#3 夜の魔物・上①
#3
はじめてユナとふたりきりで出かけたのは、地方のさびれた水族館だった。うだるような暑さに苛まれる、いまとおなじ八月のことだった。カーキのラパンで下道を、時間をかけてゆっくりといった。落ち着いた藍色のワンピースを着ていたユナは、助手席に座って、待ち遠しそうにスマホで水族館のホームページを見ていた。彼女はさかながすきみたいだった。
水族館のペアチケットをもってきたのはユナだった。よく知らないが、親戚に譲ってもらったらしいそのチケットを、まず真っ先にわたしにもってきてくれたというのでうれしかった。我ながら単純だが、それでも浮ついていたことを否定できなくて、わたしは彼女がすきだった。ほとんど理由もなく惹かれていた。えくぼを浮かべて静かに笑みをたたえる、その表情が胸をしめつけた。最初はろくに続けるつもりもなかったクリーニング屋のバイトを延々やっていたのも、不純な動機からだった。
水族館に着くと、ユナは無邪気な処女の顔で、水槽に囲まれた館内をはしゃぎまわった。薄暗い照明が彼女のつぶらなうつくしさを際立たせて、わたしもまたとなりで、笑顔を絶やすことがなかったと思う。目玉であるひときわ巨大な水槽では、嵐のようなイワシの大群とそれに巻き込まれるように生きる無数の魚たちが割拠して、それをまえに、彼女は瞳の奥を輝かせていた。わたしはおおきな水槽をバックに両手を広げるユナの写真を撮った。切り取られた一瞬のなかで彼女は永遠に若く、うつくしく、そして愛しい。わたしには写真のなかの女性が、なにかおとぎ話のお姫さまのような存在に思われて、しかし手を伸ばせば現実に彼女がいる。脳がとろけそうだった。
帰路、疲れ果てた彼女は助手席で寝こけたまま、家に着いても起きなかった。わたしはおだやかなその寝顔に息をのんで、思わずやわらかな頬に触れそうになって、気づいて手を引っ込めた。規則的に上下する肩をわたしはやさしく揺すって、彼女を起こす。やんわりと目を開く。くすりと笑って、「ぇちゃってた」と口に出した。わたしも、つられて笑う。わたしの知らないしあわせがそこにあって、暗がりに停まった車内に、眩しすぎる光をおびて愛がかたちをなしていた。彼女と出会えた僥倖にこころが震えていた。それでも、わたしはあと一歩の勇気が出せなくて、ただひとこと、「またね」としかいえない。すきの二文字もいえず、なにもできない、そのままで夏が終わる予感がして、実際にそのとおりになった。その日の晩から、夢に彼女を見るようになった。
§
道の駅のレストランで昼食をとることにした。瀬戸内海にほど近く、小洒落た内装のレストランからは、一面のガラス張りの向こうに真っ青な海が一望できる。なかなかに賑わっていて、まだ昼どきには早かったが席に通されるまで三十分かかった。案内されたのは眺めのよい窓際の席だった。わたしは海鮮丼を、ユナは日替わりの刺身定食をオーダーする。
八月の旅行は天候にも恵まれて、いまは高速をおりてすぐの道の駅に立ち寄ったところだった。ここは、ユナがいうには名の知れた道の駅みたいで、昼食をとるのでなくとも、もとから休憩ついでに寄りたいスポットだったらしい。小高い丘のうえに建つこの施設は、ひとつ展望台がおおきな魅力みたいで、映えるオブジェがあるとか、なんとか。食事をおえたら、ショップを覗いて、それから展望台に向かうことにきめた。
わたしの目の前に座るユナは、頬杖をつき、しばらく窓向こうの海を眺めていた。めざす旅館はここよりもっと海が近い、というよりほぼ真正面に建つようで、売りの露天風呂では瀬戸内海を一望できるどころか、温泉と海面とがひとつづきに見えるような景色だという。ほんとうかどうかは知らないが、すこしたのしみだった。わたしは旅のしおりを開く。几帳面なユナが手づくりした、ちいさな冊子である。
