#2 ユナ②
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石を彫ることは、呪いに等しかった。そうしなければ、わたしは何者でもあれない気がしていた。
わたしの祖父は有名な石工で、その道のひとなら知らぬ者はいないほどの大家だった。とはいえ幼い時分、わたしはその名声を知らぬまま祖父の工房に通い、一心に製作に打ち込む姿を見つづけて、挙句、おなじ道を志していた。祖父が石を彫るのがなによりすきなように、わたしもまた、石彫の魅力にとりつかれていた。ただ、わたしはそれをしたいだけだった。無心に石を彫れたらよかった。
それがいつからか、呪いにすげかわっていた。きっと仕方のないことだったと思う。偉大な祖父の孫娘として期待され、確実に感じられる大袈裟なプレッシャーが、わたしの行為を規定していった。わたしの意思とは関係なしに。
祖父の有名なほどは、大学にはいってからだんだんと強く自覚せられたことだった。だれもがわたしと、わたしの作品を、祖父というフィルターを通して解釈した。最初は気にしないよう努めたが、いつまで経っても振り切ることのできない大きすぎる光を背に、わたしの影はずんずん濃くなるばかりだった。
わたしを、わたしの作品を、わたしそのままに理解してくれたのは、ユナと、齢六十の教授と、そしてひとりの院生さんだけだった。その院生さんは、名前をさつきさんといって、ずっと大学のアトリエに入り浸っている風変わりなひとだった。彼女は毎日のようにアトリエの一角に陣取って(あまりに毎日そこにいるので、実はアトリエに住んでいるとまでいわれていた)、ひとりずっと集中して石を彫っているので話しかけるひとはあまりいない。
でも、話してみると案外ひとあたりがよく、むしろ活発で明るい、ずいぶんとしゃべる女性だった。わたしもまた暇なときはアトリエに居座っていたので、彼女と居合わせることが多く、というかいつもおなじ場所にいたから自然と会話が発生し、すると意外に馬が合った。彼女はわたしの祖父のことを知っていたはずだが、とくに気にすることはなく、それが居心地よかった。たまに作業が行き詰まり、気分転換にふたりで丸椅子に座りながら駄弁っていると、彼女の顔にぴったりあったゴーグルの奥で瞳がやさしくきらめくのがすてきだった。
――そういえばいちど、彼女に警句を渡されたことがある。例にもれず、ふたりとも作業に行き詰って駄弁っていたときのことだ。さつきさんは軍手をはめた左手を握ったり開いたりしながら、「リコちゃんね」と淡泊にいった。
「たまに、見誤っているような気がするんだよね」
「見誤ってる?」
「そう。創作を……うん、見誤ってる。勘違いしてる?」
さつきさんは首を傾げて、もっと的確なことばがないか探しているようだった。それで、しばらく経って、あきらめて、
「リコちゃんのこと、わたし、すきだからね」と、照れもせずいった。「存在証明のために……ううん、存在否定のために、創作をしないでほしい。死んでほしくはないから」
そのとき、わたしは曖昧に肯くしかなかった。彼女の真意をわたしはまったく汲みとれなかったし、それは無理もなくて、そのころはまだ映画館に足繁く通うことができていた。
でも、いまならなんとなく、わかる気がする。わたしは祖父の影を突き放したかった。祖父がいなくてもわたしはわたしでいられると主張したかった。虚飾のわたしを否定して、何者かになりたかった。それは実のところ、自分のからだを深くふかく海の底に沈めていくような行為だった。浅瀬に潜り、海面にぼやける月の光を疎ましく思う。だからもっと息苦しく、暗い場所へと自分を沈めていく。息もできないまま、光のかけらも届かない、はてなき水圧に潰されるような場所へ。石彫はわたしを深海へと導く糸であって、わたしを殺すための呪いになっていた。
§
映画がおわると、どっと疲れたような気がして、シートから立ち上がるだけで重労働だった。からだじゅうにびっしりとはがねの鱗がはえたみたいで、関節が硬く、それをどうにか動かしてシアターを出た。
失敗したと思ったが、どう生きていてもかわらないから気にすることではなかった。わたしはおぼつかない足取りで車まで戻り、ここ数日でもっとも深い呼吸をしてエンジンをかけた。ハンドルを握る、その感触をたしかめる。エナメルのちっとも滑らかではないカバーをてのひらで包みこむ。かわらない。ギアをドライブにいれる。
