#3 夜の魔物・上②
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旅館に着いたのは予定よりはやく、チェックインまでにはずっと時間があった。わたしたちはフロントに荷物を預け、近くのアーケード街に足を運ぶことにした。午後二時を回っていた。
今日はあまり遠くまで出かけるつもりはなく、拠点である旅館の、それこそ片道十分くらいの距離で散歩にいく。もとよりそのプランだったから、足を伸ばすのも、やはりほど近いアーケードの商店街ぐらいだろうとふたりで意見が一致して、海沿いを歩く。
ビーチのまんまえに位置する旅館には、海水浴を目当てに来る観光客が大勢泊まっているようだった。だが、ユナはカナヅチなので端から海にはいる気がなかったらしく、そもそも水着すら持ってきていない。わたしも真昼の海にはあまり興味がないので、ユナがいかないならきっとあの熱い砂浜のうえに立つことはないと思う。そういう意味でわたしたちは、だからへんてこな観光客ではあった。
しばらく海沿いに進み、やがてばっくり口を開けたアーケード街がすがたを現すと、わたしたちは手を繋いで黄色く透けた屋根のしたにはいった。商店街は、どこの地方のそれでもおなじように、お世辞にも活気があるとはいえない。幸いなことに、どこもかしこもシャッターが下りているような、目も当てられない惨状ではなかったが、いうて店々に元気があるわけでもないし、だからいまはよくても、十年後にはため息がでそうな光景だった。
ぼんやり店を眺めながら歩いていると、水着姿の観光客とすれ違い、それを目で追いながらユナは「うみ」と口を動かした。「いきたかった?」と、おそらく続ける。わたしは彼女の口の開閉を追いながら、けっこう本心から首を横に振った。薄い化粧の彼女はくすくす笑い、どうしてここに来たんだろうね、とでもいってしまいそうな雰囲気だった。たしかに、海にはいらないなら――とは思うが、オーシャンビューの露天風呂が気になったというだけでも、ここに決めてよかったと、わたしは思う。
で、わたしたちは寂れた商店街でちょっと浮いていそうな、洒落た雑貨屋にふらりと立ち寄った。いくつかの絵本と、それをモチーフにした生活雑貨が並ぶ幻想的な店内を、見ているだけでユナは面白そうにした。彼女はぐるりとゆったり見て回り、それから、かわいらしいくまの描かれたお皿をとって、わたしに見せてくる。
「お皿、買うの」とおおきく口を動かしながら訊くと、彼女は肯き、おもいのほか長めのことばを口パクした。ざんねんながら、わたしはそれを聞きとれるほどユナのスキルを受け継いではいなかった。彼女は、やっぱりだめか、といたずらげに微笑んで、スマホを取りだす。
「これから一緒に住むんだから」と、ユナはラインで送信してくる。「せっかくだし、かわいいお皿にしたくない?」
そうだね、とわたしは口元を緩めて、彼女が選んだお皿を受け取った。それからほかの食器も見ていると、店員さんがやってきて、ユナに話しかけるので、なるべくさりげなくわたしが入れ替わって話をした。かわいい水玉のエプロンを着た店員さんは甲斐甲斐しく働くひとで、わたしの手が埋まっているのに気づくとすぐカゴを持ってきてくれて、わたしとユナはそのなかに数組のお皿と、あと箸置きをふたついれた。
ユナはどうやら、お皿に描かれていたくまのことが気に入ったみたいで、手に取るものすべてにそのくまがいた。いちおう、くまにも二匹いて、一匹は茶色いテディベアで、もう一匹はバニラアイスみたいな色したふとったシロクマ。それを一匹ずつ、つまり食器ごとに二種類買う。彼女の想定としては、わたしが茶色いくまの、ユナが白いくまの食器を使うという感じらしかった。
そんなふうに、とにかくペアでものを選んでいるのを、しかし店員さんはわたしたちがずいぶん仲のよい友達だからだと思ったみたいで、なんだかペアマグカップも勧めてくれたときに「お友達で買う人も多いんですよ」といわれて、わたしはちょっと笑ってしまった。ユナは、ほとんど店員さんを気にかけていなかったのでそのことばに気づいていないようだったが、ちゃんと気づいていたにしても、わたしとおなじ反応をしたと思う。
どうであれ、ユナはそのペアマグカップも気に入った。もちろん、茶色いくまと、白いくまのペアで(ちなみに、茶色のほうは赤いマグカップ、白のほうは青いマグカップに、くまがちょこんと描かれている)、あっさりとわたしの持つカゴにいれた。ついでだから、そのくまが出る絵本も買った。会計を済ませて店を出ると、紙袋がふたつできて、ユナはほくほくした顔で、軽いほうの紙袋を大事そうに抱えて歩いた。
それからアーケード街を奥まで歩き、しばらく見て回ってから、ころあいになったので旅館に戻った。袋はもちろん増え、わたしは両手にどっさりとぶらさげながら海沿いの道を歩いた。海水浴をたのしむひとたちの嬌声が遠くに聞こえて、わたしはなんとなく、ユナのことばを思い出していた。
