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停まるもの

作者: のい

遠くから、電車の走る音が聞こえた──ような気がする。


まだ、小学校低学年の頃のことだったと思う。実家の近く──両脇を畑に囲まれた田舎道を、祖母に手を引かれ歩いていた。

その田舎道と交差するようにローカル路線が走っていて、畑の中を横断するように線路が伸びている。

時刻は夕方。線路沿いに並んだ住宅の向こう側へ傾いた太陽が、空を橙色に染め上げていた。


「昔、この辺りには駅があったんだよ」


踏切を渡っている途中で、祖母が立ち止まって言った。

祖母の見つめる先には、住宅の間を緩やかにカーブしながら抜けていく線路が、隣駅の方へ向かって伸びている。

なるほど、言われてみれば確かに──線路の両脇には土地が不自然に余っていて、周囲に比べ土が盛り上がっているように見える。恐らく、乗降ホームがあった名残だろう。

なんて考えられるのは僕がすっかり大人になったからで。当時の僕は興味もなさそうに「へえ」と相槌を打ちながら、その日の夕飯の献立は何かな、とか関係ないことを考えていたはずだ。


「だけどね、戦争をやってる頃に駅はなくなっちゃったの。取り壊されて、廃止になっちゃった」


「どうしてなくなっちゃったの?」


再び歩き出した祖母に手を引かれながら、幼い僕が問いかける。ここに駅があったら、もっと遠くまで遊びに行けただろうな、なんて思いながら。

祖母は「そうだねえ」と目を細めた。踏切を越えて線路の向こう側へ来ると、一面畑だった景色は変わり、整備された区画に似たような形の家が整然と立ち並んでいる。


「使う人が少なかったの。この辺は昔、もっと田舎だったから」


歩いているうちに──背後で、警報機がけたたましい音を立てて鳴り始めた。

僕と祖母はまた立ち止まって、振り返る。赤色のランプが点滅して、誰もいない踏切を、遮断機のトラ柄のバーがゆっくりと降りていく。


「でもね」


祖母がぽつりと呟く。


「駅がなくなったのは、それだけが理由じゃないの」


「ふうん」


僕はじっと踏切を見つめて、電車の通過を待っている。祖母の話は、既に関心もなくどこ吹く風。

適当な相槌を打ちながら、ここを通るのはどんな電車だったっけ、とローカル線の車体を脳裏に思い浮かべようとする。


「その駅ができるよりも、鉄道が走るよりも、もっと前──ここには大きな門のある、お侍さんのお屋敷があってねえ」


カンカンカンカン……逢魔が時の空に、繰り返し警報音が鳴り響く。

二人の影が、アスファルトで舗装された道路に黒く、長く伸びている。遠くから、電車の走る音が近づいてくる。


「だから、なんだろうけどねえ。駅に、あれが停まるようになって──みんな怖がっちゃって。だから駅を取り壊したの」


車輪とレールの擦れる音、車体の軋む音、地響きの音。それに加えて──うめき声のような低い音と、甲高い悲鳴のような音が、混ざりあいながら次第にこちらへ近づいてくる。

電車って、あんな音を出したっけ……、本当に、今からやってくるのは電車なのだろうかと、幼いながらに疑問が脳裏をよぎった。


「あれはねえ、通過する分にはいいんだけど。停まっちゃうと、やっぱり降りてきたり、色々とねえ……」


独り言のように、淡々と呟き続ける祖母。なんだか、その様子に薄ら気味の悪いものを感じて。


「……あれ、ってなに?」


問いながら、祖母のほうを振り返る。祖母はぽかんと口を半開きにして、胡乱な瞳で踏切を見上げている。

いつも毅然とした表情の祖母がそんな顔をしているところを、僕は初めて見た。心ここにあらず──と言った様子のまま、ゆっくりと右手を上げて、踏切を指さす。


「あれ、っていうのは──」


ごうっ、と風を切る音が聞こえて、より一層地面が揺れて。黒板を爪でひっかいたような音を立てながら、僕の背後、踏切を何かが通過する。

幾百人ものうめき声と悲鳴が混ざり合ったような、奇怪な声を発しながら。明らかに、電車ではない何かが。線路の上を、凄まじい勢いで駆け抜けていく。


