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果たして、森で例の人物が追われていた。
「違います違います私違います姫じゃないですー!」
ほとんどギャン泣きの様相で走り回るニィに追う者達は若干の戸惑いを胸にしていたようだったが、それでも特徴はアリビーナ姫のそれに違いない。
「姫、大丈夫ですよ、無体は致しませぬ! 大人しく付いてきてくだされればそれだけで!」
あまりの泣き様に思わず子供に言うように説得を重ねているが、結局はただの誘拐犯である。ニィは更に泣いて森の奥深くを複雑な螺旋を描くように逃げ回っていた。なかなか小回りが利いているが、先導が小動物であるから尚更だ。
徐々に怒りを隠さなくなってきた追跡者は懐に手を入れた。いずれかの薬を使いさえすれば、とにかくこの逃走劇は終わるだろう。狙いを定め、小瓶を掌に入れたまま大きく振り被り、投げる──!
同時、パ、と鮮やかな色が目の前に飛び出した。赤い色だ。それから、きらめく金。女──。
追跡者が自覚出来たのはそこまでだった。投げた筈の小瓶はしっかりと奪われ、鋭い鞭の鋒で胸を切り裂かれて絶命したからだ。
「眠り薬ですね」
「だ、姫!?」
くるくると小瓶を回し見ている女の特徴は姫のそれとまるきり一致している。困惑した刹那、腕が消えた。
「部外者を追うな、馬鹿者が」
振り返り様、刃が下からすらりと一閃。二人目が倒れたのに泡を食って三人目が飛び出すが時既に遅し、頭上から小刀が垂直に背を貫くではないか。
「あ、が……ッ!」
地に伏して痙攣する男を踏み付け、小刀を振り下ろしたリュカは「もう、今日で二人とか大収穫じゃねえか」と面倒臭そうに耳をほじるなどしている。平和な学生がなんてことだろうと溜息を吐くと、「イライーダ様ぁ!」と一際大きな声が上がった。
「ニィ、無事かい?」
「はい!」
ニィは「人違いだと言っているのに聞いてもらえなくて」と栗鼠を肩に乗せてべえべえ泣いている。あまりの泣き様に可愛い顔も台なしだが、イライーダは特に気にならないらしい。持っていた手巾で汚れに汚れた顔を拭いてやると、炭で描いたそばかすの滲みも綺麗に取れ、つるりとした白い顔が浮かんでいた。
「ち、ちが……」
「ちゃんと人違いだと言っていただろうに。可哀想に、聞く耳を持たない馬鹿の為に長い恐怖を味わったね」
手巾をそのままニィに預け、イライーダはくるくると剣を手慰みにしつつ倒れ伏した男に近寄った。頚椎を綺麗に撃たれた男は立ち上がることもままならず、目だけをぎょろりと動かしている。
「お前達、カッサンディスカの人間だろう。皇帝にでも娘を連れ戻せと言われたか」
「ぐ……」
「ほら、もう後もないんだ。素直に話せ」
ぐさりと掌を刺し抜かれ、男は呻いた。だがなかなか頑なだ、イライーダは楽しげに笑い、「魔女か?」と呟く。
途端の男の、青い顔ときたら!
「魔女?」
リュカが問うのにイライーダはうんとひとつ頷いた。路地で倒した男がそのように零していたのをきちんと記憶している。
と、「皇帝陛下だ!」と痛みにも似た叫び声が木霊した。
「姫達をただちに連れてこいと陛下が! 魔女様が!」
あああああああああ! 末期の叫びの様に吼え、男は動かぬ筈の身体を無闇に暴れさせる。それは男の抵抗というより──、〈本人の思わぬところで無理矢理動かされている〉という強制力にも似ていた。
「姫達、だと。どちらが狙いかな」
「思うに、真相としてはイーラでは? 私狙いならそのように命令すればいいだけ。どの場合でも抵抗するのならばイーラですから、イーラの為の武装ではないでしょうか」
さくさくと鞭を纏めるアリビーナを見ながら、リュカも「お前もこのくそのお守り、大変だな……」と呟いている。
「おや、わかっていたかい?」
「バレいでか。そもそもだ、姫が騎士より前に出るな」
「こらアリー」
「申し訳なく」
ぺこりと頭を垂れるアリビーナを視界に入れ、身体が四方に暴れたままの男は呆然と呟いた。
「どう、どういう……」
呻く男に、イライーダは剣を振り被った。最初で最後の、敵に対する慈悲である。
「すまないね。何も知らず、何も知らされず、無闇に呪われ捨てられた駒よ」
「わたくしこそがカッサンディスカ帝国の真なる直系、第一王女イライーダさ」
心の臓がひと突きされ、男は絶命した。明らかに致命傷だったが、手足はまだ緩く蠢いている。まるで別の生き物だろう。
「なんだこれ」
「多分、致死の呪いだな。思うに『己の立場がある程度明確になること』と『不利な状況になること』が引き金だ。路地の男はわたくしの、というかアリーのだが、一族の凋落を知っていた。それを口にしたことが第一の引き金になり、リュカに追い詰められたことで第二の引き金が引かれてわざと死に追い立てられた。今の男はその逆で、進退窮まる不利な状況で『魔女』と犯人の存在を告げられたので呪いが発動した、というわけさ」