「これから一緒に住むんだから」……わたしからいいだしたくせに、いざユナのことばでそれを聞くと、思わずどきりとする。それですこし口元が緩んでしまったのは、やっぱり仕方ないことだろう。わたしはしあわせものだと思う。八月のかんかん照りに、潮風は重い。
車に荷物を片付けてから、チェックインする。通されたのは宿の二階、和の落ち着いた雰囲気が居心地よい客室だった。すでに荷物が運び込まれており、トランクケースがふたつ、畳のすみに居座っていた。
ユナは、歩き疲れたらしい、冷房の風が真正面に吹きつけるところに居座って、しばらく動かない。わたしもしばらくはとなりにいたが、だんだん肌寒くなって、なんとなく広縁に出た。外の景色を見晴らせば、この部屋からも海が見えて、海水浴に興じる人影がちらほらと認められる。とはいえ、ここから見えるのはビーチのすみのほうで、そもそもひとはまばらで、時間帯としても帰り支度をはじめているころだった。
ふりかえってユナを見やると、彼女も冷房が寒くなったみたいで、場所を離れて卓袱台のまえ、くつろいでいる。車に積んでいなかったらしい買ったばかりの絵本を開き、やさしい笑みを浮かべながら読んでいるのがかわいらしかった。
いまは午後四時を過ぎ、風呂にいくにもすこし早く、かといって腹も空いていない。宙ぶらりんで手持無沙汰な時間だった。わたしは広縁に据え置かれていた椅子に腰かける。背もたれは沈み込みすぎるでも、硬すぎるでもないクッションで、思いのほか座り心地がよかった。わたしは両目をじっと閉じる。ねむいわけではなく、ねむかったところでねむれないのだが、それで目を閉じることに人間らしさがあるような幻想を、このごろ信仰している。
冷房の稼働音が消え入り、静寂がある。ひとつ、ユナが絵本のページをめくる音だけがたしかに存在して、世界は彼女の所作によってできあがる。ここに虚無はない。
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ユナはひとあたりのいい気さくな女の子だったが、どうやら大学では居場所がないらしいことはわたしにもなんとなく察しがついていた。聞こえに困難を抱えつつも持ちまえの忍耐と頭脳で故郷を出、なんとか市内の知れ渡った大学に進学する――そんな彼女を待ち受けていた現実は、そうやすやすと潜り抜けられるものではなく、もちろん厳しかったのだと思う。わたしは彼女の大学生活をほとんど知らないし、彼女もすすんで話そうとはしないけれど、用もなくクリーニング屋に足を運ぶユナのすがたを見て、その瞳の奥の微妙な翳りに気を向けずにはいられなかった。
そういうとき、わたしたちはきまって、バイト終わりに街へと繰り出す。ひとどおりの多い夜道をふたりで並び、なんとなく気になった店でごはんを食べて、駅で別れる。一回生の、たしか夏ごろからはじまったこの慣習は、そう高くない頻度でずっと続いた。彼女は疲れて肩が重い日に、そしてほとんどは週末に、わたしの働くクリーニング屋に顔を出して誘って来る。何度も待たせるのも気が引けたから、シフトを伝えるようになると、それから彼女はバイト終わりを狙いすましてやってくるようになった。クリーニング屋からすこし歩けば、夜でもそれなりに活気のある繁華街に出る。デートのような、そうではないような、近くもなく遠くもない距離感でネオンのしたを歩くその時間が、わたしにとってはもどかしく、それでたまらなくすきだった。
十二月の、雪がちらつく夜だった。制服を着替えてクリーニング屋の裏口から出ると、ちょうど通りの向こうからユナが歩いてくるところだった。
週末だから、わたしはすんなり了解して、彼女に向かっておおきく手を振る。すると手袋した右手で振りかえして、ユナはそのまま赤いマフラーをなびかせ駆けてきた。それで、眉尻をさげて、「さむいね」と声に出す。わたしは肯く。彼女は笑う。その表情はいつもよりずっとくたびれて、ひび割れた薄氷のようにものがなしかった。
繁華街まで出ると、わたしたちは橙色の照明がやさしいバルにはいった。十九歳でも、冬になると、もう酒を飲むことにふたりとも慣れていて、あたりまえのようにビールとチューハイを頼んだ。まぁ、ユナはぎりぎり十八だったけれど。
わたしたちは、なにを話すというわけでもなく、たまに料理がうまいといいあって週末の夜をつぶした。しばらく居るとバルはどんどん賑わいを見せてきて、すこしうるさくなったので店を出た。一時間ほどでわたしはビールを二杯、ユナはチューハイと水を一杯ずつ飲んだ。
外は寒く、ほのかに火照る頬をつんざくように夜風が吹いていた。おなかはいい具合に膨れて、ふんわりとした多幸感が寒さをごまかす。わたしはいつものように、ユナを駅まで送ろうと道を歩いていたので、ふいに彼女が立ち止まると驚いてつまずきそうになった。
ユナは数歩はなれたところでくすくす笑って、「ごめん」と呟いた。そのことばが、ほかのことばとちがってやけにクリアに聞こえたから、なにか胸をしめつけられる感じがした。
