
浴衣を着たままのユナが懸命に浜辺を走ってくる。足は砂にとられ、それでもかまわず、髪を振り乱して駆けてくる。わたしは立ち止まり、そしてユナはわたしを抱きしめると泣きながら浜まで引っぱった。わたしが驚いて転びそうになっても、ユナはずっと、もう無理やり引きずる勢いでわたしを動かした。「どうしたの」とわたしは訊く。「どうしたの、ユナ」――暗やみに添えるよう、そっと。
彼女は泣きながら、なにも答えなかった。そしてわたしの胸に顔を埋めると、さらに泣いた。その涙はマグマの熱をもってわたしのからだに沁みこんでいき、わたしにこころを与えた。わたしはようやく人間になった。
「落ち着いて、ユナ」と、わたしはやさしく抱きしめた。「だいじょうぶだから、落ち着いて。わたしはどこにもいったりしないから」
彼女にはいま、唇の動きが見えなくても、そう語りかけた。ゆあんゆあんと波音が響いて、海の向こうにはもうひかりなんてなかった。
ユナが落ち着くまで、わたしたちは、浜辺の、打ち寄せる波にあたらない場所を歩いた。わたしにはもはやなにも見えず、豊かな魔術はもうどこにも存在しえなかった。耳の奥で『サウンド・オブ・サイレンス』が鳴り、わたしはいちばん最初の歌詞を口ずさむ。わたしは泣いていた。石を彫らなくなったわたしは呪いから解き放たれたわけでもなく、ただ抜け殻だった。
ふいに服の裾が掴まれて、わたしはユナよりずっとまえを歩いていたことに気づいた。わたしは片手で涙を拭き、彼女を振りかえってすぐとなりに立った。涙の跡がくっきり残る彼女の頬に口づけをして、わたしはちいさなからだをぎゅっと抱きしめる。静寂のなかにすべてが閉ざされていた。暗やみの向こう側で、わたしは何者でもなかった。
(了)