「だから魔女か。誰かわかっているのか?」
「知らん。わたくしを狙う魔女ねえ……。知らぬ内に惚れられたかな?」
あーお前はそういう奴だよ! リュカが怒りの声を上げた、その時。
「この騒ぎをどうするおつもりで?」
木々の隙間からずるりと音がした。見遣ればゆっくりと顔を見せたのは一人の女性だ。……その背後に、大きな蛇を伴って。
「サリエン女史」
すっと学生である三人が頭を垂れる。一人慌てるニィは「初めまして、最近森にいらした方。貴方には害意がないと認められました為、今まで見過ごされて参りました」と告げられるのに、更に慌てて深く頭を下げた。
サリエン女史は女子寮の監督である。不出来な始末をした生徒を丸呑みにして引きずる、という噂は真実で、彼女に付いている蛇型の精霊がその役目を戴いているのだった。
「もう一度問いますか」
サリエンは無駄が好きではない。彼女が口を開く前にイライーダは背を正した。
「騒ぎにつきましては不可抗力でした、大変申し訳ございません。一学生として学園に対し、速やかな処理を求めます。こちらの他、街中にも一体。今頃憲兵に処理されている筈です」
「宜しい」
サリエンの指がパチンと鳴ると精霊がずるずると這って男達の死体を丸呑みにし出した。ニィが「ひぃ」と顔を覆うのにアリビーナが寄り添っている。見た目はともかく、監督の許可が出たことが一番だ。これで森も街も処理が行われ、暫くの時間稼ぎは可能だろう。
この街は中央学舎で成り立っているから、中央学舎からの指示であれば事件であっても容易に揉み消すことが出来る。勿論中央学舎は正当性を重んじるから、逆に言えば正当性がなければ全てに関わり合いを持たず、生徒は放逐されるという事実に変わりはない。
「また、わたくし共は一度中央学舎を去ろうと思います。母国では今何かが起こっていて、その一端としてわたくしを狙っている」
「ここは生徒に平等な学び舎です。どの国であろうと順当な手続きを取れないのなら拒否し、生徒を守ります」
「それが適うのならば重畳。しかし相手は予測も付かず、呪いで生命を扱うようです」
眉をひそめ、サリエンは精霊を見た。精霊は喉奥に男を詰めながら首を縦に振っている。
「サリエン女史。わたくし、イライーダ・カッサンディスカ、並びにアリビーナ・アディは学園法の緊急特例事項に則り、一時帰国を申請致します」
「……一時的であれば、戻るのですね?」
「わたくしは最終的には卒業を希望しておりますので」
にっこりと笑むイライーダにサリエンも笑みを返した。
「イライーダ、そしてアリビーナ。貴女達の本年の必要単位は既に取得済みです。卒業式に出られるのならば緊急特例事項に則り、本年中の一時帰国を許可致しましょう」
「有難うございます。また、それまで学生の安全を確保する為、わたくし共の行方の情報操作も願います」
「重ねて許可致しましょう。時にリュカ、貴方はどうしますか」
話を振られ、リュカも背をしならせた。どうにも、こうした女性には苦手意識があると見える。
「──俺の勘が指し示していたのはこういうことだったんだな」
都合がいいかはともかく、連れは出来たわけか。
ぽつりと嫌そうに呟いて、リュカは顔を上げるなりはきはきと口にした。
「リュカ・リビーロッテ、学園法緊急特例事項に則り、イライーダ・カッサンディスカ、並びにアリビーナ何某の監督役としての同行許可を求めます」
「必要性は?」
「中央学舎への報告役も兼ねますし、実際カッサンディスカ隣国の我が国もきな臭い動きを耳にしております。如何にしてか状況を確認せねばならないと思っていたところでしたし、勿論我が身に危険が及ぶと判断すれば帰還します」
リビーロッテ王国。その名は大陸中に、カッサンディスカとは真逆の意味で知られている。小国だが、侮られ侵略されることはまずない。むしろ保護されるべき国であろう。
美術芸術の保護者、リビーロッテ。全ての美の術に関わる者達の、正当な支援者の名である。
「二人と同様に許可致しましょう。しかし貴方の身は貴方一人のものに非らず。己の国とその他、秤にかけるべき時を間違えぬように」
「お言葉、有難く胸に刻みます」
うんと頷いてサリエンは精霊と共に眼前から去っていった。一息吐いて見てみれば辺りはすっかり黄昏時も過ぎ、夜の帳が落ちている。
「さあて、寮に戻って荷物を持ってこねばな。リュカ、旅支度はどうだい?」
「いつでも出れるようにはしてある。お前らこそどうなんだよ」
「こちらも同じさ。くそのような母国だといつ何があるかわからないからね。しかし寮内で少し時間を食う。待ち合わせは裏門に朝一番でお願いしたい」