旅程をきめたのはほとんどユナで、わたしは旅館の場所以外ろくに調べてもいないので手持ちの情報にはあきらかに差があった。これについてはいつものことで、彼女はもちろん見越していて――それに、ユナはこういうものをつくる時間がすきらしいので、趣味と実益をかねて旅のしおりをまとめる。とはいえ、時間を細かく刻んでぎっしりスケジュールが組まれているわけではない。ユナが旅行先について調べるなかで惹かれた場所をいくつかピックアップし、そういう候補から行先をふたりできめて、わたしが車を走らせる。そのためにこのしおりはある。いってしまえば、このしおりをいちども開かず、ただ気ままにそこらを散歩したっていい。そういう旅行をしたことも、いちどある。
今回のしおりには、付近の観光名所や商店街、レジャー施設とひととおりのスポットが並べてあり、わたしはそれらをぼんやり眺めながら、ひとつ見つけた。この道の駅の情報だ。彼女の手書きのまるっこい文字と、プリントアウトして貼り付けてあるインスタグラムの投稿。わたしはあまりSNSをやらないが、ユナはけっこう、そういう手のものがすきだった。
わたしはぼんやりとページをめくり、ほかの観光地にも視線を滑らしていく。パワースポットで有名な神社、地方のおおらかさを残すアーケード街、ねこカフェ、それから……美術館もある。現代アートを中心に展示してあるというその美術館は、目立たないように冊子のいちばん最後、ちいさなスペースに、なるべく主張のないかたちでまとめられていた。わたしはしばし目を瞑って、それからしおりを閉じてユナを見やると、視線がぶつかった。
彼女はテーブルの隅にあったレストランのアンケート用紙を裏返すと、備え付けのペンで「眠いの?」と静かに書きつけた。わたしは、もう一本ペンをとって、「ちがうよ」と記す。
「いきたいところ、あった?」
ユナの問いかけにすこし悩んで、わたしは神社の名前を書いた。彼女はにっこりと豊かな表情を浮かべて、「気に入るとおもったの」とたしかな筆致で記した。
展望台にはずいぶんひとが集まって、瀬戸内海を背にした銀のハートのオブジェを背に、いくつかカップルが写真を撮っていた。あれやるの、と訊くと、ユナは愉快そうに肯いた。
浮かれたひとの一員になるのは悪くなかった。自分からやりたいとは思わないが、ユナがあそこで写真を撮りたいならわたしも撮りたかった。列になっていたので並ぶ。
実のところ、写真を撮ったところで、ユナがネットの海にそれを放流するなんてことはない。彼女はSNSがすきだけれど、流れていくタイムラインを見るのがすきなだけで、自分がだれかにいいねといってもらうことに興味はないみたいだった。
ただ気に入った場所で、気に入った瞬間を愉快に撮り、わたしたちだけに共有される思い出としてフォルダのなかに沈む。で、旅から帰ったら現像して、コルクボードに貼りつけたっていい。そういうたのしみかたが彼女はすきだし、わたしとしても気楽でよかった。
麦わら帽子のユナは、わたしのうでを掴んで、待ち遠しそうに行列の先をじっと見ている。男女のカップルにまじってこういう列に並ぶのも、いまでは慣れたことだった。むかしはまわりの目を気にしていたらしいユナも、最近はいまみたいにうでを組んでわたしのそばにいてくれる。彼女の汗と体温は、炎天下であっても不快ではない。
気温はゆうに三十度を超えていた。暑いのは得意なほうだが、それでも湿度が高く、立っているだけでこたえる。ユナはわたしを見上げて、「暑いね」と口を動かした。声は出していないが、四文字くらいならわたしにもわかる。なんだかんだ、わたしもこのごろになってようやく彼女の特技をコピーできるようになってきた。
ようやっと順番が回ってきて、ユナのスマホで写真撮影をした。ぎこちない笑顔でポーズをとったら、もっと笑って、と口パクされたので困った。表情が硬いのはむかしからだったが、インカメラに映ったわたしの顔は、もはや硬いというか死んでいた。こういう場での笑顔のつくりかたが、ちかごろ、よくわからない。それでも、彼女が笑ってというなら、懸命にやってみようと思う。わたしにはそれくらいしかできないから。