#1 雨音①
#1
何者にもなれないまま三か月が経った。気づけば梅雨にはいり、かと思えばもう閉じるころだった。日が暮れると雨が降る、それもうんと強い雨が降るというめったな天気予報を聞き流しながら、わたしは延々と服の仕分けを続けていた。
町のひっそりとした個人経営のクリーニング屋は、これで意外と繁盛していた。衣替えの時期も過ぎ、目の回るような繁忙期を最近こえたころではあったが、いうほど客足は遠のいていない。今日もそれなりに忙しい一日で、梅雨の鬱々とした季節に、手を動かす必要にせまられるのはうれしかった。
四月から大幅に増やしたシフトのおかげで、いまや店舗はわたしの第二の住処だった。カウンターに居座って客を待つか、奥で洗濯の手伝いをするかといった時間で、バイトがなければすっからかんの昼がうまる。ちいさなアパートの一室で餓死寸前のアザラシみたいに横たわるより、あたりまえだがずっと健全だった。
なににせよ、この三か月、平日はほぼずっと店舗に詰めているので、オーナーと数人の常連にはもはや社員だと思われている節があった。ここで働いて二年ちかく経っているのもあって、正社員に昇格したような扱いをうけているが、それは仕事の中身が面倒になっただけで給料に色がつくわけでもない。受付のみならず、洗濯業務のあれやこれまで覚えさせられ、裏方でも使いやすい実戦力として投入されるのにさほど時間はかからなかった。肉体労働は得意だった。仕事の苦はさほどないが、ただクリーニング工場の地獄の釜茹でめいた暑さだけは勘弁願いたかった。
暦のうえでは七月となり、ついに夏がはじまる、世間は熱にうかされ微妙な浮つく空気をたたえて、そのねっとりとした陽気にあてられそうだった。天気予報をおえたお昼のニュース番組は「いよいよ夏本番!……」と特集のコーナーを予告し、長いCMにはいる。通販の聞きなれた宣伝文句がはじまって、すこし気がおかしくなりそうだった。
たまに……自分がいま、なにをしているのか、わからなくなって、叫びだしそうになる。頻度がふえて、最近は、二、三日にいちど、ぜんぶ投げだしたくなって、どこか遠い場所に旅をしたい。ともすると、実にそれがよいのかもしれない。もうすこしして、バイトを辞めて、ちっとも知らないどこかの土地に逗留するのがちいさな夢だった。それで、はした金とからっぽの人生を無為にして、そのあとどうするかは、そのあとに決めよう。そのあとのことは、なにもわからないから。
いつもそこまで、とりとめもなく思いついたままに、計画ともいえない計画を立てていると突然いいようのない虚脱感に襲われて服を仕分ける手がとまる。あるいは、知らない土地に流れたわたしを想像して、その存在の完膚なきまでな空白さを思い知る。ちいさな夢は、ちいさな夢でおわる。それどころか、もはや夢の実体を得ぬまま、ぼんやりとした想念のなかに煙のように浮かんで空に薄まる。ようするに、……
CMが明け、特集がはじまった。夏の夜のおでかけスポットをランキングで紹介するコーナーだった。イルミネーション、花火大会、蛍祭り。わたしは服の仕分け作業を再開した。見知らぬひとの薄くやわらかな衣服に触れている時間が、ずっと続けばいいのにと思う。
§
去年の冬、わたしは石を彫ることができなくなった。鑿を握ることができなくなったのだ。けがをしたわけでもないのに、ある日、てのひらで鑿を握れなくなった。石材に刃を当て、ずっしりとした重みのあるハンマーで打ち込もうとした瞬間、異変に気づいた。
ちからがはいらない。
なんとなく、そう思った。束の間に、両手から鑿とハンマーがそれぞれ滑り落ちる。アトリエに響きわたった鈍い音がいったいなんなのか、わたしには一瞬わからなかった。
心配そうに駆け寄ってきた院生さんを見て、わたしはようやく、自分がなにをしでかしたのか理解しはじめた。それでも脳の回転はゆったりで、早朝の霧のように薄らぼけた思考が認識をことごとく阻害していた。
わたしは気にかけてくれる院生さんのことばも聞かずに、おそるおそる、鑿を持ちあげようとした。指先でしんと冷えた柄に触れ、それからてのひらで包みこみ、ゆっくりと上へ。だめだった。てのひらは簡単にほぐれて、滑り落ちた鑿がまた床を鳴らすだけだった。
どうして、とわたしは蚊の鳴くように独り言ちた。あたまが真っ白になり、心臓は暴れ馬となって淀んだ血を全身にいきわたらせていた。べっとりした冷たい汗が背中に噴きでていた。わからない。鑿が持てない。