「ほら」


祖母に促されるまま、強張った首をゆっくりと巡らせて。僕は、踏切を振り返る。

視界の端に、何かの影が映る。目と目が合うと、祖母の言う「あれ」は、僕を嘲笑うように……ケタケタと、不気味な笑い声を上げて──。



そんな10年以上も昔のことを思い出したのは、3月のとある土曜日、土曜だというのに仕事があった日の、帰りの電車の中でのことだった。

当時の空の色だとか、祖母の表情だとか、一つ一つの音だとか──そう言った細かいところまで鮮明に脳裏に思い浮かべることができるのに、その踏切で見たものがなんだったのかは全く思い出すことができない。

加えて今この瞬間まで、その出来事をすっかり忘れていたというのも不思議な話だった。仄暗い心の奥底から10年ぶりに浮かび上がってきた記憶が、こうも明瞭だというのは信じがたい、のだが。

目下の問題はそこではない──過ぎ去ってしまった過去ではなく、今僕が目にしている光景の中にある。


「……知らないな、この駅」


毎日、通勤に使用しているY線。都心の交通の要として、日夜を問わず大勢の乗客を運んでいる路線だ。

つい今朝も、「週末だけあって流石に乗客が少ないな」なんて思いながら、会社のあるH駅まで乗ったばかり。

だというのに──僕は今、乗っている電車が停まっている駅を知らない。これまで乗ってきた中で、停車した記憶はもちろん、通過した記憶すらない。車窓に移る景色はもちろん、駅名にすら覚えがない。

もしかして、新駅ができるという話を、僕が知らなかっただけなのだろうか──仮にそうだったとしても、車窓から駅ができていく過程を見ているはずだし、少なくとも何らかの情報を耳にするはず。

知らないうちに、気づかないうちに新駅が出来ていた、なんてのは正直あり得ないことだ。しかし事実として、今僕が乗っている電車は、僕の知らない駅に停車している。

それとなく、車内にいる他の乗客の様子を窺ってみる。ちらほらと空席が目立つほどの混雑率、どの乗客も、手元のスマホを食い入るように見つめていて、停車中の駅に違和感を覚えている様子の人はいない。


「……うーん」


駅名標に書かれた「T駅」というその名前は、何度見ても思い当たる情報はなく。

そうこうしているうちに、発車ベルが鳴り響いて、乗降扉が音を立てながら閉まる。ゆっくりと電車は動き出し、次の駅に向けて速度を上げていく。車窓を流れていく真新しいホームの上に、人の姿は見受けられない。


「──次はS駅、次はS駅」


アナウンスされた名前は、僕もよく知るいつもの停車駅。

首をよじって後方を振り返る。だんだんと遠ざかっていくT駅のホームが、闇の中に溶けるように小さくなっていく。

スマホを取り出して、「T駅」をインターネット検索にかける。次いで、SNSでも同様に検索する。

けれど、広い情報の大海の中ですら、「T駅」に関連するものを見つけられず。

背中に何か、うすら寒いものを感じながら──電車は、S駅のホームに滑り込んでいった。



──という話を夕食中、同棲中の彼女にしたところ。「ああ」と何か思い当たる節があるように、小さく声を上げた。


「そういえば、今日だったね……T駅の開業」


周知の事実、と言わんばかりに。なんでもないことのような口ぶりで、彼女は米を頬張りながら言った。


「そんな話あったっけ。駅ができるなんて聞いたことがないような気がするけど」


そう首を傾げると、彼女は訝し気な表情で僕のほうを見た。「何言ってるの?」と、言葉はなくともその顔が物語っている。


「確かにメディアでは取り上げられないけど、有名な話じゃん。数年前から話は出てたし、工事もここ一年くらいやってたはずだよ」


どれだけ頭を捻っても、思い当たる節はない。そして、彼女の何気ないその一言の中で──メディアでは取り上げられない、という点が、喉元に刺さった魚の小骨のように、心に違和感を残す。

都内の主要路線に新駅ができるというのに、どのメディアも取り上げないなんてことがあるのだろうか?

