灯台下暗
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
享保の頃の江戸の町は、今よりも、人の顔が穏やかで、皆、優しく慈愛に満ちた顔つきをしていたように思われます。それでも、ただ、人々は、皆、その日その日を、懸命に生きていたのではないでしょうか。
日暮れ前から、空が曇り始めました。しとしとと、寒さに冷やされた雨粒が落ちて来て、私の肩を濡らしました。
「延之助様。それではまた。」
「ああ。では。お園殿もまた。」
二百石にも満たない御家人の延之助様と、私とは、父親同士の仲で結ばれた許嫁でございました。
「ああ。今日も言い忘れてしまいました。」
表から玄関に上がった私は、そこで行き合った母にぼやきました。
「殿方にお送り頂いたときは、お礼を申し上げなさい。」
「ええ。申し訳ございません。母上。」
「あなたと延之助殿とは、赤子の時からの付き合いとは申せ、もう子どもではないのですから。」
「母上の仰る通りにございます。今後、会ったときにはきっと。」
「そう言って、もう何度目でしょうか。お礼を言うくらいで、そのように恥ずかしがっていては、夫婦になってからなど、どうするのでございます。」
母が言った夫婦という言葉に赤面してしまった私は、そのまま、何も言わずに、奥へと引っ込みました。
「この度、某、勘定役を仰せ付けられましてございます。」
しばらくしてから、延之助様は、そのようなことを申し上げに、私たちのお屋敷まで、わざわざ、足を運んで来られました。
「勘定役に上がるなど、たいしたことだな。延之助。其方の亡き父も、きっと喜んでおるだろうよ。」
「任期は五年。その間、禄高は、二百石加増との仰せにございます。」
「足高される訳だな。」
「左様にございます。」
父と食事を共にしておりました延之助様は、そのような話をされておいででした。それというのは、当時の私には、詳らかには存知ませんでしたが、その頃の公方様が仰せ出された足高の制のことであったと思います。
その日、そのことで、父と延之助様は、お互いに、とても喜んでいたのを覚えております。当の私はというと、それが何のことやらも知らずに、ただ、薄い微笑みを上げておるだけにございました。然れど、その一方で、母だけは、何故か、厳しく何かを問い掛けるような眼差しをしておりました。
月日が経ちました。毎日、延之助様は、勘定所で、お勤めをしておりました。その仕事振りも、周囲には、評判も良く、頼りにされていた様子にございました。
「爛眼にございますな。」
その頃の私は、眼病を患っておりました。年の暮れから、膿が止まらず、医者の手にかかり、薬を飲みながら、年を越しました。しかし、春になっても、治らずにおりました。そして、気付いたときには、両眼の光を失っておりました。
「お方様は、お出かけにございます。」
老女の世話を受けながら、私は、生きておりました。母は、よく、神仏へ願掛けに行っておりました。父の方も、また、何をしているのやら分かりません。今まで、慣れ親しんだお屋敷の中が、まるで冷たい暗い一枚の板の間になったように、私は感じました。そして、いつの間にか、ふだん、よくお顔を見せに来られていた延之助様のお声を聞くこともなくなってしまいました。
「此度は、実に目出度い。」
春になり、祝言が行われました。某のことを気に入られた勘定所の上役からの縁談でございました。
「来年で、其方の任期は終わる。だが、これで、もう心配はいらぬ。」
「有難き御言葉にございまする。」
「千代も、良き夫をもらったものだ。延之助殿は、ゆくゆくは、勘定所の方も、拙者の跡目を継いでもらうことになろう。」
「はは。」
宴は過ぎて行きました。屋敷の周りは静かでございました。宴席故、襖の開け放たれ隣の座敷では、誰もおらず、ただ、灯台の灯りだけが、暗がりの中に灯ってござった。その中で、某は、何故か、この己の安泰した行く末に満足しつつ、灯台の灯りだけを見ておりました。
春が過ぎて、夏が来ました。やがて、秋になり、冬が過ぎ、また、春がやって来ました。それでも、相変わらず、某は勘定所に勤めておりました。屋敷に帰れば、妻と生まれたばかりの赤子が待っております。
「また、灯りが灯っておる。」
「父上のお言い付けにございます。」
傍らの座敷の襖は、相変わらず、開け放たれておりました。そして、いつも、誰もおらず、灯台の灯りだけが灯っております。某は、その灯りを見ると、何故か、暗い気持ちになりました。憂鬱になりました。ただ、出世の道を邁進すれば良いだけの己の人生に、何故かその灯台の灯りだけは、いつも、暗い影を落とすような気がしておりました。
「爛眼にございますな。」
年の暮れが迫る頃、眼から膿が出始めて、それが止まらず、ついに、医者に掛かりましたが、それでも止まらず、そのまま、年を越して、正月を迎えました。後は、お察しの通りにございます。いつの間にか、某は、両眼の光を失っておりました。
「おい。誰かおらぬか。」
妻子と離縁し、勘定役も解任となり、禄高は元の二百石に戻りました。その少なくとも、何とか生きて行けるだけの禄を食みながら、冷たい一枚の板の間のようになった己の屋敷で、世話を受けながら、某は、何とか己の周りを見ようとしております。
「お呼びにございますか。」
そのような有様で、某には、暗闇の中で、遠くに、微かに灯りが見えるのでございます。
「灯りを此方へ。」
しかし、暗闇を照らそうと灯りを近づければ、近づける程、それは遠くに、見えなくなってしまうのでございます。
「どうぞ。」
「うむ。」
かつての己は、灯りに集う羽虫だったのかも知れませぬ。しかし、羽虫は羽虫で、灯りの近くに行けば行くほど、却って、その灯りの下にある暗がりが見えなくなるようにございます。斯様な境遇にも、あるいは、羽虫は、その暗闇を気にすることもなく、輝かしい灯りに向かって、己の羽ばたきを続ければ良いのかも知れませぬ。然れど、己は、自らの足下に、未だ、その暗闇のあることを知ったのでございます。
いついかなる時も、そのことを忘れずにいたときも、忘れてしまったときも、常に、己の足下には暗闇がございました。そして、ひょんなことから、羽を失い、再び、灯台の下の暗がりに、ぽとんと落ちることができました。
「おお。明るくなった。有り難い。」
「いいえ。私こそ、延之助様にお礼を言わせて下さいませ。有難うございまする。」
灯りに向かう羽虫も、地面で、じたばたと、もがく羽虫も、共に、掛け替えのない素晴らしいものだと思うのでございます。
しかし、拙者は、灯りに向かって、焼け焦げてしまう前に、冷たい暗闇の安息の中で、また、いつかあの頃と同じように、己の羽を休めることができるのを、この上なく、とても、うれしく喜ばしい、幸せなことなのだと思うのでございます。