さて。イライーダはくるりとニィに向き直った。今の今までほとんど蚊帳の外だったニィは、しかし会話の全てを耳にしている。今ここにいる三人がどういう立場の人間であるかも、自分が何故人違いで追われていたのかも。
「ニィ。もし行き場がないのならば、わたくし達に付いてはこないかい?」
「えっ」
「わたくしの想像でものを言うが、ニィ、貴方はローデレイクの人間では?」
「あぁ? ローデレイクゥ?」
リュカが唸るような声を上げるのも無理はない。ローデレイクは森に覆われた戦士の国で、その国民性たるや正に戦士に相応しく筋骨隆々、力こそが正義というような脳筋の国なのである。
つまり、この線が細く、それこそ滝のように泣き喚く人間が育つようには思われない。
「気の所為じゃねえの?」
「ちゃんと理由もあるさ。ローデレイクは今でこそ脳筋……戦士の国だが、昔は別の名で呼ばれていた。〈獣使いの国〉とね」
その別称にニィは大きく息を吐いて、手渡されていた手巾で今一度顔を拭った。そうしてからきりりと上げた顔はやはり可愛らしさが勝るけれど、それでも覚悟が見て取れる。
「申し遅れました。私の名はニルス・ローデレイク。前王妾腹の王子になります」
「ゲッッホ!」
間髪を容れずリュカが咽せた。然もありなん、ニィことニルスはとてつもない美少女なのである。……完全無欠の美少女面なのである!
「ゆえあって……国を追われております。私は王位など微塵も関心がないのですが……」
「脳筋には伝わらないということですか」
アリビーナがぴしゃりと言うのに、リュカは「お前、取り繕うことがなくなった途端に厳しいな……」と苦々しく付け足した。
「私はこうした可愛らしい子達と平穏に暮らせればそれで十分でした。母と、爺と、それだけで」
それでも兄達には伝わりません。私は争わぬ代わりにただただ逃げることを選びました。
「それでも、いつまでも追っ手がかかります。……きっと、私も覚悟をすべき時なのでしょう」
するりと頭を押し付けてくる子鹿を撫で、ニルスは強くイライーダを見つめた。
「お連れいただけますか、イライーダ様。足手纏いではございましょう。けれど荒れた地を往くようなことがございましても、決して不平は口にせぬとお約束致します」
「こちらこそ。安心したまえ、ニルス・ローデレイク」
「お前様の愛らしさ、わたくしにとりこの世の黄金以上に価値のあるものさ」
「はわわわわわわわ」
またしても足腰を砕けさせたニルスをイライーダは笑顔で抱き留めた。アリビーナが無表情で拍手を送るそこ、リュカが水を逆流させてしまったような顔をして鼻っ柱を押さえている。
「リュカ、お前の勘ではどうだい? ニィを連れていくのは問題があるか?」
笑顔で問うイライーダに、リュカはほとんど吼えるように答えた。
「問題がねえから困ってんだよ!」
***
翌朝早く、四人は揃って大陸中央学舎を後にした。
「ほんっとこの面子ヤダ……」
一晩を経て若干冷静になってしまったがゆえに呻くリュカの言い分は、これまたどうして正当性が高いものである。何せ高身長で体格に恵まれたイライーダの他は低身長の可愛らしい三人なのだ。男二人女二人の四人組である筈なのに、完全に女を侍らすイライーダという図にしか見えない。
「そう言うなリュカ、膨れっ面も可愛いだけだぞ」
「吐きそうだからそういうことはニルスだけに言え。……昨日は女子寮でそういう風に言い包めてきたのか」
睨むリュカをして「失礼な。皆にお願いをしてきただけさ」とイライーダは肩を竦める。
夜中の出立とならなかった昨日、イライーダ達は女子寮内で全女子生徒を集め、言葉巧みに扇動したのだ。曰く、「これから諸事情あって内密に帝国に帰らなければならなくなった。しかしわたくし達は必ずや皆と卒業したく思っている為、何をしようともここに戻ってくるつもりでいる。だから貴女達にも協力を願いたい。頼まれてくれるだろうか?」と。
女子生徒達はイライーダの不在を大いに悲しんだ。けれど、何よりもイライーダが自分達との卒業を願ってくれているその気持ちに感謝し、イライーダの願いを聞き入れたのだ。
つまり、イライーダ達が〈確かに中央学舎にいる〉という、印象操作である。
「有難う」
「宜しくてよイライーダ様!」
「お帰りをお待ちしておりますわ!」
「ええ、必ずや!」
この年、特に女子生徒の単位取得率が大幅に上がり、卒業者予定者が歴代一位になったと寮監督は記録している。
「詐欺師め……」
ぼやくリュカを笑い、イライーダは黄金の髪を閃かせて大地を蹴った。
目指すは母国、カッサンディスカ帝国王宮。
これがのちにカッサンディスカ帝国女帝・黄金のイライーダと称される女の、旅立ちの記録である。