陽の暮れかける黄色い空のした、車を走らせていると気分が落ち着いてきた。わたしにはずっとこわいことがあって、それはいつ車を運転できなくなるのか、ということだった。鑿が握れないだけでなく、もっと暮らしに支障をきたすようなことは存分にある。エレベーターに乗れないこと、テレビの笑い声が聞くに堪えないこと、夜に眠れないこと、朝に起きれないこと。生活のテンポが狂い、ユナがわたしの家にいない日は、ろくに食べないこともままある。化粧もせずに外を出歩くことも増えた。たまに足元を見なければ転ぶことがあって、しょっちゅううわの空になる。じゃんけんのルールを忘れる。感情がぷつんと途切れる。
いつ車を運転できなくなるのだろう。ハンドルを握ると、きまってその考えが浮かぶ。鑿を握ることができなくなったように、なにもかもが次第にままならなくなっていく恐怖がある。気を抜くと全身の筋肉が弛緩して、するともう二度と立てなくなるような気がする。漠然とした不安と未確定な希死念慮が脳を蝕み、肥っていく。
いま、わたしをこの場所に繋ぎとめているものが、平日のバイトと、なによりユナがそばにいるという事実だったのに、それを三日も取りあげられたことに気が狂いそうだった。ユナの肩を抱き寄せようにも、いまはとなりにいない彼女の姿を思い知らされて虚しくなる。わたしはいつのまにかずいぶん衰弱しきっているみたいだった。
アパートに着くと、そのまま蒸し暑い部屋に転がりこみ、冷房をつけてすぐソファに横たわった。息が微妙に荒く、額が熱かった。八月の暑さのせいなのか、ほんとうに熱が出たのかわからなかった。汗がしみでてくるのを感じながら、なにげなしにスマホを見ると、ユナから「無事着きました」と連絡がはいっていた。送信時刻はちょうど、映画館にいた時間だった。ずっと通知を切ったままにしておいたので気づけなかった。ラインを開き、既読をつけて、なにかスタンプで返信するとわたしはテーブルにスマホを放って、目を閉じた。町の喧騒が遠い水の向こうに閉じこめられて、ただ縦に歪むようなクマゼミの鳴き声だけがずっと近くに感じられた。眠りに落ちることはなかった。死んだように寝そべっているだけの、いまだ酷暑がやわらがない部屋で、しない心臓の音に耳を澄ます。
救急車のサイレンに目を開いた。暗がりのなかでけだるいからだを起こすと、薄いカーテンを抜けてざくろの皮を透かしたような赤い光が部屋に鋭く差しこんでいた。光はすこしのあいだその場所に停滞し、うろんな目でそれを見つめていると、やがてギラギラと揺らめいて消えていった。サイレンは鳴りやんでいた。
わたしは一秒だけ救われたような気がして、熱っぽさを孕むからだで立ちあがった。おぼつかない足取りで流し台までいくと、透明で質量を感じるグラスに水をいれ、飲み干した。絡まった糸くずを飲みこんだような喉元のつっかえる感じが、一瞬やわらいで、すぐに元通りになった。照明をつけないままソファに戻る。暗がりはわたしを見えにくくして、たまにすきになれた。
もういちどソファにうずくまる。時間がわからない。ずっと眠っていたスマホを持ちあげる。午後九時三十四分。眩しい光が目に突き刺さる。額に手を当てるとまだ熱い。通知を眺める。ユナから、「ごはん食べた?」とラインがきている。いまから一時間まえだ。
既読をつけ、「うん」と返信した。向こうの既読はすぐについた。で、「いくつか冷凍してあるからね」といわれた。すべて見透かされているみたいだった。
もういちど立ちあがる。熱があると自覚した途端、筋肉が急激にやる気を失って、やたらとからだが重くなる。冷凍庫を覗けば、たしかにいくつかつくりおきの料理がある。無思考でいちばんうえのものをとると、ハンバーグだった。このあいだユナがつくってくれた記憶がある。
レンジにいれてそのまま解凍する。まっているあいだ、わたしは台所の床にうずくまってレンジの稼働音を聞いていた。そのままうごけない。なにか恐ろしい無力感と虚脱感が四肢を硬直させて、精神が冷え冷えとしていくのがわかる。反面、からだは熱を保ち、永遠にまざりあわない温度どうしが狂おしいほどに混ざりあって、ひび割れそうだった。
スマホを見やると、またユナのラインがあって、「体調はどう?」と訊かれていた。いつもみたいに「まぁまぁ」と返す。既読がつく。わたしは、そのあと画面のまぶしさにためらって、すこしして「熱っぽい」と続けた。
「だいじょうぶ?」
「うん」わたしはぽつぽつ打ち込んでいく。「たいしたことないから」
「ほんとうに?」
「うん」咳をする。「そっちはどう? ゆっくりできてる?」
数テンポ遅れて、「おかげさまで」と返事がきた。よかった、と思って、また咳をした。喉が灼けるように痛い。
「あんまり無理しないでね」
また見透かすようなメッセージ。どこかにカメラでも仕込まれているんじゃないかと、つい笑ってしまう。液晶にぽつりと雫が落ちる。じんわりと視界が滲む。