まして、インターネット社会の現代において、どのSNSでも情報を掴むことができないというのに──現実での噂話だけで、話が広まっていくなんてことがあり得るのか。


「まあ、みんなあんまり口に出したがらないよね──あの駅のことは。新設した理由があれだもんね」


一人納得したように呟き続ける彼女の顔を見ると、胡乱な瞳で、ぼんやりと虚空を見つめていて。

不意にその様子が、10年前の記憶の中の、踏切を見つめる祖母のものと重なった。


「なあ、ちょっと待って……さっぱりなんのことかわからないんだけど」


嫌な空気が流れ始めた様な気がして、彼女の呟きを遮ると、「……本気で言ってる?」と、まるで僕の頭がおかしくなってしまったのではないかと、そう心配するような素振りを見せる。


「あんな場所にわざわざ駅を作るなんて、ひとつしか理由がないじゃん」


食べ終えた食器を重ねながら、彼女はなんだか、決まりの悪そうな顔をして。コップに入った麦茶の残りを一息に飲み干してから、絞り出すような声で続けた。


「──あれを停めるため、でしょ」


踏切の警告音が、電車ではない「何か」がやってくる音が、ケタケタと笑い声が聞こえる──ような気がして、僕は思わず頭を振った。

10年前のあの日の夕方、僕が見た何か。祖母の言う、「あれ」。それが何だったのか、思い出すことはできないけれど。

僕の記憶の中に、ぼんやりとした影となって残り続ける「あれ」と、彼女の言う「あれ」が、同一であるような、そんな気がして。


「……あれ、ってなに?」


僕は彼女に問いかけた。

けれど、彼女はそれに応えなかった。無表情で黙ったまま、重ねた食器を持って、台所へと引っ込んでしまった。



それきり彼女はT駅の話をしなかった。こちらから話題に出しても、曖昧に濁して、すぐさま別の話にすり替えたり、ふらっと席を立ってしまうばかりだった。

会社の同僚や友人など、僕の周りでT駅の話をしているような人間はおらず、僕が話題に出すと、決まって微妙な空気が流れてしまう。

だから、意識的に、その駅の名を口に出すのをやめて、気にしないように努めていたのだけれど。

だけれど、毎日朝と夜、通勤退勤の途中、乗った電車がT駅のホームに到着するたび──僕は無意識のうちに、窓の外に視線を上げてしまうのだ。

どんな駅舎なのか。駅の周囲はどうなっているのか。この駅ができた理由。メディアに取り上げられない理由。

T駅に関する興味と、好奇心。それから感じる不気味さが、心の中でぐるぐると渦巻いて、日を追うごとに大きくなっていく。



そして、ついに。開業から一週間ほどが経過した金曜日の夕方──僕はT駅のホームへと降り立った。

週末にしては珍しく早く仕事が片付き、ほぼ定時で退社したため、日はまだ沈んでいない。

背中に突き刺さる不躾な視線をひしひしと感じながら、僕は電車を降りた。見回しても、僕以外に降りた客はいないようだ。もっとも、これまでこの駅に降りた人も、乗ってきた人も見たことなかったが。

閑散とした中、電車の発車メロディが響いて、ホームドアと乗降ドアが音を立てながら閉まる。電車が出て行ってしまうと、ホームの上には僕だけが残された。


「……さすがに、新しいな」


誰もいないホームを歩く。敷き詰められた木目調のタイルには、微塵の汚れも見当たらない。よっぽど清掃が行き届いているのか、はたまた利用客がいないのか……。

ホームの端まで行くと、Y線の線路が、緩やかなカーブを描いて隣の駅へと続いている。僕がさっきまで乗っていた電車の姿はもう見えない。夕陽を浴びたビルの群れが、橙色に染まっている。

踵を返し、エスカレーターに乗って二階へ上がった。駅構内は二階建てになっていて、一階部分が乗降ホーム、二階部分がロータリーと改札口になっているようだった。

しかしホームと同じく、二階にも乗客の姿はない。改札横の駅員室に、若い男の駅員が一人、所在なさげに立っているだけ。

二階の壁は全面ガラス張りになっていて、夕陽に浴びた都会の街並みを一望できる。しかし、駅舎に対し大きめに作られた屋根が光を遮っているせいか、駅構内はやや暗い印象を受けた。

