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よるのまもの  作者: 維酉
2/8

#1 雨音②

 ユナと出会ったのは、わたしが大学一回生のころ、クリーニング屋でバイトをはじめてすぐのことだった。


 そのころわたしはたいていの業務を覚えつつあって、仕事に慣れを感じはじめていた。日の差す受付でひとり座り、いつものように衣服の仕分け作業をおこなっていると、そこにユナが来た。


 最初、彼女はほかの客とかわりなく見えた。ユナが依頼したのはなにかの催しで着たらしいすっきりとした意匠のスーツで、わたしは流れ作業のように受け付ける。料金を説明し、出来上がり日を告げる。ユナは肯き、鞄から財布をとりだそうとする。


 そのときのことは、いまでもまざまざと思い出せる。一瞬、財布をとりだすために顔を伏せた彼女の右耳に、白磁のような艶を帯びた補聴器がちらりと見えた。


 どきりとした。なぜかは知らないが後ろめたい気持ちがした。


 人形のように細い指で五千円札を抜きだすとき、ユナはわたしの視線が右耳に注がれていることに気づいたようだった。彼女は気を悪くするでもなく、ただふっと口元を緩めて、


「みみが、わるいんです、ちょっと」


 と、舌足らずに聞こえる口調でいった。わたしは、どう反応すればよいのかわからず、彼女が微笑んでくれるのに甘えて、五千円札を受け取るほかなかった。


 すると彼女は、レジ横に据えてあった百均のボールペンとメモ用紙を手にして、


「新人さんですか?」と書いて、見せてくれた。わたしが肯くと、

長良佑奈ながらゆなです。はじめまして」と。


 ユナさん? と、わたしは思わずそのまま口にして、ハッと思った。思っただけでなく、その気持ちはきちんとわたしの顔に出ていたようで、ユナはおかしそうに笑って、


「ユナでいいですよ」


 と静かに書きつけた。あとから聞いた話だが、彼女は短い言葉なら、口の動きでなにをいっているのかだいたいわかるらしかった。


「大学生ですか?」


 わたしは肯き、胸の前で人差し指を立て、一回生だと伝える。彼女はうれしそうに顔を綻ばせて、


「私とおなじ!」


 その丸っこくて愛らしい文字は、笑顔の静かな月のようにきらめく彼女によく似合っていた。わたしはもうすこし、その筆談を――実情は一方的に彼女が書いているだけだったが――続けたかった。ただ、そのときちょうど新しいお客さんが来て、代金の清算をしなければならなくなった。


 お釣りをわたしたあと、ユナは最後にペンをとって、


「三日後はいらっしゃいますか?」


 と訊ねてくれた。わたしは後先考えずに肯いた。彼女はもういちど笑顔になった。吸いこまれそうなえくぼが両頬に浮かんでいた。


 その後シフトを確認すると、三日後ははいっていなかった。わたしはオーナーに頼みこんで、無理やりシフトをねじ込ませた。おなじ昼下がりの時間帯、ユナは来た。連絡先を訊いたのはわたしだった。




 風呂から上がると、ユナは台所に立って炒め物をしていた。週の半分以上をうちで過ごすようになってから、ありがたいことに夕飯はほぼすべて彼女の手料理にかわった。自炊をろくにしないわたしより、いまではユナのほうが冷蔵庫の中身や調味料の減りに詳しい。


 さっきまで洗濯物が広がっていたテーブルには、飲みかけのコーヒーのはいったカップと数冊の旅行雑誌が置かれていた。そのうちの一冊を、それとなく手にとる。


 ぱらぱらめくりつつ、醤油の香ばしいにおいがする台所までさまよっていくと、ユナが気づいて一瞬だけ手を止める。で、わたしの手にある旅行雑誌の、付箋が張られていたところを開く。洒落た旅館の紹介記事で、瀬戸内海を一望できる露天風呂が自慢らしい。


「ここ、いきたいの?」


 顔を向けて訊ねると、ユナはこっくり肯いて、またフライパンに視線をうつした。わたしはソファまで戻り、深く腰掛けてざっと旅館の情報をひろいあげてみる。場所は……ここからなら、そう遠くない。高速にのって一時間といったところだろうか。


 わたしはスマホを持ちあげて、ついでにテーブルのうえのノートを開いた。筆談兼メモ用に据え置いているもので、最近、十冊を超えた。わたしは緑の、ユナはオレンジのボールペンで書くというきまりがある。