血を吐くようにわたしは咳をして、それで堰を切って涙があふれてきた。てのひらからスマホが零れ落ちる。それが床に落ちる重い響きをなにかで聞いたような気がして、思わず顔を覆うと涙が指のあいだをすり抜けてジーンズにしみをつくった。咳の混じった嗚咽が両手を貫いてフロアに重く落ち、また咳をひとつ、ふたつとするたびに、骨という骨が軋みはじめて苦痛が走る。わたしの淀んだ内部から冷房に調整された外界に向かってばらばらとめくれるように崩壊していく感覚が、頭痛と痺れを引き起こして叫びだしてしまいそうだった。
ユナがいない日に泣くのは、はじめてではなかった。寂しく、世界にひとりぼっちでいる気がして、そのことを見えないあなたに笑われているような錯覚があって、どうにもならず泣いてしまうのだ。でも今日は、今日だけは、いつもと違う、死んでしまいたい、どうにもしたくない、虚無と無力と無価値さがわたしを刺し殺そうとして、命乞いのために泣いている。死神がそこにいる。そこにいるのだ。夜の暗がりに。
電子レンジがけたたましい音を立てても、わたしはずっと泣いていた。それがもういちど、わたしを忘れるな、さっさと開けろと電子音を奏でるから、わたしは耳をふさいだ。外から赤い光が空を切り裂くように差しこんでくる。救急車だ、と理性で思って、恐怖した。あれは死神の瞳だった。死神の赤い双眸だ。わたしは戦慄して耳をふさいだまま叫んだ。次第にすべてが、冷蔵庫の稼働音が、電子レンジの音が、冷房の送風するさまが、町にはびこる莫大な喧騒が、悪意をもってわたしを嘲笑しはじめる。手を叩き、腹を抱え、わたしを指さし罵っている。からだの震えが止まらない。背筋が冷え、氷点下の汗が全身を凍りづけにする。心臓がばくばくと脈打つ。わたしの血液がどれだけ無価値に循環しているかが怖い。わたしは何度も叫んだ。何度もなんども叫び続けた。喉が千切れるように痛み、もはや声帯が一寸もうごかなくなるまで、ずっと、ずっと、ずっとだった。
§
目を覚ましたのは、翌日の正午過ぎだった。視界の隅に壁掛け時計が見えたから、時刻がわかった。泣き喚いた夜、わたしは無意識のうちに眠りに落ちて、そのまま死んだように台所で横たわっていたみたいだった。
わたしは、からだの節々が痛むのと、そしてまず上体を起き上がらせることができないことを知った。そして全身の細胞が、ほとんどなんの感覚も掴めないことに気づいた。いま、わたしに存在するのは視覚のみで、ほかの感覚はおしなべて焼き滅ぼされているようだった。
わたしは――わたしはそれから、しばらくのあいだ、ずっとそうして壁掛け時計の針の動きを眺めていた。永遠にも等しい時間だったが、時計の針は進むので、まだ正気を保てた。
そうして、硬く冷たいフロアを感じはじめる。触覚が戻ってきた。やがてわたしは聴覚も取りもどしていることに気づいた。だれかが廊下を歩いてくる音が聞こえるのだ。しかし幻聴かもしれない、という微妙な絶望を裏返すように、リビングのドアが開かれる。驚いたようにひとが駆け寄ってくる。わたしのからだを抱き起こす。
「ぃこ、ぃこ!」
不安そうな、舌ったらずな、いじらしい声だ。わたしは朦朧とした意識のなかでユナの香りを感じ、嗅覚のうつくしさを知った。目の奥がじんわりあたたかくなって、それをだますようにわたしは、かすれた声で、
「はやかったね」と、ゆったりいった。ユナは目を瞠って、それから安堵の笑みを漏らし、わたしを抱きしめた。やわらかく、あたたかい彼女のからだに包まれると、わたしはようやく、わたし自身のこころのひどく真に冷えた部分を見つけることができた。そこに崩れ切った意味性の残骸がある。
わたしはユナの肩を借りて、どうにかソファに戻った。彼女はわたしの意識がはっきりしてきたのを確認すると、着替えかそれとも荷物の整理か、離れていこうとした。そんな彼女のワンピースを、わたしは掴んでいる。ほぼ反射だった。
ユナは眉を寄せて、口元を緩め、そのままわたしのとなりに腰かけた。そしてやさしく肩をあわせて、わたしの手を握り、すこしするとテーブルのうえのノートを取りあげる。
「会いたくて」と、見慣れたオレンジ色の字で、「はやめに帰ってきちゃった」
彼女は肩をすくめて、静謐に笑い、別の行に「気分はどう?」と続けた。わたしは、おそるおそる緑のボールペンに手を伸ばし、しっかりと握れることを確認する。カチっとノックするとペン先が出て、手を慣らすようにノートの端にミミズを走らせる。握ることもできるし、書くこともできる。まだだいじょうぶ。わたしは彼女の書いた発色のよいオレンジの文字に続くよう、「一緒に暮らそう」と書いた。彼女は数秒、静止した。ペン先を宙に浮かす。やがて軽やかにあどけない、デルフィニュームのような笑みを浮かべて、「うん」と書き記した。