わたしはゆっくり近づいて、ひとの流れのなか、ふたりで立ち止まり、「どうしたの」と口をはっきり動かして訊ねる。彼女は肩をすくめる。「もうすこし」、とたしかにいった。
ユナはわたしの手を掴み、夜の街を歩きはじめる。虚をつかれて、しかし手袋の肌触りが現実で、知らない展開にすこしアルコールが回った脳が追いついてこない。それでも、わたしはすぐに彼女のとなりに居直る。ネオンライトが眩しい。
いくつかの店をはしごして、いつのまにか終電が近くなっても、ユナは帰ろうとしなかった。そのころになると、いい加減に財布がこころもとなくなってきたので、ふたりで無茶な散財を笑いつつ、わたしのアパートまで歩いた。近所のコンビニでとどめの酒と、そしてユナはノートを一冊買った。わたしたちの一冊目となる筆談ノートだった。
散らかったアパートの一室で、わたしたちは酒を飲み、ノートに会話を書き連ねた。わたしは自前の緑のボールペンを、ユナはオレンジのボールペンを使った。最初は他愛のない会話をした。いった居酒屋のうまかった料理の話をして、それがなぜか、わたしが自炊できない話題に飛び火した。酒がずっと回ると、やがて彼女は大学でうまくいかないと悩みを綴り、ちょうど今朝、講義で発音をバカにされたことを書いた。彼女は、いつものことだと書き加えたけれど、泣き顔を見ればつよがりだとすぐにわかった。
夜が更けて、わたしたちはおなじシャワーを浴び、やがておなじベッドに眠った。裸のユナは、わたしの腕をまくらに、「うみ」とぼんやりいった。
「ぃこのこえは、うみのおとがする」
暗がりのなかで、わたしは彼女の瞳を見つめる。はずかしそうに笑って、彼女は、わたしの声について語った。つたない発音だったが、わたしを信頼してくれているその声は、やはりすんなりと理解できた。
遠く歪んだように聞こえる音のなかでも、わたしの声は、なにか波のような鳴り方でわかる……ユナは、そのようなことをぽつり、ぽつりといって、徐々におおきくなる微睡みのなかでささやき続けた。
リコ、わたしはリコの声がすき。わたしは波音を、この耳ではっきり聞いたことはないけれど、幼いころに連れてってもらった海の音色はのびやかに波打って、うつくしかった。リコの声は、それとおなじに聴こえる。はっきりとのびやかな音色をもって、わたしの耳に響く……
ユナはわたしの首筋にやわらかなキスをして、目を瞑り、やがて安らかな寝息を立てはじめた。カーテンの隙間から月の光が差しこみ、ユナの雪みたいに透き通った頬を永遠にきらめかせていた。わたしは彼女のあたまを腕に乗せたまま、静かに決意を固めていた。その日から、わたしのとなりにはずっと、ユナがいた。
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肩を揺すられて、目を開いた。見ると、ユナが必要なものをまとめて、温泉にいこうとしているみたいだった。広縁のちいさなテーブルに置いていたスマホは、時刻を午後五時半としている。思っていたより時が経つのははやい。
温泉はそれなりに混んでいて、子どもが多い印象だった。幼いおんなのこもいたし、母親に連れられた幼稚園児くらいのおとこのこもいた。きっと海で散々遊んできたんだろうに、それでずいぶん元気がありあまっているみたいで、おとなの声にまじってずっと高い声が反響しているのは面白かった。
で、ユナのめあての露天風呂は売り文句のとおりで、みごとに瀬戸内海を一望できるすてきな場所だった。まぁ、べつに海とひとつづきな感じではなかったが、絶景であることに違いはない。陽の暮れかかった海向こうを眺め、運転に凝ったからだをゆったりと漂わす。ユナはとなりで満足そうに肩まで浸かっていたから、それでわたしも満足だった。
部屋に戻ると、夕食の時間だった。仲居さんが運んでくる食事はすべて豪勢で、これで宿の値段はそう高くないのはずいぶん良心的だった。最近は小食なので食べきる自信はなかったが、そのぶんユナが食べてくれそうだから、あまり気にしないことにした。
ユナはトランクケースから筆談ノートを引っぱり出し、食事のあいだもたまに書いた。「明日の食事はもっと豪華だよ」というので、首を傾げると、「また誕生日忘れてる」と続けられた。そうだ、明日は二十一の誕生日だった。
これまでも自分の歳には無頓着に生きてきたが、最近はもっと、忘れっぽいという次元で誕生日を気にしていない。執着がないというより、執着ができない。自分では祝う気にならないというか、そもそも祝う気になることができない。胸にぽっかり空いた部分が、わたしの関心をことごとく飲みこんで、すべて虚空に消えていく。
わたしではない、わたしのなにかを祝福してくれるひとがとなりにいることは、だからうれしいことだった。それがユナなら、なおさらうれしい。わたしは彼女のおかげで、わたしでいられる気がする。
わたしはしあわせものだと思う。なんの不幸も、願ってはいけないくらいに。