壁や柱の構成にはスギの木材が多く使われていて、仄かにスギの木の香りが辺りに漂っている。どこかお寺の講堂を連想させる、そんな匂い。

ロータリーは吹き抜けになっていて、眼下にホームと線路を望むことができる。ぼんやりと、視界の先まで伸びた線路を見つめていると──どちらからか、電車が来る音が聞こえた。

線路の軋む音が、凸凹に作られた高い天井まで響いて。滑り込むように、新しい電車がホームに滑り込んでくる。


「……ひっ」


短い悲鳴が背後から聞こえた。振り返ってみれば、一人しかいない駅員が、真っ青な顔色で──怯えたような様子で、カタカタと身を震わせている。

しばらくホームにとどまった電車は、誰も吐き出さず、誰も飲み込まないまま、ゆっくりとホームを旅立っていった。電車がホームからいなくなると、安堵したように駅員はため息を吐いた。



さして広くない駅構内の探索を終えて、改札の外に出た。

地上へ出て、何もない、がらんとした駅前ロータリーを歩く。左手には広大な空き地、右手には駅舎。伸びた車路は、突き当りで左に折れて、ビル街と大通りに通じているようだ。

線路沿いに並んだ風力発電機が、夕風にくるくると回っていた。なんとなしに、駅舎を振り仰ぐ──夕焼けを背に、白い屋根の、木製ベースの建物が悠然と聳え立っている。


「……なんだか、神殿みたいだな」


屋根の形状や外観など、僕のよく知る駅舎のどれとも大きくかけ離れていて、ついそんな感想を抱いた。

車路を進んで、大通りの交差点へ出た。そのまま、特に理由もなく大通りを北上していく。駅周辺の静寂が嘘のように、絶え間なく走る車の群れ。この通りの下には地下鉄が走っていて、少し歩いた先には地下鉄S駅の地上出口がある。

細い歩道を、飛び石のように続くビルの影を踏みながら進むと──車道と歩道の間に、不自然な空き地があって、鬱蒼と緑が生い茂っているのが見えた。なんだろう、と疑問に思いながら近づいていく。

まっすぐだった歩道が歪曲し、緑を避けるようにして続いていて、一部分だけ島のように残された石垣の周りを、背の高い雑草と木々が覆っている。

雑草の合間から生えた、古びた看板に近づいて見ると──「T大木戸跡」と書かれていた。

説明書きを読んでみる限り、どうやらかつて、ここには江戸内外を区切る関所が設置されていて、大きな門があったのだということがわかる。


「門、か」


そういえば。祖母はあの時言った──「その駅ができるよりも、鉄道が走るよりも、もっと前──ここには大きな門のある、お侍さんのお屋敷があってねえ」。

彼女は言った──T駅は「あれ」を停めるために作られた駅だと。

二つの駅の共通点。駅の周辺に、かつて大きな門があったこと。そして、電車ではない何か……「あれ」が停まること。

全く異なった場所で、奇妙なまでに共通した点と点が、一本の線を結ぶように繋がっていく。まるで、駅と駅の間を走る線路のように。

その線路の上を、電車ではない、何かが走っていく。奇妙な音を立てながら。不気味な声を上げながら……。



もうすっかり日も暮れて、夜の帳が下りたT駅のホーム。

一人、帰りの電車を待っていた。

遠くから、電車の来る音が聞こえる──ような気がする。

レールの軋む音、地面の揺らぐ音。段々と近づいてくるその音の中に聞こえる、うめき声と悲鳴、それから笑い声。

幼き日の記憶と今見ている光景が、重なり合う。しかし、唯一違うのは……今近づいてくる「それ」は、通過しない。

減速しながら、「それ」は駅のホームへ滑り込んでくる。より一層、大きな笑い声を上げながら──。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] もしかして、「あれ」っていうのは侍の霊のことですか? それとも侍に殺された人の霊のことですか? 謎の残るお話でした。 書いてくださりありがとうございました。
2020/08/31 21:19 退会済み
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