 旅館のホームページをスマホで検索して、さっと眺める。やはり一押しは露天風呂らしく、煽り文句としては果てしないオーシャンビューの景色、海に落ちる夕陽、エモーショナルでくつろぎのひととき……エモーショナルで、くつろぎ? そうか、そのふたつは両立しうるのか。ううん、そもそも、瀬戸内海のくせに、果てしないオーシャンビューなんて存在するのだろうか。さっき雑誌で見た写真には、でかでかと島が写り込んでいたような気もする。


 とはいえ、たしかに雰囲気はよく、ちょっとした旅行にはちょうどよさそうだった。客室もどうやら広々として居心地よさげであるし、あと気になることといえば、値段か。


 料金プランをざっと眺める。よかった、たまの贅沢だと割り切れば大学生でも充分に払える額だ。バイトのシフトを増やしたのも手伝って、最近はけっこう、潤沢な資金を得られているし。


 サイトを開いたまま、こんどはノートを手にとってぱらぱらページを繰る。で、見つけた。夏休みの予定。ついこのあいだ、近く来る長期休暇の過ごし方について、見開き二ページ使って会話していた。


 最初はなにか旅行にいきたいという話をしており、そのあといまのところの予定をお互い書き出した記憶がある。わたしは――まぁいまは年中夏休みみたいなものだから、とくに予定という予定はない。バイトのシフトも、長年オーナーと仲良くしているおかげで自由がきくのであまり気にしなくてもいいはずだ。重要なのはもちろん、ユナの予定。会話をさらって抜きだしてみる。


 ただ、見たところ彼女のほうもきまった予定はなさそうだった。八月の初週から夏季休業がはじまり、それからほとんどスケジュールは埋まっていないが、お盆には三日ほど帰省するつもりだという。であれば、お盆より先か、はたまた後にするか。八月、夏の盛りの旅行が身にこたえるなら、九月にはいってからでもよい。このあたりは、ユナのおこのみで。


 と、ユナが料理を運んできたので、いそいでテーブルを片付ける。ノートとペンは隅によせて、わたしもさっさと立ち上がり、冷蔵庫まで向かう。麦茶のはいったポットと生ドレッシングをとりだして、運ぶ。


 ユナはランチョンマットを敷いて皿を並べているところだった。わたしはコップにお茶をつぎながら夕食の支度にささやかな加勢をする。そのあいだに食事はまったく整然と用意されおわっていた。




 午後八時になっても、雨は止まなかった。親指でカーテンをやんわり開くと、窓には大粒の雨が吹きつけて、町のネオンライトをピンボケさせていた。梅雨のおわりに降る雨は、あとくされのないように目一杯、夜に沈む町を打ちつけている。


 ソファに戻ると、ユナが「雨、どう?」とノートに短く書いた。わたしは緑のボールペンで「ザーザー」と。


「明日の午後まで降るって」


 ユナはオレンジ色の文字でそう書いて、肩をすくめた。だとすると、面倒だ。明日は午前中にバイトのシフトがはいっている。わたしは左のてのひらでボールペンを転がし、それから、


「そういえば」と書きつける。「旅行、いつ行く?」


 わたしの、トメハネがなっていない文字を目で追って、ユナは首を傾げて、


「8/22」と。「誕生日」


 こんどはわたしが首を傾げる番だった。だれの誕生日かわからない。ユナは十二月うまれのはずだし、ほかにふたりで祝うようなひとも……


 あ、わたし? と、思わず口をついて出た。わたしの唇を見ていたユナは、あきれたように笑って、「誕生日」の次に「Dear Riko」と続けた。


 わたしは頬をかいて、力なく笑い返してみる。もう二十一歳になってしまう。なにか世界に置いていかれている気がする。ごまかすように、


「じゃあ、何泊する?」

「せっかくだし、二泊しようよ」

「わたしの運転でいい?」

「うん、ありがとう」


 最後にわたしが「予約しとくね」と書きつけて、すこし沈黙があった。いわゆる天使が通ったのを思いつつ、わたしはゆっくりとソファに背を深くあずける。窓の向こうからパガニーニの速弾きのような勢いで雨音がする。どうやら雨はさっきよりずっと強くなっているらしかった。となりでユナが文庫本を開く。わたしはひっそりと目を閉じる。

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