わたしの製作は、その日、中断せざるを得なかった。院生さんの慰めを受けながら、わたしは床に膝をつけて、どうしようもなかった。目のまえの石材が海底に眠る沈没船のような灰色を帯びてたたずんでいた。
次の日、わたしは鑿を落とした。その次の日も、次の次の日も、無駄だった。わたしは石を彫ることができなくなった。
一週間後、夕間暮れのアトリエで、わたしは教授とふたりきりの面談をすることになった。この教授は、齢六十の背の高いしゃんとした女性で、きっちり整えた白い髪と鷹のように鋭い目が鋼鉄の強さを感じさせるひとだった。教授は丸椅子をふたつ出し、片方に座る。わたしはしばし躊躇して、違和感のないよう椅子をすこし後ろに引きながら距離をとって座った。するとすぐに、
「どうして」と、教授は端的に訊く。「どうして彫れないの」
責め立てるのではない、かといって過度に宥めるつもりもない、したたかな声音だった。
どうして彫ることができないのか……そんなこと、わたしが知りたかった。なんとなく偏頭痛がして、
「あの」と、ちいさく、「もう帰っていいですか」
教授は目を丸くして、それからため息を吐くと、首を縦に振った。わたしはぼんやりと立ち上がり、もはやあいさつもせずアトリエを立ち去るところだった。
軋む扉をあけると、教授は、
「羽田さん」と、丸椅子に座したまま、芯の通った声で、「ゆっくりお休みなさい。元気になったら、またここで、お話をしましょう」
わたしは教授を振りかえり、肯いた。帰り路、バスのなかでわたしは声を押し殺して泣いた。それからアトリエには顔を出さなかった。年を越して、四月からの休学を決めると、もはや大学に近づくこともなかった。
§
天気予報でいっていた通りの、ひどい土砂降りだった。折り畳みのちいさな傘では心もとなく、帰りのコンビニでビニル傘を買った。戦場を飛び交う弾丸のように大粒の雨は薄っぺらいビニルを散々に叩き、帰途を急かしてくる。いわれなくても、といった気持ちで、歩く足をはやめる。
アパートに着くと、スニーカーはぐしょぐしょで、服は不快なほど重たかった。傘を閉じ、階段で三階まで。エレベーターには乗れなくなった。それもちょうど去年の冬からだ。
五月まで通っていた精神科にも、このごろは足を向ける気になれなかった。あなたはがんばりすぎたんですと、たしかに何かの病名も診断されて、さらに薬もぎょうさんもらったが……帰路、みょうに現実感がなくてげんなりするだけだった。家について薬を飲んでもマシになったような感じはなくて、ただひたすら眠くなる。それでいつしかいかなくなった。面倒くさくなって。
だからきっと、わたしは現在進行形でだめになっているのだろうと思う。自分ではどうしようもなくわからないけれど、きっと。
ドアを開けると、玄関にはユナのサンダルがあった。きちんと揃えて隅に置いてある。雨の染みこんだソックスを脱ぎながら脱衣所までいくと、ちょうどユナが風呂場でお湯を張っているところだった。
ユナはわたしを視界に認めると、顔をほころばせて「おかえり」といった。舌足らずで、すこし聞き取りにくい調子だった。わたしは、はっきりと口の動きがわかるように「ただいま」と口にする。
「雨、すごいね」いうと、ユナは肯く。「逃げてきたの」ユナは首を横に振る。もとからうちに来るつもりだったらしい。
「濡れてない?」
ユナはまた首を横に振って、それからわたしを指さした。わたしは「たしかに」と笑って、そこらへんの棚からてきとうにタオルを引っ張りだす。ユナは満足げに肯き、うなじのあたりで緩くまとめた髪を揺らしながら、タッタとリビングに消えてしまう。
タオルで濡れた髪を乾かしながら、風呂が沸くのを待つあいだ、わたしもリビングのほうを覗くことにした。ユナは緑の多少抜けてきたソファに座り、ひとり静かに洗濯物を畳んでいる。近づくと、彼女は微笑んで、それからふいに思い出したようにノートとオレンジのボールペンをもつと、
「洗濯物」と丸っこい字で書きつけた。「外にあったよ」
「あ……ごめん」
ユナは、しかたないなぁ、とでもいいたげな顔で肩をすくめた。そうすると、わたしはペン立てのなかの緑のボールペンをとりあげ、
「今日は泊まっていくでしょ?」としたためる。
彼女は首肯して、それから音も立てずに微笑みを浮かべる。静謐で気品を湛えたその表情は、ユナの十八番だった。わたしは彼女のえくぼの浮かぶ頬に軽くキスをして、また風呂場にUターンした。